番外 告知 浅田彰講演会 「『普遍的知識人』の時代は終わったか?」

番外 告知 浅田彰講演会 「『普遍的知識人』の時代は終わったか?」


11月19日 立命館大学 詳しくは https://twitter.com/kato_shuichi を参照のこと

こりゃ、浅田彰ならではの、加藤周一の知られざるゴシップ話がいろいろと聞けそうだ! しかも、入場料が無料ですって! これは浅田彰が限りなく無料に近い講演料で、この講演を引き受けたことを意味するわけだけれど、このあたりが、浅田彰の凄いところです。脱帽。

浅田彰は、近所の小学生がからかうような「ちっちゃな乞食のおじちゃん」ではなかった!

福田和也が、浅田彰を「日本、いや、世界中見渡しても、彼以上の知識人は今いない」と誉めるその理由に「fairな人だから」と言っていたけれど、まったくもって同感。福田は浅田彰から、雑誌等で、「石原慎太郎なんかに媚びちゃって」などと何度もボロクソに貶されているのに、表面上は全く気にしないそぶりででつき合い続け、浅田と見事に調息の合った対談もこなし、彰も福田和也が相手のときは、弾けたようにいきいきと話す。国内では、福田和也はいまや浅田彰の最も良き理解者のひとりでしょう。

渋谷のNHKの音楽番組の録画の最中、不整脈で浅田彰が倒れ、入院先の病院を福田和也が訪問して病室で行ったときの二人の対談が面白い。★

浅田彰が「ブーレーズとケージの話をしているところだったのだけれど、内容的にはその前のマーラーからベルクへというところで倒れるべきだった」といきなり高尚なジョークから話を始めるのだけど、相手が福田和也だからそのように切り出した、という前提があるわけで、相手が加藤周一だったら(話が通じない可能性があるので)言わなかったでしょう。

東浩紀や千葉雅也らを酷評し、國分功一郎を「バカ」と切り捨て御免にする一方で、マンデラの追悼式で、オバマのスピーチの手話通訳者が全くのデダラメだったことの逆説的評価をしたり、政治家としての中曽根康弘を持て栄やす。

芸能ネタでも、明石家さんま、吉永小百合、能年玲奈、橋本愛、宮沢りえ、加藤あい、鈴木京香、ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーヴ、プッシー・ライオット、シャーロット・ランプリングといったあたりまで、まさに立て板に水で、淀みなく論評する。

「歳をとると性欲が亢進して困る」と、マイクに拾われた加藤周一の声が講演会場に響き渡った話、血の滴るソーセージを食べながら、ときおり「アルツハイマー小休止」の入る、晩年の加藤周一独演会など、加藤周一のいまだ世に知られざる秘話を是非、開陳して欲しいです。そんな周一ゴシップ満載の講演会、加藤周一の神話化が急速に進む現在では、浅田さんにしか、もはやできませんから。期待してます。




この項ここまで


★「羊頭狗肉」 坪内祐三+福田和也 扶桑社 2014年 401ページ〜414ページ
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12-17 加藤周一神話を解体する 偉大な偽善者と取るに足りない小物の偽善者

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ナチス親衛隊ルック



加藤周一文庫のツイート
https://twitter.com/kato_shuichi
を読んでいたら、案の定、というべきか、10月12日のツイートに、

「10月1日(日)付『朝日新聞』の「天声人語」に、加藤周一の文章が取り上げられています。「偽善的であることの大切さまたは『ローマ帝国衰亡史』の事」から「政治家に期待できる最高の美徳はおそらく『偽善』だろう」を引いて、衆議院解散に伴う政界再編について論じています。御一読ください(F)」

とあった。

ぼくも朝日のこの日の天声人語は読んだけれど、深代惇郎が、草葉の陰で泣いているのではないか。加藤周一じゃなくて、加藤周一のこの文章を取り上げて名物コラムを展開していく、この日の天声人語氏(朝日社内で達筆の誉れ高い、2〜3人の重鎮が交代で執筆しているらしいけれど)のオツムの出来を疑う。

加藤周一の原文はこうだ。

一般に政治家に期待できる最高の美徳はおそらく「偽善」だろう、と私は考える。偽善は、少なくとも「善」または大義名分に表向きの敬意を示すことを、前提とする。裏向きもそのままでは政治が成り立たぬだろうから「偽」善である。表向きにも大義名分を通さぬ場合は、偽善にさえ及ばない。ヒットラーは偽善者ではなかった。

(中略)

すなわちそこには偽善の前提さえもなりたっていない。偽善以前。わが日本国の政党の行動として、これはまことに残念なことである。

引用ここまで。


加藤周一最大の失点。それは、この手の文章を量産し、それらをマス媒体に掲載し続けたことだ。政治家とあれば無条件で蔑み、中学生レベルのくだらないレトリックを自慢げに掲げ、一人、高みの傍観者を気取って自己陶酔する。

ヒットラーのような歴史的怪物を持ち出すのに「善」そして「偽善」とはなにか、その明確な定義なしに、「ヒットラーは偽善者ではなかった」と気軽に書く加藤周一のその感覚が信じられない。

「ただただ、自分の立てた(上出来だと思ってひとり悦に入っている)レトリックを補強するための付け足し」の役割をヒットラーに担わせただけじゃない、と誰しもが感じる粗雑でお粗末な文章なのに、天声人語氏が、こんな駄文を黄門様の印籠のようにして、幼稚な論理展開をしていると、

「ヒットラーは偉大な偽善者だったが、加藤周一は取るに足りない小物の偽善者だった」

などと、高山正之あたりに突っ込まれるぞ。★★




この項ここまで

★ナチスのファッションはヒューゴ・ボスだとばかり思っていたら、実はシャネルなのです、という人もいて、ぼくにはいまのところ不明。

★★「週刊新潮」の最終ページに連載を続けている名物コラムニスト。元産経新聞記者。
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13-2  加藤周一の生涯 そのあまりにも多い謎  乱脈な女性関係  その1

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ウミユリ3
出典:Carving Studio S 作品展 「深海魚」
https://www.carvingy.com(カービングアトリエ)
https://blogs.yahoo.co.jp/hiyoyon2007/68226635.html 
https://blogs.yahoo.co.jp/hiyoyon2007/GALLERY/show_image.html?id=68226635&no=0


加藤周一という人物はその人生を調べれば調べるほど、いろんな「謎」が出てきます。特に「女性関係」について。

いまのぼくにとって、加藤周一最大の謎は、妹の久子さんに、あくまでプラトニックとはいえ、男女としてのまぎれもない「恋愛感情」を(なぜなら久子さんは稀に見る美貌でキュート、かつ群を抜いた頭の良い女性だったから)抱いたことは当然として、なぜ、それを「羊の歌」であからさまに歌い上げたり、妹さんに捧げる愛の詩を書いて、詩集に纏めて発表したりしたのか、ということです。一人っ子で庶民の出自のぼくとしては、「それは、こういうことなんじゃないかな」という憶測すら全く浮かびません。

常識的に考えて、そんな妹睦を世間に公開すれば、今後の、久子さんと御主人の結婚生活に及ぼすであろう悪影響、また、加藤周一じしんの、これからの恋愛・結婚への悪影響といったことがありえることは容易に推測できます。

ぼくが仮に加藤周一の立場だったら、妹に恋愛感情を抱いたとして、母や父にはすぐ見透かされるでしょうから、「久子がぼくの理想の女性なんだけど、実の妹に手を出すわけにもいかないしねぇ・・・」などとおどけてみせ、友人たちにも「久子はぼくの理想の女性。だから変な虫がつかぬよう、久子の結婚相手は、ぼくが厳しくチェックするから!」などと公言して、恋愛のもつ、最もあからさまで生々しい部分を、先回りしてユーモラスに露呈させ、他人をどん引きさせないように工夫すると思います。

ところが、加藤周一御大ときたら、大真面目に、久子さんへの、痛切なまでの恋愛感情を、世間に公表して恥じるところがない。いくらプラトニックであっても、側近の鷲巣さんや海老坂さんですら「ここまでストレートに書くとは!」と驚く、なまなましい「愛の賛歌」です。

「加藤周一は、それをもってして、何か普遍的なもの、例えば、キリスト教的な『愛』に至ろうとしたのだ」いう深読みをする人がいるかもしれないけれど、そんな意図は、少なくともぼくには微塵たりとも感じられません。「インセスト、我がユートピア」のごとくに、もっとインティメイトな感情が切なく謳われる。

だから、ぼくなんぞのような、庶民出自で下世話な人間は、思春期以降、軽井沢は追分の父・信一所有の別荘に、7月中旬から9月中旬まで、夏休みの約2ヶ月、10年もの長きにわたって、(加藤周一と久子さんは)二人きりで滞在するのが慣習でしたが、別荘といっても平屋で小ぶりな別荘だし(今は改築されているようですが)、風呂は五右衛門風呂(「羊の歌」)ですから、久子さんの入浴時は、加藤周一が薪を焚いて湯加減の調節をしていたでしょう。

また、そんな平屋で狭い別荘の個室といえば、トイレくらいだろうけど、当然、和式だったでしょうし、性欲がピークになる、この頃のニキビ面の加藤周一青年が、2ヶ月もの長きにわたって、性欲のコントロールをどのようにしていたのだろうか、といった、最も卑近で低俗なことまで考えてしまうのです。

で、東京に戻ってからは、二人で、毎日、盛り場に出かけていく。映画や演劇を二人で観る。これって「デート」そのものですよね?

いくら考えてもここがよくわからないんです。久子さんと恋愛感情にあったことではなく、それを世間に自慢げに公表するその感覚がわからない。「要は、こういうことだったのでは?」とおわかりの方がいたら、ご教示いただければ幸いです。⭐️

それは、フランス留学以降の、女性関係の乱脈さと、綾子さん、ヒルダさん、最期に矢島さんとの、あまりに自分勝手な別れの屁理屈、と関係しているのかもしれません。

※加藤周一の「羊の歌」の女性関係の記述には、加藤周一の脚色が各所でなされています。時系列だけ見ても、ダミー情報が散りばめられてていますので、以下はぼくのわかる範囲で指摘・訂正してあります。


1946年5月30日 28歳
加藤周一が、母の薦める、京都の医家の令嬢、キリスト教の洗礼をうけ、ピアノの名手でもある綾子夫人と入籍したのが1946年5月30日。やがて、二人で都内の借家で暮らし始めます。綾子夫人には仏教学者の前夫とのあいだに連れ子がいたはずですが、その子がこの間どこにいたのかは、ぼくにはまだ不明です。常識的に考えれば、同居していたと思うのですが・・・。

1948年(昭和23年)3月7日 日曜日 29歳
「僕が一日家にいることはまれだ。朝出かけて、夜帰ってくる。帰ってくると家のなかには、Bachの平均律が溢れている。それからA(綾子夫人)の眼が明るく輝いて、僕の疲れた心の中に灯をともす。若し世に行はれる私生活の記録を称して私小説というものを僕が書くとすれば、A(綾子夫人)の眼の瞬間の印象の他には、ただ、Bachについて語るだろう。その他は心を動かすものはないからだ」(JOURNAL INTIME 1948 1949)より⭐️⭐️️


とっても幸せそうじゃないですか! 帰宅するとBachの平均律が(レコードか綾子夫人の演奏か)で流れている家なんて、今でもなかなかありませんよ。ましてや、時代は終戦まもない頃ですから。この頃に、二人の家を訪問したある方は、「玄関に入ると、和服の綾子夫人がさっと現れ、三つ指をついてお辞儀をする。この女性が加藤周一の妻なのか、と深く感じ入るものがあった」と言われてました。


1949年5月30日
最愛の母のヲリ子が他界。綾子さんと入籍したのも5月30日でした・・・。

★1「母を失ってしばらく経って後、私は無条件の信頼と愛情のあり得た世界から、そういうものの二度とあり得ないだろうもう一つの世界へ自分が移ったことをはっきりと感じた。信頼はあらためてつくりだし、愛情はあらためて探し求めねばならない。京都の女(綾子夫人)は、その事実を少しも変えるものではなかった」(「続羊の歌」46ページ)

1951年10月
第2回半給費留学生・医学研究生としてフランスへ留学。「羊の歌」ではこのとき綾子さんと「帰ってきたら結婚を考えよう」「そうね、帰ってきたら」(「羊の歌」50ページ)と書かれていますが、もうとっくの昔に入籍していたわけです。

1955年2月
帰国。神戸から京都へ。ここで突然、「続羊の歌」の記述を信じれば、綾子夫人には前夫との間に生まれた連れ子がいたことがわかります。それは、消し忘れじゃないかと思えるほど、唐突に出てきます。以下。

「しかし私は荷物を神戸に残したままその足ですぐに京都に出かけた。子供が病気で、神戸まで迎えに行くことができなかったのだと私を待っていたひと(綾子夫人)はいった」(「続羊の歌」190ページ)

この「子供」は、諸般の事情に鑑みると、加藤周一と綾子さんの実子ではなく、綾子さんの前夫(仏教学者)とのあいだに生まれた子供だったことはほぼ間違いないでしょう。

1960年
綾子夫人と離婚。綾子さんに別れの意志を告げてから、正式な離婚まで、なんと5年もかかっています。加藤周一はすでに海外や国内でヒルダ嬢と同居していますから、この間には、相当な修羅場があったハズです。⭐️⭐️⭐️

1962年
ヒルダさんと入籍。

1966年
10月から翌年3月まで「朝日ジャーナル」に「羊の歌」を連載。

1967年
加藤周一、矢島翠さんとハワイで知り合う。

1967年
7月〜12月まで「朝日ジャーナル」に「続羊の歌」を連載。

1969年
加藤周一、翠さんとニューヨーク郊外で同棲生活。
また、ヒルダ夫人との離婚の意思を固める。

1972年
ヒルダ夫人、加藤周一の自分への愛を何とか繋ぎとめておくため、加藤周一とのあいだに実子ができなかったので、ウィーンの孤児院から養子(ソーニャと命名)を貰い受ける。この頃、「周一は私を空気のように扱う」とヒルダ夫人は嘆き悲しみ、絶望していた。

1974年
加藤周一ヒルダ夫人と離婚。ソーニャはヒルダ夫人が引き取る。

★1 最後のワンセンテンス。なんでこんな余計なことをわざわざ書くかなぁ。そもそも「母の愛」と「妻の愛」は比較なんてできないでしょ。どうしても書くなら「このもっとも苦しかった時期を、京都の女は、彼女なりに、懸命に支えてくれた」といった方向性で書くべき。たとえ方便でも十分に許される。その方向でないのなら書く必要がない、と思いますけど。加藤周一は「典型的な重度のマザコン」だけど、それでもこれは書いちゃダメ。逆に、「綾子夫人を地獄に突き落としてやろう」という底意地の悪さがあるならよくわかります。

また、綾子前夫人との別れの場面で、「羊の歌」には、こうあります。パーレンのなかはぼくが加えています。

★2 「私はながく彼女(綾子夫人)を愛していると思っていたが、ひとりの女(ヒルダ嬢)にほんとうに夢中になったときに、彼女(綾子夫人)と私の間の関係がそれ(ヒルダ嬢と加藤周一のその時のラブラブな関係)とちがうものであったことに気づいたのである」(「続羊の歌」191ページ)

★3 「(綾子夫人)にたいしては、愛していると思っていたに過ぎないということ、あるいはおそらく愛したいと思っていたにすぎないことを、(わたしは)実にはっきりと理解するようになった」(「続羊の歌」119ページ)

2と3★
いや、まったくもって、余りに自分勝手な屁理屈です、男女の恋愛や結婚生活の破綻にはよくある理由の「相手に飽きた」「こころ移りした」と書いた方が、綾子さんにはまだ救いがある。しかし、上記の屁理屈では、かえって綾子夫人をとことん傷つける書き方になっています。

要は「綾子との恋愛・バッハの音楽と愛に満ちた彼女との結婚生活は、自分の勘違いであり、偽りのものであった。ヒルダとの恋愛こそ真実の愛だったことがヒルダとつき合ってよくわかった」と書いているわけですから。

朝日ジャーナル連載時は、常識的に考えて綾子さんはまだ存命中だったハズで、だとしたら彼女も目にするであろう雑誌に、よくもまあこんなことが書けるな、と、率直に思います。「恋に落ちたが、やがて相手に飽きた」「長年連れ添った妻のミニに年月」というのはよくある話なのですから、変なご託を並べず、そういう趣旨のことをオブラートに包んで率直に書けばよい。

いや、そもそもこうしたことを「公の雑誌」に書いて発表する必要があったのかどうか。

ヒルダさんは、「あなたはその日本の婦人(綾子夫人)と暮らすことはできないでしょう」「それならば、私たち三人が一緒に暮らすのをあきらめて、三人の人間が不幸になるより、二人だけでも幸福に暮らしたほうがよいでしょう」(「続羊の歌」184ページ)と、ヨーロッパで加藤周一を追っかけ廻しながら、怖ろしい理屈で、パリで加藤周一に自分との結婚を厳しく迫ります。

鴎外を日本まで追いかけてきた「エリス」(エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト)のケースもそうだけど、「医者」という職業は、万国共通のエリートですし、そのなかでもエリート中のエリートたる東京帝国大学医学部卒の医学博士で、東京の文壇でも有名人、黄色人種とはいえ、際だったハンサムで、英語、フランス語、ドイツ語に堪能(ウィーン生まれのヒルダ夫人の母国語はドイツ語)、となれば、まだ世間をよく知らない十九歳の「女の子」であるヒルダ嬢が必死で「追っかけ」をやって加藤周一夫人の座を射止めたかったのもよくわかる。

加藤周一の、ヒルダ夫人の一連の描写(「(パリまで自分を追いかけてきたヒルダ嬢の)その声を聞き、その柔らかい髪に触れると、英国での決心(=ヒルダと別れる決意)は忽ち変わった」(「続羊の歌」)なんて「あらまあ」というか「なんじゃそりゃ!」というツッコミを誰もが入れるであろう箇所を読むと、「未成年金髪白人女性の、裸体からはまばゆい金粉飛び交い、アルビノ特有の放馥で噎せるような臭気を放つ、未成年女性特有のコケテイッシュで張りのある肉体の虜」に加藤周一はなっていたと思います。

性的快楽はそもそもが錯覚から始まるわけだし、ま、それが理由で結婚したって全然かまわない。千昌夫なんかもそうでしょう。ひとはあらゆるものに抵抗できる。しかし誘惑には抵抗できませんからね。

加藤周一だって、日本においては東大卒のエリート医師で、知的インテリ、知的であるということは、つまり、性的にもイマジネーションの豊かなことを意味しますから、家族の縛りのある日本の日常生活から離脱して、一匹の発情した雄の野獣のような感覚、エロチックな欲望の底から芽生えてくる炎が、彼のエリート医師としての気高いプライドを焼き尽くしたあと、その自我の抹消がもたらす甘美な乱倫に沈潜し、10億年前の原始の海の中で、同じ濃度の海水を分かち合ってたゆたう海百合たちのように、ヒルダ嬢をはじめ、多くの金髪の白人女性と絡み合いながら揺らいでいるような、全く新しい体験、輪廻転生して生まれ変わったような、新たな存在のありようを、欧州ではじめて体験したのかもしれません。

しかし、しかしですよ、その体験を彼に味合わせてくれたヒルダさんは「周一はわたしを空気のように扱う」と嘆き悲しみ、やがて、翠さんとの不倫にのめり込んだ加藤周一に、「グッバイ、オッパイ」とばかりにポイ捨てされる運命にありました。

ま、翠さんにのめり込んで、不倫したって、他人があれこれ言うことではない、ね、山尾さん。当選おめでとうございます。

間違いなく言えるのは、加藤周一が綾子さんのことを本当に思い遣って考えていたなら、誰もが読める雑誌である「朝日ジャーナル」に、こんなプライベートなことを、こんな冷酷な表現で書くべきではない、つまり「ソウニュウことを言うな」ということです。

自著「正続羊の歌」に、華々しく多彩な女性との運命的な出会い、悲劇的な別れ、などなどのドラマを入れることで、自叙伝をダイナミックに躍動させ、華を添えて、「加藤周一の記念碑的文学作品」としての、完成度を高め、昇華させようという「かつて小説家を目指したが、あまりの文才のなさに諦めた『芥川になれなかった』男」の裏の意図を感じます。

インターネット上で、加藤周一の日記が公開されていますが、その相当部分が「綾子氏の御遺族の意向により公開できません」と白紙の状態になっています。

それらは綾子さんからの「手紙」とかではなく、加藤周一の自筆の日記の部分です。とすれば、加藤周一に著作権がある。

日記の公開にあたっては、鷲巣力さんが大変苦労されたことと思うけれど(この点、鷲巣さん、本当に有り難うございます。深く感謝します)「ご遺族」としては「加藤周一の文章ではあるけれど一切公開して欲しくない」という妥協できない箇所だったのではないでしょうか。

この白紙部分に何が書いてあるのか。その「ご遺族」のことが具体的に書かれているのかもしれません。

1983年〜1984年にかけて、加藤周一とともに暮らしていたヴェネチアの思い出を、いまは亡き妻の翠さんが「ヴェネチア暮し」(平凡社)に流麗な文章で綴っています。この書物に封じ込められた翠さんの金声は、日本語の散文として最高傑作のひとつだと思います。そこでは、最高度の明晰さが、最上級のレトリックと、たえず見事に戯れています。

そして、その最期はこんな言葉で締めくくられています。唸るような紫電一閃の切り返しです。

「そのときヴェネチアがまだ破壊されず、沈みもせず、まぼろしのようなはなやかさで水の上にあるものなら———そして、ほそい黒いへさきが大運河に乗り出してから、くるりと向きを変えるとき、サルーチとサン・マルコのかなたの水のひろがりに、お前と私の心がうたい出すものなら———そのとき私はまだ、人間を信じることができる」

翠さん、ヴェネチアはまだ破壊されず、沈みもしていないけれど、人間、その一人である加藤周一という男は、埼玉の地方豪族と佐賀の大名家の子孫の「加藤周一お殿様」として、あれほど嫌っていた母方の祖父、増田熊六の乱脈な女性関係を自ら再演させちゃいました。血は憲法や理念よりも強いんですよね。

スコットランド王国の紋章には、ラテン語で、「国王の言葉」として、以下のような文言が刻まれているそうです。



「誰も傷つかずには私に触れることはできない」



ステータスの極めて高い美人と、天下にその名を轟かせる名門閥のインテリ美男子は、遠くから眺めるだけに留めておくのが無難です。







この項の本文はここまで

⭐️久子さんには、書面でインタビューを申し込んでいますが、当たり前でしょうけれど、どこの馬の骨ともわからぬ、無名の物書きに会っていただけるわけもなく、ご返事は戴いていません。「宛先人不明」で返送されてないので、届いているとは思いますが・・・。鷲巣さん、鷲巣さんは、久子さんにフリーパスで会えるわけですから、是非、久子さんにそのあたりのことを聞いておいて欲しいです。将来の加藤周一研究家のためにも。

⭐️⭐️「JOURNAL INTIME 1948 1949」において、出だしが 1947年1月3日 土曜日 と書かれていますが、1947年の1月3日は金曜日。1月3日が土曜日なのは、1948年なので、1947年の記述は、加藤周一の勘違いと思われます。

⭐️⭐️⭐️ この間に書かれた著作(「ある晴れた日に」「運命」など)に、一部、その修羅場が影を落としていると思います。


★★加藤周一の青春ノートは下記で読むことが出来ます。
加藤周一デジタルアーカイブ
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2671055100


この項全体はここまで。
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10-5 加藤周一の人生を彩った女性たち

10-5 加藤周一の人生を彩った女性たち

藤純子
さらば藤純子
出典:https://tsuiran.jp/word/1127924/weekly?t=1492974000


※今後大幅に加筆。
※名前の末尾が「子」となっているが、現時点で末尾名未確定の女性が大半。念のため。



⭐️○○○○子
佐賀の芸者。岩村定高の愛人。母方の曾祖母。


⭐️増田(旧姓※※)○○子
佐賀県令岩村定高の芸者腹の娘。母方の祖母。


⭐️加藤(旧姓※※)○○子
父方の祖母


⭐️加藤(旧姓増田)ヲリ子
加藤周一ファミリー
加藤周一ファミリー 左端が加藤周一の母、ヲリ子。1936年4月撮影。加藤周一がマザコンになったのがよく分かる。
出典:A Sheep's Song: A Writer's Reminiscences of Japan and the World  Shûichi Katô (著) Chia-Ning Chang (寄稿, 翻訳) University of California Press 1999年 205ページより


⭐️本村(旧姓加藤)久子
加藤周一ファミリー 上記写真の右端が加藤周一の妹、久子。1936年4月撮影。母と同じく雙葉に通うお嬢様だが、現代風で、少しはにかんだキュートな笑顔がとっても印象的。
出典:A Sheep's Song: A Writer's Reminiscences of Japan and the World  Shûichi Katô (著) Chia-Ning Chang (寄稿, 翻訳) University of California Press 1999年 205ページより


⭐️セント・アンヌ
雙葉幼稚園の担任。


⭐️日本郵船の船長の娘
加藤周一に芥川龍之介を教える。のち、妹久子と長年の親友になる。


⭐️桜横町の女王(初恋の相手)


⭐️岩村○○子
祖母の兄の娘


⭐️岩村○○子
⭐️岩村○△子
岩村清一の二人の娘。二人とも美人で、加藤周一がひそかに憧れる。


⭐️尾崎○○子
尾崎行輝の娘。妖精のように美しい。加藤周一がひそかに憧れる。追分の学生のひとりと結婚して、伊豆に移住する。


⭐️○○○○子
千葉の内房出身の看護婦。東大附属病院の看護婦。彼女に誘われて加藤周一は、彼女の実家のある海辺の村を訪問する。加藤周一の(妹を除くと)初めてのデートの相手。


⭐️○○○○子
築地小劇場の俳優、鶴丸の娘。千ヶ滝の鶴丸の別荘に在住。


⭐️加藤(旧姓※※)綾子
加藤周一の初婚相手。京都の医家の令嬢。彼女にとっては再婚。前夫(仏教学者)とのあいだに男の子の連れ子あり。加藤周一は彼女を「A」,aya,あや子,綾子などと表現しているが、彼女といるときは、おそらく、「アヤ」と呼んでいたのではないかと思う。


⭐️ミシェール
パリ在住の詩人、ルネ・アルコスの息子の妻。加藤周一が出会ったときにはすでに未亡人。パリでの加藤周一の最初の「女友達」。加藤周一は彼女に恋愛感情を抱いていたが、彼女は若いイタリア人男性と再婚してパリを去る。


⭐️アイルランド人女性
国際ペンクラブの会場で知り合う。「濡れた水着が肌に密着して、彼女の身体のあらゆる線を露わにしていた。張りきった腿に水滴が光っていた」(「続羊の歌」85ページ)。セクシーなボディに魅惑され、加藤周一は自分の住まいに誘うが拒絶される。


⭐デンマーク人の看護婦
NHKパリ支局のスタッフが体調を崩したため、看病した看護婦。「私は彼女を美しいと思い、彼女に愛着を覚え、理由がなんであろうと、彼女が遠く(アフリカの密林のなかにあった、シュバイツァー博士の病院)に去ってしまうことだけを残念に思った」(「続羊の歌」109ページ)


⭐️ルーマニア系のユダヤ人女性
既婚者。「さりげなくみえて、その服の色も、その布の粗い手ざわりも、またその裁ち方、すべてがその小さな身体と、黒い髪と、活動的な挙措に、よく似合い、よく調和し、一種の、ほとんど洗練というのに近い印象をあたえた」(「続羊の歌」114ページ)。

「ある日彼女は、静かなところで、たとえば私の部屋で話したいといった。(中略)彼女はもどかしそうに『診てくれますか』をくり返した。そして突然、立ちあがると、上衣を脱いで、寝台に横になった。黒い下着の下に骨の細い上半身があり、胸が静かに上下していた。診察をするためには、その上にかがみこまねばならない。『診察』はそれだけで終わらぬだろう」(「続羊の歌」118〜119ページ)


⭐️パリで画廊を経営し、パウル・クレーの絵の蒐集家でもあったブルジョア女性
独身(未亡人)「正続羊の歌」において、(初婚の綾子夫人を除くと)加藤周一が「性交渉を持ったことを明らかにした」初めての女性。「その日、シャンティーイの色づいた森は、午後の陽ざしのなかで金色に輝いていた。私たちは森のなかを歩き、私は彼女の眼のなかに、高い秋の空が映り、白い雲がしずかに動くのを見た。そのとき私は恍惚として万事を忘れていた(中略)バッシーの彼女の部屋で過ごした夜とその晩のカルヴァドスの味は、シャンティーの森と共に、ながい間私のなかに昨日のことのように生きていたが、そういう事は二度とおこらなかった。(中略)しかしほんとうの恋人であるためには、私たちのどちらも充分に盲目的でもなく、充分に未来を夢見てもいなかったからであろう」(「続羊の歌」124〜125ページ)


⭐️ヒルダ・シュタインメッツ
加藤周一の二番目の妻。オーストリア人。


⭐M
1958年、中央アジアのタシュケントで、第二回AA(アジア・アフリカ)作家会議が開かれたときの、ロシア人の通訳女性。


⭐️向田邦子
向田邦子3
出典:http://kurasikiar.exblog.jp/11089507/
加藤周一の二番目の妻、ヒルダ・シュタインメッツの著作の担当編集者(雄鶏社 おんどりしゃ すでに解散)だった。ヒルダ夫人は、1958年、向田邦子担当編集で、同社より「ウィーン風家庭料理」を出版している。この古本をなんとかして手に入れたいのだけど・・・。アマゾンでも見つからない。


⭐️ソーニャ・カトー
ソーニャ・カトー
出典:http://www.unikato.at
1971年1月14日ウィーン生まれ。1972年11月、ヴィーンの孤児院から、加藤周一がヒルダ夫人との間にもうけた養子。カナダのブリティシュコロンビア大学で教えていた時の学生、ソーニャ・アンゼンさんの名前に因んで拝受命名。もとヴィーン市議会議員。ヒルダ夫人は加藤周一の自分への愛が完全に冷めてしまった(恐らくは矢島翠さんとの不倫により)ことを悟り、嘆き悲しみ、少しでも加藤周一の愛情が自分に戻るよう、二人のあいだに実子を望んだが、かなわず、養子をもらい受けた。現在のソーニャさんは、ウィーンではセレブな有名人になっている。有隣病院の病床にあった最晩年の加藤周一を訪問し再会、共に幸せな時間を過ごしたという。よかった!


⭐️ソーニャ・アンゼン

カナダのブリティシュコロンビア大学で教えていた時の学生。養子の「ソーニャ」は彼女にちなんで命名された。


⭐️朝吹登水子
朝吹登水子
ボーヴォワール、サガンなどの翻訳家として知られる。軽井沢の「女王」と呼ばれた。写真は朝吹家。朝吹登水子は左から二番目。加藤周一の出自は上流中産階級だが、朝吹家は、本邦の上流上流階級といってさしつかえない。一家のルーツは、福沢諭吉。朝吹登水子の父、常吉は、三井財閥の番頭。祖父も同じく、三井財閥の大番頭格。テニスの名手で、日本三大美人と呼ばれ、絶世の美女だった母は、長岡外史の孫。朝吹登水子さんの自叙伝を読んでいると、戦争末期に、信州の名門ホテルで、ステーキを毎日食べていた話とかが平気で出てくるので驚く。初婚の日本人男性とのあいだに一子由紀子をもうけた。由紀子の夫は、慶應義塾大学名誉教授でフランス文学者の牛場暁夫、二人のあいだにもうけた子ども、牛場潤一(慶應大学理工学部准教授)は孫になる。晩年は、白金の三階建ての自宅と、ベルサイユの自宅と、軽井沢の別荘を季節によって移動しながら過ごした。芥川賞作家の朝吹真理子の大叔母にあたる。

牛場潤一の話。
「祖母(朝吹登水子)はとても社交的で、戦後フランスで出会った画家の堂本尚郎さんや評論家で作家の加藤周一さん、アーティストの福澤エミさん(福澤諭吉のひ孫)など、フランスにゆかりのある文化人が遊びに来て食事をしていました。大人たちはお酒が入ってくると、会話がフランス語になりました。私はフランス語は分かりませんが、彼らがあの当時に日本からフランスへ渡り、青春時代を謳歌し、冒険、チャレンジしながら名を成していったのだなということを感じていました。皆著名人でしたが、とても気さくで、知的で、子供心に知識人って素敵だなと思いました。こういう感情とフランスが私の中ではリンクしているのです」  
http://www.newsdigest.fr/newsfr/features/6437-tomiko-yukiko-asabuki.html

高輪の朝吹常吉邸
高輪の朝吹常吉邸。現在は東芝高輪倶楽部になっている。
出典:http://www.zoukei.net/tokyosouth/toshiba.html


華麗なる一族。
出典:http://nipponseigenbaku.com/?attachment_id=1672


⭐️堀多恵子
堀多恵子
出典:http://spysee.jp/堀多恵子/1352414
堀辰雄夫人。堀多恵子(ほり たえこ、1913年(大正2年)7月30日 - 2010年(平成22年)4月16日)は、随筆家。 静岡県出身。旧名・加藤多恵。ただし、加藤周一とは姻戚関係にあらず。父は日本郵船の駐在員で、香港、広東で育つ。日本女子大学校卒。1937年弟の俊彦とともに静養のため軽井沢に行く。山下三郎(山下汽船)の弟の波郎から、婚約者・矢野綾子が死んだあとの堀辰雄を紹介され、38年室生犀星の媒酌で堀辰雄と結婚。56年に辰雄が死去、以後その思い出などを書いて軽井沢の自宅で半世紀生きた。
以上出典:ウィキより


⭐️立石芳枝
東大哲学科卒、立石龍彦の姉。明治大学で法社会学の教鞭をとる。


⭐️宮脇(旧姓荒木)愛子
宮脇愛子
宮脇愛子(1929年 〜 2014年)は彫刻家。最初の夫は、鉄道作家の宮脇俊三。二番目の夫は磯崎新。


⭐️水村美苗
水村美苗2
出典:https://maclalala2.wordpress.com/category/水村美苗/
作家。夫は東大経済学部教授の岩井克人。

「世の中はつくづく不公平なものだと思います。
加藤周一さんのことを考えると、とくにそうです。
容姿が良く生まれる。
思いやりのある性格に生まれる。
強い倫理観をもって生まれる。
恵まれた環境に生まれる。
さらには、尋常ではない、優れた頭脳をもって生まれる。
加藤周一さんのことを考えると、こう言っては失礼かもしれませんが、いったいどこまでが、加藤周一さんご自身の努力の成果なのだか、よくわからなくなります」

出典引用
水村美苗「冥誕 加藤周一 追悼」の寄稿「与え、与え、与え続けた」

ぼくは水村さんご自身にも、上記のことがことごとく当てはまると思いますが、水村さんの文章らしいと思うのは加藤周一を讃えるのに「容姿が良く生まれる」をトップにもってきたこと。とってもストレートで気持ちの良い文章です。


⭐️石井好子
石井好子
石井好子(1922年〜2010年)はシャンソン歌手。加藤周一は、国費留学生としてフランスに滞在中、同じく同国に滞在中だった朝吹登水子を介して彼女と知り合いになる。この時期にフランスに滞在していた日本人女性には、砂原美智子(オペラ歌手)、高峰秀子(女優)などのひとたちがいる。


⭐️リーラン(リラン)
リーラン2
出典:高原好日 信濃毎日 175ページ
画家。池田満寿夫の三番目の妻。一番目は一般女性、二番目は、詩人の富岡多恵子 四番目は、ヴァイオリニストの佐藤陽子。


⭐️吉永小百合
吉永小百合3
出典:映画「細雪」より
加藤周一と「仕事いきいき女たち」で対談。対談後、吉永小百合サイドから、彼女が、加藤周一の美貌を讃え、再会を望み、憧れを抱いている、と漏れ伝わってきた。共に既婚者だったからそこで終わったが、共に独身・未婚・パートナーとの愛が醒めていた時期だったら、結ばれていたのではないか。というのも、吉永小百合の15歳年上男性との結婚が、事実上の「略奪婚」だったことは、当時は誰もがあえて口にしない周知の事実だったし、彼女も「インテリ限定イケメン限定の歳上のおじさま好み」を明言していたからだ。この対談のときの加藤周一の顔写真が当該書籍※に掲載されているが(上記の写真ではなく下記単行本※に収録されている写真)、いわゆる「デレデレ」になった、加藤周一の珍しい表情を見ることが出来る。それにしても、バイセクシュアルのくせして、「遅れてきたサユリスト」でもあるぼくとしては、美男子溢れる芸能界きっての面食いで有名だったあの吉永小百合に一目惚れされるとは、ああ、加藤周一が羨ましぃ〜〜。羨ましか〜〜と素直にそう思います。

「醜く生まれた者にはそれなりの苦しみが、美しく生まれた者にもそれなりの苦しみが」という一文は、吉永小百合のご母堂、和枝さんが唯一書き下ろした本の中の一節ですが(で、「美しく生まれた者」はもちろん吉永小百合を、そして「醜く生まれた者」というのはご自分のことを指して言われている)なかなかに感じさせるものがあります。吉永小百合さんの人生をひとことで語れば、太宰の「斜陽」のテーマを、命がけで生きているのだと思います。

吉永家は、三人姉妹で、姉君は東京学芸大学卒、妹君は東京教育大学卒といういずれ劣らぬ才媛、そのなかに挟まれて、三人姉妹の真ん中の美女、という点では日テレの笛吹雅子さんと同じですが、学校は神戸女学院ならぬ早稲田大学の第二文学部、しかし、卒業時は首席であり、卒論は確かギリシャ悲劇をテーマにしたものでした。

そもそも、父上(この人が本当に美男子)が東大卒の外務官僚(ただしノンキャリ)をやめて事業に乗り出したものの失敗し、一時期家庭が赤貧だったとはいえ、この父君、元々鹿児島の大地主の御曹司であり、母上も関西の著名な実業家一族の末席に座し、さらに、母方には兵庫の名刹や高知の著名な医師一族が名を連ねるという、その出自からおのずと醸し出される品の良さのほかに(とはいえ、その昔、旧伯爵家出自で、通産省の某キャリア官僚と結婚が噂されたとき、彼が某女性週刊誌でインタビューに結婚を否定していわく「家柄が違いません?」と語っていたのには仰天しましたが・・・)その美しさの秘密について、NHKの美粧部所属の岡野宏さんは、こう言っています。

「いままで10万人の人にメークをしてきたが、シンメトリー(左右対称)の顔を持つ人は誰一人としていなかった。市川海老蔵さんも、夏目雅子さんも違う。その中で唯一、限りなく左右対称に近い顔を持つのが吉永小百合さんだ。例えば仏像は左右対称に彫られていて、それがあの神々しさを生む秘密になっている」

それとモロ関連しますが、モナリザの謎の微笑の秘密について、脳科学者のアハアヘ茂木健一郎はこう分析しています。

「人間の脳は、会った人の顔の、左半分の情報を右半分よりも重視する、ということがわかっているが、モナリザの顔を左右に分割してよく調べてみると、右半分は笑みを浮かべているのに、左半分は浮かべておらず、結果、見た人の脳が混乱することが、謎の微笑みの魅力、秘密となっている」

では、吉永小百合の限りなくシンメトリーに近いとその顔を、さらに右半分と左半分に分割して厳密に精査してみたら? あるいは「女らしさ」と「男らしさ」の同居した彼女の顔のもたらす混乱が、岡野さんもいまだ未発見の、彼女のより深い魅力、その深淵的な美しさの秘密につながっているのかもしれません。
※「加藤周一と仕事生き生き女たち」平凡社


⭐️中村紘子

出典:http://hakuoatsushi.hatenablog.com/entry/2016/07/29/110140
ピアニスト。1944年7月25日 - 2016年7月26日。夫は作家で、丸山真男東大法学部教授門下生の庄司薫。「加藤周一と仕事生き生き女たち」(平凡社)で対談。中村紘子は加藤周一を「知性の剣豪」と評した。


⭐️岸惠子
岸惠子2
出典:https://www.pinterest.jp/hirogujp/kishi-keiko-岸惠子
「加藤周一と仕事生き生き女たち」(平凡社)で対談。


⭐️メリー・ヒーリー
ビル・ホランドの恋人。アイルランド系アメリカ人。ブリティッユ・コトンビア大学で教えていたあいだ、アジア研究家主任教授ビル・ホランドの家に居候していた加藤周一は、毎晩、教授と彼女と食事を伴にした。


⭐️ニューヨーク在住の女性。「『羊の歌』余聞(51〜52ページ)」矢島翠さんだったかもしれない。


⭐️矢島翠
加藤周一の三番目の妻。




※この項今後大幅加筆。
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15−3 加藤周一年譜   加藤周一その真実の生涯 20171116

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加藤周一アップ4
出典:ETV特集 加藤周一1968年を語る〜「言葉と戦車」ふたたび 2008年12月14日

1551年(天文二十年)の末に、武蔵国岩槻城下市宿の在地土豪「鴻巣七騎」の筆頭、小池長門守久宗が北条氏康に命じられて、原野を切りひらき、いまの埼玉県北本市あたりに新田を開拓し市宿新田と命名、この地に「鴻巣御殿砦」を築いた。この「鴻巣七騎」の筆頭、小池長門守久宗こそ、加藤周一の13代前の祖先なのです。

「鴻巣御殿砦」の建設目的は、徳川家康との争いを避けるためであり、小池長門守久宗孫である小池隼人助が、徳川家康が鷹狩に来て長逗留できるよう、1593年(文禄2年)に建立した。

綱吉の時代には生類憐れみの令によって廃止されたものの、吉宗の時代に、鷹の訓練やおとりの鳥類の飼育をする施設として復活、しかし残念なことに、その後、火災により大方が消滅、取り壊された。

鴻巣七騎
出典:ことらの日記
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2013_01/2013_n03_2.html

余談ですが、この「鴻巣七騎」の一騎に「本木家」がありました。で、なんとその末裔(15代目くらい)に、俳優の本木雅弘さんがいます。加藤周一とはハンサム繋がりですが、加藤家と本木家は「ご近所さん」なので、どこかで血が混じり合っているとみた。

本木
写真は映画「永い言い訳」より。監督は西川美和。公式サイトは http://nagai-iiwake.com

後北条氏の滅亡により、小池長門守久宗の次男は、母方の姓である「加藤」を戴いて、加藤修理亮宗安、通称、幸左衛門と名乗り、鴻巣の中丸村に土着。徳川家康が権力を握ると、たちまち家臣となり、帯刀を許された地方豪族・地侍から、名主にして中丸村の大地主へと時代と共に変貌していく。

明治の世には、加藤本家一族は、中丸村の「お大尽様」と人々から呼ばれる存在となっていて、広大な御殿のような大屋敷に住み、村の大方の土地を所有していた。2017年現在でも、加藤本家は、近隣に40万坪もの膨大な地所を所有しているという。

この「変わり身の早さ」=「状況判断の的確さ、頭の良さ」が、加藤家の特徴のひとつといえるだろう。都内在住の、加藤本家 直系子孫のほとんどが東大卒だという。

加藤修理亮宗安から下ること、10代目が加藤平右衛門(1906年没)、そして11代目、加藤隆次郎(1933年没)の次男が、浦和高校から帝国大学医学部を卒業し、東大附属病院の内科の局長となったものの、医局内部の権力争いに嫌気がさし、渋谷に土地を求めて開業します。

その医師こそが、加藤家(分家)12代目、加藤信一(1974年没)であり、13代目にあたる加藤周一(2008年没)の父なのです。

一方、母方の祖父、増田熊六は、佐賀の資産家の息子で、明治時代、陸軍の騎兵将校となりました。新橋に赴いては、名妓万龍をあげて豪遊していますが、いまの価格に修正すると、一晩に約100万円を散財したことになります。途方もない浪費家・・・。


名妓万龍

※この増田熊六さんのことを少しでもご存知の方がおられたら、是非、教えてくださいませ。大隈重信とも交遊があり、貿易商としても成功を収めた、当時は、それなりの財界人だったと思われます。


「前世紀の末に、佐賀の資産家のひとり息子が、・・・・イタリアに遊学し、陸軍を退いてからは、貿易仲介の事業をはじめて、第一次世界大戦中にもうけ、その後の恐慌で資産の大部分を失ったから、晩年の生活はあまり豊かではなかった」(「羊の歌」1ページ)

母方の祖父、増田熊六については、現在、詳細を調査中ですが、以下のようなことがわかっています。それなりに有名人だったことに間違いはないようです。

「(母方の祖父の増田熊六は)日露戦争の頃には、陸軍大佐となり、帝国陸軍のために軍馬を調達する目的で濠州へ行った」
(「羊の歌」1ページ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/軍馬補充部
軍馬補充部

白河支部長
西端学 騎兵少佐:1898年1月10日 - 1902年5月28日
宮崎義一 騎兵少佐:1902年7月23日 -
相浦多三郎 騎兵大佐:1906年6月14日 - 1910年6月23日
隈部末熊 騎兵中佐:1910年6月23日 - 1912年6月29日

ここに注目→●増田熊六 騎兵中佐:1912年6月29日 - 1913年8月22日

中山民三郎 騎兵大佐:1913年8月22日 - 1914年9月2日
早川治甫 騎兵大尉:1914年9月2日 - 1916年11月15日
今井義一 騎兵大佐:1916年11月15日 -
久留三男三 騎兵中佐:不詳 - 1923年8月6日[
丸山八十司 騎兵少佐:1923年8月6日-
田村信喜 大佐:昭和15年3月9日 - 昭和18年6月10日
伊東説 大佐:昭和18年6月10日 - 昭和19年8月23日

明治馬券
明治馬券始末 下記はそのなかから増田熊六に言及された部分の抜粋。

「これらの特別馬は一二回に分けて輸送され、その第一回は一九〇陸軍は馬匹購買官として騎兵大尉●増田熊六をオーストラリアに派遣し「豪州産特別馬」九内に後送し、その他のものは主として野戦砲兵や重砲兵の輓馬に・・・」
「豪州馬一万頭の買付けに成功して一躍名をあげた●増田熊六騎兵大尉が現地調査した結果・・・、」

http://www.sakanouenokumo.com/yosihuru_denki6_1.htm
司馬遼太郎  坂の上の雲 > 秋山好古 > 第六章 > 第一 騎兵監
「増田大佐」として以下に登場

この頃ある一夕、騎兵関係の宴会が、九段坂上の富士見軒で催された。その時将軍はふと隣席にいた軍馬補充部本部高級部員●増田大佐(熊六)●に話しかけた。

「補充部の牧場には、大分不正事件が出るようぢゃが、困ったものぢゃね」

当時騎兵監部と軍馬補充部との間には、何かの意見対立から、部員相互の間にやや確執的な気持ちのあった時分であるから、そういう風に話しかけられた●増田大佐●の頭には、何か知らずピンと来たものがあった。

「秋山さんは、他所の畑に鍬を打ち込もうとするのか」

これは瞬間的に増田大佐の頭に閃いた感情だった。

「御尤(もっと)もで洵に恐れ入りました。しかし御管下のあの箱庭のような狭い連隊で、しかも軍紀を以てのぞみながらも、営内の到る所で、将校の知らない間に、時々私刑が行われていると聞いています。何を申せ、牧場は広袤(こうぼう)十里、目が届きかねて困っています」

●(増田)大佐●はかく言い放って、冷然と将軍を見返した。将軍に対する言としては随分思い切ったものであった。然るにこの人もなげなる増田大佐の言葉に対して、将軍は如何に激怒するかと思いきや、呵々(かか)大笑して、

「●増田(熊六)! 見事にやられたよ。人のアラはよく見えるが、自分のことは見えんもんぢゃ、参った! 参った!」

この言葉には、何ら揶揄的な気配もなく、わざとらしい作為もなく、真に将軍らしい無邪気さがあった。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i14/i14_b2959/index.html
●増田熊六●書翰 : 大隈重信宛
出版事項 Imprint 写, 大正10[1921]
内容等 Notes 封書
大正10年1月3日
附・極東露西亜開発案等


増田熊六から大隈重信への書簡。増田熊六が経営していたと思われる有限会社のレターヘッドが使用されている。本社所在地は、当時の京橋区加賀町13番地。しかし、素晴らしい達筆である。
出典:http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i14/i14_b2959/index.html


この写真のどこかに増田熊六が間違いなくいるはず。加藤周一の祖父、増田熊六を探せ。
シンポジウム 大隈に手紙を寄せた人びと 大隈重信へのまなざし
出典:https://www.waseda.jp/culture/archives/news/2015/10/01/1533/

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/2671055100/2671055100200010?mid=mp000029
立命館大学図書館 加藤周一文庫関連資料
NOTEⅠ (1937年-1938年3月)  
加藤周一 
数量 画像:5左-10右(10p) 
寸法(縦) A5変型 
主題 〔●増田熊六●(加藤の祖父)〕 〔増田良道(加藤のいとこ)〕 
関係する人物名および組織・団体名 Shestov〔シェストフ〕 Marx〔マルクス〕 Engels〔エンゲルス〕 
解説・説明 【小説】/〔祖父を中心とする家族の描写。末尾に「未完」とある。題名は消してあるが、目次などから「寒い風景」と推測される〕 
出版物・関連資料 『羊の歌』「祖父の家」 


父信一は、1885年(明治18年)2月20日、現在では熊谷となる、埼玉県北足立郡北中丸村の地主加藤隆次郎・多きの次男として生まれ、中丸高等小学校から旧制・浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)2年に編入し、第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に進む。医学部卒業後、東京帝国大学病院の内科医局に勤務し、医局長となり、その後 豊多摩郡渋谷町金王で開業医となる。

1916年(大正5年)
1月、東大医学部卒で東大附属病院医局長であった加藤信一と、佐賀県出身で資産家の一人息子であった陸軍将校(のち貿易業)増田熊六の次女増田ヲリ子(雙葉卒)が結婚。ときに信一34歳、ヲリ子22歳。


明治末〜大正頃の熊谷の養蜂場 出典:熊谷市文化財日記  http://kumagayasibunkazai.blog.so-net.ne.jp/2016-08-12

中丸村(なかまるむら)は、埼玉県北足立郡にあった村。現在の北本市東部にあたる。1943年(昭和18年)に石戸村と合併して北本宿村となり消滅した。

北本市(きたもとし)は、埼玉県の東部中央にある人口約6万7千人の市である。東京都特別区部への通勤率は17.0%、さいたま市への通勤率は11.1%(いずれも平成22年国勢調査)。江戸幕府による宿駅整備以前の1602年(慶長7年)まで中山道の宿場、鴻巣宿があったことで知られる。


出典:ウィキ

母ヲリ子は、1897年(明治30年)3月16日、東京府豊多摩郡渋谷町大字上渋谷の佐賀県出身の陸軍将校(日露戦争の頃は陸軍大佐)増田熊六・ツタの次女として生まれ、雙葉高等女学校(カトリックの洗礼を受ける)を1913年(大正2年)に卒業し、1916年(大正5年)1月に信一と結婚する。

渋谷町(しぶやまち)は、かつての東京府豊多摩郡にあった町である。上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村として存在していた3村が、1889年(明治22年)の町村制施行により南豊島郡渋谷村として成立した。1909年(明治42年)には渋谷町に昇格したが、1932年(昭和7年)になると東京市に編入されて消滅、渋谷区の一部となった。渋谷川(穏田川)と宇田川が合流する現在の渋谷駅周辺は谷状の地形となっており、古来より「渋谷」と呼ばれていた。

1916年のつづき(大正5年)

夏目漱石(1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)死去。


1917年(大正6年)
ロシア革命。


1918年(大正7年)
第1次世界大戦が終結。


1919年(大正8年) 0歳
9月19日、東京市本郷区本富士町一番地(現、文京区本郷7丁目3番1号=東大附属病院)に加藤周一生まれる。血液型O型。


江戸時代の金王八幡宮界隈。


加藤家自宅兼父の開業した病院(金王町 こんのうちょう)とその後引っ越しした美竹町の地図。いまはもうその地名はない。
出典:メロウ伝承館 http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=854&forum=13&post_id=3787






金王町と美竹町の番地の入った地図。中渋谷39、金王21、美竹34、と渋谷で加藤周一一家の移り住んだ場所がおおよそ判別できそうだ。これについては必ず取材に行ってきます。


加藤周一一家が長く暮らした「渋谷の金王町」という町名は、江戸八所八幡のひとつ金王八幡に由来。1966年(昭和41年)渋谷に併合され消滅。

渋谷地図2
出典:井上本

渋谷地図
出典:井上本


1920年(大正9年) 1歳
★10月25日 妹の久子が生まれる。

加藤周一兄妹4
加藤周一と加藤久子 堅い絆で結ばれた1歳違いの兄と妹
出典:ETV特集 加藤周一1968年を語る〜「言葉と戦車」ふたたび 2008年12月14日


国際連盟が設立される。


大正時代の渋谷駅

1921年(大正10年) 2歳
11月4日、原敬首相が東京駅で刺殺される。

大正10年渋谷駅南
大正10年 渋谷駅南方面


1922年(大正11年) 3歳

森 鷗外(1862年2月17日(文久2年1月19日) - 1922年(大正11年)7月9日)死去。


1923年(大正12年)  4歳

9月1日11時58分32秒、関東大震災。

雙葉幼稚園
現在の雙葉幼稚園。千代田区六番町
出典:ウィキ
雙葉幼稚園の著名な出身者には下記のような上流階級の人たちがわんさかいる。
皇后美智子(皇族)
桃井かおり
鮎川弥一
鮎川金次郎
犬丸一郎
犬丸二郎
北里一郎
加瀬英明
柳谷謙一郎
蓮実重彦
藤巻健史

雙葉女子尋常小学校附属(現・雙葉小学校附属)雙葉幼稚園にしばらく入園するも長続きせずやめる。病弱だったため、病床で、科学者 原田三夫(「子供の科学」(誠文堂))、音楽家 兼常清佐などの本を読み耽る。当時の彼にとっての「偉人」はチャールズ・ダーウィン。


小学校入学前、病気がちだった加藤周一が病床で読みふけった「子供の科学」1924年10月の創刊号。同誌は現在も誠文堂新光社より月1回発行されている。

執筆者は当時の科学界、産業界の第一線で活躍していた人物たちで、新発見や当時の天文現象や新技術をわかり易く解説していた。また、諸外国の新兵器の解説記事は現役の軍人が執筆する場合もあった。

また、当時の少年向け科学誌の多分に漏れず、少年向けの科学小説が連載されていた。巻末には当時の工作少年達の製作意欲をくすぐる工作記事が連載されており、折込図面が綴じ込まれていた。また、附録がつく場合もあった(出典はウィキより)


「子供の科学」を創刊した原田三夫(写真はウィキ出典)。加藤周一は、「科学者」としての彼のものの「見方」「考え方」「世界の解釈」などから多大な影響を受け、加藤周一の後世の資質を決定づけられた。そういう意味で、渡辺一夫、サルトルなどより、「加藤周一個人史」にとっては大きな意味を持つ人物かもしれない。

その原田三夫(1890〜1977)は愛知県に生まれ、愛知一中から札幌農学校(北海道大学農学部)に入学、中退して八高を経て1916年、東大理学部植物学科を卒業。『子供の科学』 『科学知識』 『科学画報』 を創刊。戦後の宇宙ブーム時代には、日本宇宙旅行協会を設立し、宇宙開発関係の啓蒙書を多数執筆。晩年は、「宇宙を支配する神は無限の愛であって、人間をそれに帰一させようとしているのであり、幸福と平和への道は、この神に帰依して、愛を強化するほかにない」とする、字宙神教を唱えた。
上記の出典:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%B6%C5%C4%BB%B0%C9%D7


兼常清佐(かねつね きよすけ、1885年11月22日 - 1957年4月25日)は、音楽評論家、文芸評論家、音楽学者。

小学校に行く前の加藤周一が、病床で読み耽った本の中で、その独特の語り口、「諸君」と語りかけるその独自の文体のなかに、初めて「文学」を発見し、また、「純粋な文学」をも感じえた人物。

兼常清佐は山口県萩町字土方(現在の萩市)に生れた。山口高等学校を経て、京都帝国大学文科にて哲学を専攻、同校を1910年(明治43年)7月に卒業。卒業後に音楽理論と音楽美術を研究、一時的に東京音楽学校ピアノ科に入学し、この間に「日本の音楽」を著した。

1922年(大正11年)3月、下中弥三郎らの教員が結成した教育団体「啓明会」の研究員としてドイツに留学、1924年(大正13年)4月に帰国する。

帰国後は、音楽美学に関する論文を京都帝国大学文学部に提出、1925年(大正14年)12月に文学博士の学位を受けた。また、徳川家ゆかりの南葵音楽事業部評議員を務める傍ら、東京高等音楽学院にて音楽史及び音楽美学の教鞭をとった。

1930年代には、宮内省雅楽部からの依頼で雅楽の西洋譜面化に尽力している。音響学も研究し、「名人のタッチ」などというものは自動ピアノで再現できるから名人は不要だというピアニスト無用論などの評論活動で知られた。
出典:ウィキ


常盤松小学校。1925年(大正14年)創設。加藤周一はなんと第一期生。常磐松小学校は國學院大学、実践女子学園と間近に隣接して位置している。北に青山学院初等部や実践女子学園、東に國學院大學や都立広尾高校、区立広尾中学校、区立広尾小学校等が位置する文教地区にある。渋谷駅が北西方向にある。
出典ウィキペディア


1924年(大正13年) 5歳
皇太子で摂政宮の裕仁親王が成婚。


1925年(大正14年) 6歳
治安維持法が制定される。


1926(大正15年) 7歳 
12月25日大正天皇崩御。

東京府豊多摩郡渋谷町立常盤松尋常小学校(現・渋谷区立常磐松小学校)に入学。私立のブルジョア小学校に行かなかったのは「いろんな階級の子どもたちと触れあうことが大切」という父信一の信念による。

「たしかに小学校には『いじめ』もあった。教師の権威と力は圧倒的であったから、教室ではなかったが、校庭や通学の途中にそれはあった。病気がちの子供で、腕力に乏しかった私は、いじめる側に加わったことはないが、いじめられる側にまわったことはある。私には自衛の工夫が必要であった。教師や親たちに助けを求めることはできない。私は同級生の中でも腕力のいちばん強そうな子供に接近し、その暴力による保護をもとめた。その代わりに教室で教師から質問され彼が窮地に陥ったときは、秘かに解答を彼に手渡した。そのことに気がつかない教師もあり、気がついていても黙認していた教師もある」(「『羊の歌』余聞」156ページ)

「そういう取引は中学校ではさらに徹底した」(同上)
→中学時代の「空白五年」を解く鍵のひとつがこれ。あとは、府立一中の「受験刑務所」のような雰囲気、「軍国主義的教練」などだっただろう。


★同学年にいた日本郵船の船長の娘に恋心を抱く。加藤周一の初恋。

★また、同じ小学校に通い桜横丁に住む大柄で華やかで美人の女の子、通称「女王」にも恋の感情を抱く。

1年生のときの担任は本橋兼義。住所は、渋谷町青山南7-3 辰野保方。
修了までのその後の住所名は 中渋谷39、金王21、美竹34 の順に変更されている)

常磐松小学校時代には、「松本(謙次先生」が忘れられない教師として登場。同じ学年の生徒では「頭が奇妙に大きい」氷店の男の子、成績の抜群によい大工の息子などが登場する。彼らの家庭が貧しく、家では仕事を手伝わされて勉強する時間もなく、中学に行けないことに、「不当な差別」を感じる。

「また道を隔てた隣には、李王家があり、そこはいつもひっそりと静まりかえっていて、人が住んでいるのかいないのかわからないほどであった」(「羊の歌」61ページ)

ここは、1910年の日韓合併後、日本の王公族として皇族の準待遇を受けた李氏朝鮮の末裔である、李健公と李鍶公(大韓帝国の初代国王、高宗(李王朝26代目)の五男、李堈の長男と次男)の邸宅であることが判明した。なぜ李王家がここに邸宅をあてがわれたかについては、常盤松町と呼ばれたこの地域がかつて皇室の乳牧場(御料牧場)であったことに起因することは想像に難くない(井上)

李王家,jpg
李王家一族

李健公は、戦後帰化して「桃山虔一」という名前になり、学習院中等科を経て、1930年(昭和5年)に陸軍士官学校を第42期で卒業した。同年、父の隠居に伴い公位を継承する。その後陸軍大学校騎兵科に進み、1938年(昭和13年)に陸軍大学校を51期で卒業する。1931年(昭和6年)10月、騎兵少尉時代に、海軍大佐松平胖(松平頼聡伯爵の十男)の長女で、伯爵廣橋眞光の養妹の誠子(よしこ、戦後に佳子と字を改めた、1911年 - 2006年)と見合い結婚した。陸軍中佐として終戦を迎えた。戦後は皇族としての収入がたたれ、渋谷駅のバラック建ての一廓に3坪余のお汁粉屋「桃屋」を開業した。このほか、陸軍大学校でドイツ語の兵学教官を務めた経歴を生かしてドイツ語の翻訳業に転じたものの注文は少なく、その後は農園経営や謄写版のガリ版書き、書籍取次の栗田書店勤務など、転々と職を変えた。晩年も不遇のうちに、1990年12月21日に死去した。弟の李鍶公は李埈公(高宗の兄の子)という大韓皇族の跡を継いだが、広島原爆で死亡した(以上、ウィキより)


李健公

なお、李王家のあった場所は現在、國學院学術メディアセンターになっています。この界隈は、いまはその面影はありませんが、終戦前までは、東伏見宮家、久邇宮家、同別邸、李鍵公等の宮家をはじめ華族、名士等の邸宅も多く、大日本神祇会、国学院大学など、他に類例を見ない、高級住宅街だったそうです。

「桜横町」を通り、「八幡の境内を抜ける」と、その頃の私は「金王町の家」のすぐ近くまで「長井邸の金網」に沿って歩いた。長井邸は広大な敷地内に、木造の西洋館をいくつも建て、1920年代の末にそれを西洋人の家族に貸していた(「羊の歌」65ページ)

http://home.e04.itscom.net/ipex/ipex/index.html
IPEX(国際人材交流支援協力機構)
http://home.e04.itscom.net/ipex/ipex/pg8html.html
以下、上記の記事「加藤周一とさくら横ちょう」より一部参考、引用させて頂きました。

IPEXの事務所のある陽風館(東京都渋谷区東1-4-23)の前の道の通りが戦前「さくら横ちょう」と呼ばれていました。この道は八幡通を隔てた金王八幡神社から常磐松小学校の前を通って國學院大學への通学路となっています。小学生だった加藤周一は、金王町から金王神社を通って常磐松小学校に通っていました。


「八幡宮から学校までの道には、両側に桜が植えられていた。その桜は、老木で、春には素晴らし花をつけた。桜横町とよばれたその道には、住宅の間にまじって、いくつかの商店もあり、そこで子供たちは、鉛筆や雑記帳を買い、学校の早くおわったときには、戯れながら暇をつぶしていた。カラタチの空地のように町から離れていず、八幡宮の境内のように男の子だけの遊び場でもなく、桜横町には、男の子も、女の子も、文房具屋のおかみさんも、自転車で通るそばやの小僧も、郵便配達もいたのである。学校に近かったから、道玄坂などとはちがって、町の生活ともつながっていた。私は二つの世界が交り、子供と大人が同居し、未知なるものが身近なるものに刺戟をあたえるその桜横町のひとときを好んでいた。」(「羊の歌」(65ページ)」



小学生の加藤周一が自宅と小学校の往復に、毎日通っていた「さくら横町」をしのぶ詩碑。


金王八幡宮

「また学校の近くには八幡神社があった。同じ小学校の子供たちの多くは、その境内で野球のまね事をしたり、相撲をとったり、独楽を廻したり、『メンコ』を打ったり、凧をあげたりしていた。私は学校の行き帰りにその境内を通り抜けたけれども、その仲間に加わったことはない。(中略)絶えず(病弱だったために)学校を休み、そのために教師に怒鳴りつけられるどころか、むしろ注意深く扱われていた。要するに私は(常磐松小学校に)まちがって紛れ込んだ局外者にすぎず、仲間として扱いようのない存在であったにちがいない」(「羊の歌」62〜63ページ)

独楽回し
独楽廻し

メンコ遊び
メンコ遊び
出典:http://www.akita-gt.org/data/kome/komezukuri-02.html



地図中央に読み取れる「長井邸」の文字。「その頃の私は「金王町の家」のすぐ近くまで「長井邸の金網」に沿って歩いた。長井邸は広大な敷地内に、木造の西洋館をいくつも建て、1920年代の末にそれを西洋人の家族に貸していた(「羊の歌」65ページ)

この広大な「長井邸」とは、日本薬学会初代会頭であり、エフェドリンの発見者にして日本の近代薬学の開祖、東京帝国大学医学部薬学科教授、長井長義(ながい ながよし)1845年7月24日(弘化2年6月20日)– 1929年(昭和4年)2月10日)博士の邸宅(約1万坪)だと思われる。長井夫人は、長井が留学中に知り合ったドイツ人であり、そのツテで、西洋人が借りていても不思議はない(・・・と思っていたら「井上本」からフィンランド領事館がここにおかれていたことが判明)。また、長井家は日本薬学会に旧長井邸の敷地や軽井沢の土地を寄贈するなど貢献している。実際、現在の渋谷界隈の地図を見ると、金王八幡宮を抜けた西側に、「長井」の名を冠したビルが幾つも建っている。

「金網の外から見ると、西洋舘の間には、よく手入れをした芝生と花壇があり、そこで異国の子どもたちが遊んでいた」(「羊の歌」65ページ)

この出入りする西洋人の風景の謎が「井上本」から判明した。上記のように、実はここにフィンランド領事館が置かれていたようなのだ。初代フィンランドの代表ラムステッド氏の記述に、「東京郊外の下渋谷地区に家を一軒借りることができた」と記載されている(井上本)

広大な長井邸があった場所は、現在、遺族から提供された土地に「日本薬学会長井記念館新館」が設立されており、新館地下二階のレストランには、長井の妻の名である「テレーゼ」が命名されている(井上本)


長井長義博士(1845年〜1929年)

このあたりの、「羊の歌」に描かれた、当時の渋谷の風景記述を検証した、加藤周一ファンには見逃せない本があります。必読書でござる。


「渋谷・実践・常磐松 ~知っていますか 過去・現在・未来~」 井上一雄

※この年譜の、この前後の引用文の出典で「井上」「井上本」と記された部分は、すべて上記書籍からの引用です。


1927年(昭和2年) 8歳

芥川 龍之介(1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)が自死。


1928年(昭和3年) 9歳
「私の覚えている祖父の家は、おそらく1920年代後半のことであろう。渋谷駅から青山七丁目へ向かって宮益坂をあがり、坂の中頃の左手にあった」(「羊の歌」2ページ)

宮益坂
宮益坂(みやますざか)は、東京都渋谷区の渋谷駅から青山通り(国道246号)に上がる坂道であり、道玄坂と並んで渋谷区では著名な坂のひとつ。坂の頂上では、金王坂(国道246号)の頂上と合流する。江戸時代には大山街道の最初の茶屋として賑わい、上渋谷の中心のひとつであった。この一帯は、より早くから賑わっていた金王八幡宮周辺に対して「新町(渋谷新町)」と呼ばれ、『江戸名所図会』には農家のほかに茶屋や酒屋が記載されている。当時江戸を出発した旅人にとっては三軒茶屋のひとつ前の休憩地が当地であった。当地は街道の立場としてのほか、御嶽神社や千代田稲荷の門前町でもあり、正徳3年(1713年)には町並地となって町奉行の支配下に入った。当地が「渋谷宮益町」と称されるようになったのは、町並みとなったこの時が最初である坂の名称もはじめ「富士見坂」と呼ばれていたが、江戸時代、この一帯の町名が坂の途中にある千代田稲荷(現在の御嶽神社)の御岳権現にあやかって「宮益町」と変更されたことから、この坂も「宮益坂」と呼ばれるようになった。宮益坂は長く小商いと職人と飲み屋の一側町で、明治時代中期に至るまで、人家は坂の両側に一列あるのみであった。なお、宮益坂界隈は、第二次世界大戦の空襲で、完全に丸焼けになった。(出典:ウィキ)

美竹町
昭和3~41年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山北町7丁目・渋谷宮益町・上渋谷字町裏の各一部で、渋谷町の大字として成立。命名は区域内にある御嶽神社にちなむ。昭和7年渋谷区の町名となる。同41年現行の渋谷1丁目の東半部となる。御嶽神社境内には「眼にかかる時やことさらさ月富士」の芭蕉の句碑がある。近くの宮益坂は「相模街道の立場にして、茶店酒亭」があってにぎわった。美竹公園にその名をとどめる。
出典:明治通り・宮下パーク商店街 
http://miyashita-park.jp/blog/history/history-3.html


「そのために私は、その長屋がすべて祖父のもち物であること、そればかりではなく宮益坂を登ってくるときに、左側にならんでいる小さな店のほとんど全部が、(祖父の)屋敷の門のすぐ下まで、祖父の貸家であることを知ったときに、異常な衝撃をうけた」(「羊の歌」13ページ)


古い宮益坂のこの地図で、道の上半分は、すべて祖父が所有していた地所であり、そのほとんどを「長屋の庶民」に貸しだし、毎月、莫大な家賃収入を得ていたという。確かに眩暈がします。

宮益坂の変容

1 江戸時代の宮益坂


2 明治時代の宮益坂

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3 1900年頃の宮益坂。

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4 昭和12年の宮益坂


5 戦後復興を遂げ、様変わりした現在の宮益坂

出典は、1と2
http://blog.livedoor.jp/kf7654/archives/50893886.html
3
https://twitter.com/ksk_tam/status/784409037773209601
4
http://shibuyamiyamasu.jp/sp/?page_id=144
5
ウィキ

⭐️今後は、渋谷界隈の古地図を買い漁って、当時の加藤家と増田熊六家の所在地を特定してみます。



1929年(昭和4年) 10歳
世界恐慌。周一が小学生になってから、加藤家は、時々、埼玉の父の実家に二泊三日程度の滞在をしていた。

その頃の信越本線の汽車は数が少なく、私たちの家のあった渋谷から、一度上野へ出て、熊谷との間を往復するのにも、日帰りでは忙しかった。しかも汽車を降りて、自動車を雇い、村まで行き、村の中を少し歩いてから家にたどりつくまでには、かなりの時間がかかった。私たちは田舎へ行くたびに、そこで二晩か三晩泊る。子供の私はその小さな旅行を待ちのぞみ、この上もないたのしみとしていた。おそらくその楽しみの性質は、後年の私が、ときに太平洋を越え、ときにインド洋を超えた旅のたのしみと、あまりちがわなかったかもしれない。汽車が荒川の鉄橋を越えるときに、私のもうひとつの世界がはじまる。鉄橋を渡る車輪の規則的な音が俄かに高まり、私はいつもの生活の時間表から、その時、決定的に解放されるのを感じた。車窓には屋並も人影も消えて、河原の広い空と河原との間に、荒川の水が光る。住み慣れた街の空間とは全く別の、もう一つの空間がそこに拡がっていた。鉄橋の上で私は、すでに全く東京を離れ、しかもまだ田舎に着いているのではなかった。一つの日常性との別れは、決定的であり、もう一つの日常性との接触は、まだはじまっていない。鳴り響く汽笛は、目的地への期待を呼びさます以上に、すべての日常性からの解放の感覚をよびさました。荒川とその河原は、太平洋よりはせまい。しかし汽車はおそく、私は小さかった。(「羊の歌」17〜18ページ)


当時の荒川鉄橋

「信越本線の小さな駅で汽車を降り・・」(「羊の歌」18ページ)

この「駅」が完全に特定できていませんが、地元の方の推測によれば「桶川駅」ではないか、とのこと。

1907年(明治40年)桶川駅
1907年(明治40年)の桶川駅
出典:桶川ブログ
http://rougtry.blog117.fc2.com/blog-entry-48.html


その村の道は、田や畑の間を縫い、竹藪につき当たって折れ、森の繁みの下をくぐりながら、しばらく農家の土塀に沿うかと思うと、また小さな四つ辻を曲る。麦畑にはひばり、竹藪には藪鶯の声を聞くこともある。黄金色の田に風が渡り、案山子につないだ鳴りものが乾いた音をたてていることもある。雨上がりのぬかるみの道には、小さな蛙が飛び出す。炎天の地平線には、壮大な夏の入道雲が眩しく輝くのをみることもあった。そして常に変わらぬ香り———おそらく藁と肥料の匂いが混じり合った独特の土の香りが、そこにあった。それこそは、日本の農家の匂いであり、今でも私に、田舎が私にとって意味するもののすべてを、どこにいても、たちどころに想い出させずにおかないものである。子供の私はその香りを胸いっぱいに吸いこみ、桑畑の間を思い切り走り、道の岐れ目まで来ると、たち止まってあとから来る両親を待ちながら、また左右どちらかへ走り出そうと足踏みをしていた。その頃の東京では、小学校の校庭以外に子供の駆け出すことのできる場所も、すでになくなろうとしていたのである。

しかし村の道は、決して私だけのものではなかった。村の子供たちは、どこからかあらわれて、私たちの行く道の傍らに集まり、「東京の人」が通るのを待っていた。そのなかには赤児を背負った子守の混じっていることもあったが、多くは小さな子供たちばかりで、野良着のようなものを着せられ、ぞうりをはき、手足を土で汚して、陽にやけた顔をしていた。彼らは私たちに声をかけることもなく、お互いの間で話したりし、囁き合うこともなくて、ただ黙って私たちが通りすぎるのを見まもっていた。それは歓迎でも、好意のあらわれでもなかったが、また敵意や反感の表現ではなおさらなかった。ただむきだしの好奇心がそこにはあったといえるだろう。村の子供たちは、私たちをみるために、またみるためにのみ、そこにいたのである。私を「東京の人」にしたのは、彼らの視線だ。子供の私は、父の生家で、田舎を知ったのではなく、私自身が「東京の人」であることを発見した。田舎は私のものではなく、そこで育った子供たちのものである。彼らは私たちが通りすぎるのをじっと見送った後———私たちのあとについて来ることは、めったになかった———急に駆け出したかと思うと、散り散りにどこかへ消えいく。しばらくの間私たちだけが、畑のなかの道にとりのこされる。しかし少し歩いて竹藪や森にかくされた道を曲がると、先廻りをした彼らが、行手に待っていた。私たちが近づくのを眺め、眼のまえを通りすぎるのを観察し、行きすぎてしばらくすると、再び散開し、もっと先の方で待ち伏せをくりかえす。それは出没自在の伏兵に似ていた(「羊の歌」19〜20ページ)










小学生の加藤周一が通ったと思われる、父の実家へと至る道の現在の風景。


「村のなかでいちばん高い杉の森を背にした祖父の家は、二階建ての母屋を中心として、広い敷地の周囲を、高く築いた土塀で囲んでいた」(「羊の歌」22ページ)

江戸の大庄屋
たぶん、こんな感じ。高い土壁で囲まれた、大庄屋の屋敷

それが、今はこうなっています。


巨大なスーパーマーケットに。この広大な敷地全部が土壁で囲まれた本家でした。

「母屋に向かって左手に渡廊下があって、そこから『新座敷』とよばれる別の棟に通じるようになっていた」(「羊の歌」24ページ)


その「新屋敷」があった場所。ここも駐車場になっています。

とりせんが加藤本家の屋敷あと
加藤本家の屋敷があった場所


1930年(昭和5年) 11歳 
小学4年生のとき、松本謙次先生が理科の担任であった。4年生末にクラス分けがあり、男子進学クラスに所属。5年で退学・修了(いわゆる飛び級)。このころ「小学生全集」(菊池寛編集・芥川龍之介協力:興文社)全巻を読む。

⭐️加藤周一が小学校〜中学を卒業する頃までに読んだ本のリスト(判明したもののみ)
◇子供の科学(原田三夫他)
◇兼常清佐
◇万葉集(父の書斎)
◇「小学生全集」(菊池寛編集・芥川龍之介協力:興文社)全100巻
◇キーツ詩集(母の愛読書)
◇芥川龍之介全集
◇ドン・キホーテ
◇乱れ髪(与謝野晶子作の処女歌集)
◇牧水
◇菊池寛の新聞連載小説
◇竹之里歌(正岡子規の歌集)
◇エピキュールの園(アナトール・フランス)

⭐️好きだった音楽
◇酒は涙か溜息か
◇枯れすすき
◇山田耕筰の曲


1931年(昭和6年) 12歳

満州事変。


4月に東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)に入学、1学年は5クラス。学校の教育方針に反発。中学校に入って間もなく、小学校同級生だった日本郵船の船長の娘(のち妹・久子の長年にわたる友人となる)から聞いて、芥川龍之介選集を、一年分の小遣いで購い耽読する。父の書斎の万葉集とともに魅了される。

東京府立第一中学校新校舎1929年
1929年に竣工された府立一中。現在の都立日比谷高校。

玄関
府立一中玄関

講堂内部
府立一中講堂内部

敷地
府立一中敷地レイアウト

設計/岡田信一郎
施工/古島宮次郎
工期/昭和3年1月−昭和4年5月

出典:三点とも、「復興建設の世界」
http://fukkokentiku.hatenablog.com/entry/2013/05/11/224143

中学時代は人生唯一の「空白五年」であった(『羊の歌』)。この「空白五年」とは「ひたすら学校の勉強に明け暮れた五年間」という加藤周一が記している以外にも、いくつか秘められた意味がある(たとえば、第一は周一の言う、勉強に明け暮れていた「受験刑務所」のような切り詰めた雰囲気があり、それ以外に「イジメられ体験」があっただろうし「軍国主義的教練」の馬鹿馬鹿しさがあっただろう)



「私たちは本当の驚きを感じることなしに、しかもあまりに急速で、感じる暇さへなしに、次々に私たちの世界を拡げていく。その世界に驚きを見出し、教育が概念化し、習慣化し、盲目化した世界に美しさを見出すためには、可なり手間がかかる。手間は概ね別の教師を発見する手間であって、私が海を本当に眺めるためには、私は海の言葉を学ばねばならなかった。若しヴァレリーを私が読まなかったら、そして若し印象派の画家たちを私が知らなかったら、私にとって、あの壮麗な夕暮れの海は存在しなかったろう。まして私は第四のディメンションを発見しはしなかったろう。

中学校の一年の時、静岡の海辺の松林で、孤独だった私は、海の音と、水平線のはるかな巻雲とに、自らの想ひの総てを注いでいたものだ。それらの想ひは殆ど他愛もない郷愁に過ぎなかったが、郷愁の眼に映じた海と海の雲とは、私の魂を動かし、私の中に何かを叫ばずにはいない程、深い美しさに満ちていた。その海辺の孤独がなかったら、私は後になってかくも海の詩人たちに、例えばヴァレリーの章句に感動はしなかったにちがいない。しかし、いささか逆説を弄すれば、ヴァレリーを読まなかったら、あの海辺の中学生の孤独も存在しないのだ」
大元出典:「プルーストの海」1942 年 2 月 5 日、『青春ノート』VIII、42 頁。

ここでは、「加藤周一の精神史― 性愛、詩的言語とデモクラシー―」 小関素明
からの孫引きです。

青春ノートは極めて貴重な資料であり、いずれ丹念に読み込んでいく予定ですが、とりあえず。小関先生に多謝。

上記、「中学校の一年の時、静岡の海辺の松林で、孤独だった私 は、海の音と、水平線のはるかな巻雲とに、自らの想ひの総てを注いでいたものだ。」

加藤周一は中一のとき、なぜ、こんな孤独な面持ちで、静岡の海辺の松林にいたのか? たぶん、「三保の松原」だろうけれど、家族旅行、それとも、学校の行事なのか。しかし彼の内面の痛烈な孤独感は、なにゆえに・・・。なにがあったのか?

「ヴァレリーは私にとって、単に詩人でも、美学者でも、文藝批評家でも、科学者でも、哲学者でもなくて、それらの専門的な知的領域の全体に対して、ひとりの人間の態度を決定するような何者かであった。ヴァレリーの著作との出会は、私にはあまりに貴重に思われたので、それを文学とよぶかよばないかは、もはや私にとってどうでもよいことであった。」(「羊の歌」(216ページ)



この頃より、文学に強い興味を抱くが、父が医者であり、また、父の反対もあったため、文学者の道を諦める。母の兄が帝国大学医学部卒の医者だったが、若死していたため、祖父と母の祈願を叶えるため、という事由もあったとされる。

「図画」の教師、高城次郎、との出会い。高城次郎については別項で詳細を記す。


1932年(昭和七年) 13歳
★矢島翠、東京に生まれる。


1933年(昭和八年) 14歳


1934年(昭和九年) 15歳


1935(昭和10)年 16歳
府立第一中学校4年のとき、第一高等学校入試試験に落第(=飛び級失敗)。「一中の普通の秀才」ならたいてい4年で合格していたという。飛び級とはいえ、「天下の大秀才」を自他共に認めていた加藤周一の「一高落第経験」が、このあと、どれほど彼の人生に「暗い影」を落としたか・・・。

一中4年生のとき、風間道太郎の紹介で、信濃追分(脇本陣油屋)に初訪問。妹久子さんも一緒だった。詩人立原道造と出会う。(風間道太郎(1901年〜1988年)は第一高等学校、東京帝国大学法学部卒)。


当時の追分


信濃追分 脇本陣油屋旅館

山崎剛太郎「信濃追分に加藤の父親の別荘があって、よく遊びに行きました。油屋で加藤の横に美しい女性が立っていて、これは小説に書けるなと思いました。それが加藤の妹でした。」
引用 http://www.siteadvisor.com/sites/http%3A//ameblo.jp/tonton3/theme24-10001333886.html%23main?aff_id=328 とんとん・にっき 世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」山崎剛太郎・清水徹対談編を聞く!より


追分界隈 信濃追分駅から18号線に登る途中に加藤家の新別荘はある。旧別荘は油屋(現在書店)のすぐ上。
出典:http://www.tokyo-kurenaidan.com/tachihara-karuizawa1.htm

追分風景
追分から浅間山を見る
出典:http://sozanan.cocolog-nifty.com/mount_/2006/11/post_4e8a.html

★この年が、初めての追分(父の別荘があった)滞在で、二人きりで過ごしていた妹・久子に、プラトニックな近親相姦的恋愛感情を抱く。この妹への近親相姦的恋愛感情は、その後の加藤周一の人生を貫く「公然の秘密」となる。

「すすきの穂が私たちの背よりも高く伸び,夕方の風が俄かに肌寒くなり,夏のまさに終ろうとするときに,高原はもっとも微妙なものにみちていた。私と妹は,恋人たちのように,寄添いながら,人気ない野原に秋草の咲き乱れるのをみ,澄み切った空気のなかで,浅間の肌が,実に微妙な色調のあらゆる変化を示すのを見た。夜になると遠い谷間の方から坂にさしかかった蒸気機関車の喘ぎはじめるのが聞え,坂をのぼりきったときに変る音,駅にとまるときの車輪の軋みまでが,静まりかえった夜を通して,はっきりと聞えてきた。その汽車のなかの人々と,私たちとを隔てていた途方もなく広い空間のなかで,眼をさましていたのは,私たち二人だけであったかもしれない。もし私がこの世の中でひとりでないとすれば,それは妹がいるからだ,と私はそのときに思った。私は高原のすべてを愛していたが,それ以上に,妹を愛していたのだ。」(「羊の歌」165〜166ページ)

★「加藤は妹を愛していた。だからこそ、追分でのふたりの暮らしから東京に戻らなければならないことを、加藤は、痛切な思いを抱きながら、自らにいいきかせていたに違いない」(『加藤周一』という生き方 鷲巣力 筑摩 54〜55ページ)

「私たちは東京の家に帰ると、その翌日から、毎日、活動写真を見たり、演奏会に行ったり、また格別の目的がなくても、街のなかへ出かけた。『帰ってきたかと思うと、またすぐに出かけてばかりいるのね』と母はいった。しかし妹はなぜわたしが出かけたがるのかをよく知っていたし、私は彼女が知っているということを知っていた。私たちは追分の夏の結論をひきださねばならなかったのであり、それは東京を何度でもあらためて発見するということであった」(「羊の歌」146〜147ページ)


「その頃の信濃追分の駅の近くには、尾崎咢堂の長氏、尾崎行輝氏が、家族とともに『穴居生活』をしていた」(「羊の歌」160ページ)

尾崎 行輝(おざき ゆきてる、1888年1月14日 - 1964年6月3日)は、日本の参議院議員(1期)。飛行機研究家。パイロット。尾崎行雄(咢堂)の四男。

尾崎行輝28歳
出典:加藤周一『高原好日 20世紀の思い出から』


「東京帝国大学英文学科の中野好夫助教授が、ある年の夏、泊まっていたのは、(追分の)その寺の一部屋である」(「羊の歌」159ページ)

中野 好夫(なかの よしお、1903年(明治36年)8月2日 - 1985年(昭和60年)2月20日)は、日本の英文学者、評論家。英米文学翻訳者の泰斗。その風貌とシニカルかつ骨太な性格から「叡山の僧兵の大将」との異名を取った。教え子に木下順二や丸谷才一、野崎孝などがいる。東大英文学科教授。

中野好夫
出典:徳島県立文学書道館
http://www.bungakushodo.jp/index.html


1936(昭和11)年 17歳

二・二六事件

加藤家では、妹が友人から貰ってきた猫を飼い始める。

3月、府立第一中学校を卒業し、今度は、無事、第一高等学校合格する。一高では理科乙類(ドイツ語が第二外国語)に進む。新しく出来た駒場寮寄宿舎に入る。文学の関心はあっても、理科には文学の授業とか日本や世界の歴史の授業はまったくなく、自分にそうした教養がないことの反動として、文学的古典を乱読した。

加藤周一ファミリー3
加藤周一ファミリー 1936年4月撮影
出典:A Sheep's Song: A Writer's Reminiscences of Japan and the World  Shûichi Katô (著) Chia-Ning Chang (寄稿, 翻訳) University of California Press 1999年 205ページより

駒場に移ったばかりの一高1935年
出典:http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/ICHIKOH/album06.html
駒場に移ったばかりの一高の俯瞰写真。

一高平面図
出典:http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/agc/news/52/hyoshi52.html
一高の平面図。


当時の駒場寮内部の様子。駒場寮に住んだ著名人は多く、福永武彦、柄谷行人、畑正憲、土屋賢二、堀江貴文、磯崎新、野田秀樹、立花隆・・・などなど。

第一高等学校は全寮制であったが、文学部の生徒は、加藤周一からみると、桁違いにいろんなことをよく知っていた。彼らは文学とか歴史とかを学校でも習うわけだが、加藤周一のほうにはそういうことを習った経験もなかった。彼らにたいして強い劣等感を持った。

一高では、2年上級の福永武彦、1年上級の中村真一郎、小島信夫、さらに同級の長谷川泉、1年下級の原田義人、白井健三郎、2年下級の窪田啓作らを知る。先生には、矢内原忠雄、片山敏彦、五味智英らがいた。万葉集輪講に入り大野晋と会う。小山弘志を通して、能狂言、歌舞伎に興味を持つ。1936-37年、二年間だけ庭球部に入る。また、映画演劇研究会「映研」にも入会。


出典:不明  若き日の加藤周一。18歳前後か?


1937(昭和12)年 18歳
立原道造のヒアシンスハウスの自筆のスケッチ
立原道造のヒアシンスハウスの自筆のスケッチ
出典:自由工房
http://zzziyuu.exblog.jp/12526273/

7月日中戦争はじまる。12月南京事件。矢内原忠雄、筆禍事件で東大を辞職 12月2日最終講義。

2月筆名「藤沢正」で学生新聞(向陵時報)に映画評「新しき土」執筆。編集委員となる。


1938(昭和13)年 19歳
4月国家総動員法公布。夏軽井沢・千ヶ滝で、立原道造を介して中村真一郎と会う。また妖精的詩人で、早稲田大学在学中の★野村英夫と出会う。

追悼の野村英夫 猿渡重達 教育出版センター

★野村英夫(のむら ひでお 1917年〜1948年)東京は青山の出身。父は農林省官吏。祖父は吉田松陰の門弟。四季派の最年少の詩人。受験勉強のプレッシャーから発病し、早稲田高等学院の頃から、毎年夏は追分に転地療養した。追分で堀辰雄、室生犀星、津村信夫、立原道造、中村眞一郎などと知遇。早稲田大学法学部中退。特に、堀辰雄に私淑し、追分では「野村少年」と呼ばれていた。持病の肺結核で31歳の若さで他界。最晩年の加藤周一同様、26歳のときカトリックの洗礼を受ける。

「青白い顔をして、痩せ細った小柄な少年は、老人のように前こごみになり、ときどき咳をしながら街道を歩いていた。私の方には見向きもしなかった。傍らに人がなきが如く、と私は思った。この「文学少年」が追分の宿で、(東京帝国大学)法学部の学生を軽蔑していたのは、彼が高等文官試験の課題以上の何かを考えていたからでは決してなく、高等文官試験の準備にさえも不足な知能のおかげで、砂糖菓子が民法よりも高等な何ものかであると錯覚していたからにすぎない」(「羊の歌」116〜117ページ、要約。もっともっと長い文章で、ひたすら野村を罵倒し続けている)

野村英夫
堀辰雄の後ろに立っている人物、黒い影の中にいて分かりにくいけれど、が、野村英夫。

野村英夫2


堀辰雄

堀辰雄関係者
出典:昭和史の秘話を追う 秦郁彦 PHP研究所

軽井沢で「加藤(信一)先生のお坊ちゃま」と呼ばれていた加藤周一が、なぜここまで野村英夫に、長年にわたって憎悪し続けていたのか、出会い頭に自分を完全に無視したこと、堀辰雄との距離以外にも、何かまだまだ明かされていない秘密が絶対にありそうだ。「羊の歌」連載当時、もしも野村が存命中だったら、誰なのか知っている人はすぐに特定できるから、親告罪とはいえ「名誉毀損」に該当するのは間違いない。遺族がいれば代理として十分刑事告訴が受理されるレベルの酷さだ。怒りがトラウマになって、何十年後にフラッシュバック(再燃)することがあるが、「羊の歌」の当該部分がまさにそれ。相当編集者はある程度ソフトに修正したハズとは思うけれども、読めば読むほど、執筆中の加藤周一が、我を忘れたまま、全身怒りに震えながら、怒濤の如くペンを走らせているのが一目瞭然で、ここまで露骨だと、彼の幼稚な本性が見えて恥ずかしい。余計なことをいえば、加藤周一は彼の詩をボロクソに貶しているが、野村の詩は、加藤周一の詩よりは、少なくともマシ。


「心のなかで」  野村英夫

陽を受けた果実が熟されてゆくやうに
心のなかで人生が熟されてくれるといい。
さうして街かどをゆく人達の
花のやうな姿が
それぞれの屋根の下に折り込まれる
人生のからくりと祝福とが
一つ残らず正しく読み取れてくれるといい。
さうして今まで微かだつたものの形が
教会の塔のやうに
空を切つてはつきり見えてくれるといい。
さうして淀んでゐた繰り言が
歌のやうに明るく
金のやうに重たくなつてくれるといい。



RONDELS 「雨と風」  加藤周一

雨が降つてる 戸をたゝく
風もどうやら出たらしい
火鉢につぎ足す炭もない
今晩ばかりは金もなく

食べるものさへ見当らない
飢えと寒さのていたらく
雨が降つてる 戸をたゝく
風もどうやら出たらしい

どうなることかと情けなく
つらく悲しく馬鹿らしい
どうせ望みも夢もない
道化芝居のそのあげく
雨が降つてる 戸をたゝく
風もどうやら出たらしい


加藤周一の詩は「マチネ・ポエティク詩集」から。ロンデルとは、第一連(四行)の初めの二行が、第二連(四行)の後半および第三連(六行)の最後に顔を出す、という形式。

形式はともかく、「詩才」ということに限って言うと、加藤周一の「雨と風」なんて、よくもまあ、こんなものを発表する気になったもんだ、というくらいの、どうしようもないシロモノ。詩でもなんでもないでしょ、これは。貧乏人のオッサンか、引き籠もりニートの、「愚痴」「たわごと」でしかない。タイトルは「雨と風」じゃなくて「それにつけても金の欲しさよ」がいいと思います。

一方、野村英夫は、立原道造には及ばないけれど、それなりの「詩才」を感じさせます。なかなかいいじゃないですか。

加藤周一は、誰もが認める知的エリートであり、容貌、頭脳、学歴・・・すべてにわたって野村など敵ではないのは明か。なのに、徹底的に激しい憎悪心をむき出しにして、野村をとことんボロクソに貶める。なんで? まさか、野村の詩のほうが自分より上手いのに嫉妬していたとか? よくわかりません。

でも、ここにも加藤周一の人生の謎を解く鍵のひとつがあると思うので、今後もいろいろ調べてみます。

生前の開高健が、丸山真男に「あの人(加藤周一)に文学がわかると思いますか?(=分かるわけない)」と聞いたのもまこと頷ける。文学センスがないのは賦与のものだから仕方がないけれど、普通の感覚なら、「自分には詩の才能がない」と悟り、発表するのは控えるだろう。谷川俊太郎と同世代の、詩人希望者が、谷川の詩を読んで、ことごとく、詩人への道を断念した、というエピソードがあるけれど、普通、自分がどのくらいの「その分野における才能のポジション」にいるかは、だいたいわかるもの。それが加藤周一にはわからないわけだ。不思議で仕方がない。

「散文」についても同じ。側近の鷲巣さんが、「『加藤周一の文章は美しい』と誰もがいう」、と書かれているけれど、本当ですか? そんなこと言うのは鷲巣さんの周囲にいる加藤周一ファンだけじゃないですか?

「正続の羊の歌」を何度も読み返していた高校生だった頃のぼくもそう思っていたけれども、大学入学後、1万冊、2万冊、3万冊・・・と古今東西の作家や詩人、評論家、哲学者の本を乱読したあとでは、向井敏のいうように、

「ほめられた当人があっけにとられるような筋違いの讃辞をつらねる人がいるものだが、その道の大家といえば、まず加藤周一の名をあげなくてはなるまい。いったいこの人は、反体制、反権力でありさえすればやみくもに持ちあげるという偏った性癖の持主で、そのうえ、どこをどう押せばあんなにも無味乾燥な文章が出てくるのか、何か不思議な作文技術を身につけていて、とてもまともにつきあえたものではない。」

上記引用は、古本屋の覚え書き http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20010507/p1 より。原典は『真夜中の喝采』(講談社)

反体制、反権力の部分はさてもおき、「どこをどう押せばあんなにも無味乾燥な文章が出てくるのか、何か不思議な作文技術を身につけていて・・・」

は、いま現在のぼくには全く同感なのです。「不思議な作文技術」というのはむろん皮肉で「文才がない」ということでしょう。

何度も書きますが、「知識の量と幅」はともかく、こと文章に関しては、鷲巣さんのほうが加藤周一なんぞより、よほど文才があります。矢島翠に至っては、読む者を陶酔させるような箇所が「ヴェネツィア暮し」のあちらこちらに燦然と散りばめられています。この本に出てくる「伴侶」とは、むろん加藤周一のことですが、矢島翠さんには、加藤周一なんぞとは、とっとと別れ、もっともっとたくさん本を書いて欲しかった。

加藤周一の文章がつまらないのは、読者を蠱惑させるような、たとえば、オパールのように、虹色にきらめくような遊色効果が皆無なことが一つ、スリリングな思考の飛躍が皆無なこと、「対称性」しかレトリックの持ち玉がないこと、その他無数にあげられるでしょう。何度も繰り返して恐縮だけど、ひとことで言えば「才能がない」ということに尽きると思います。



立原道造。東大建築学科ということ以外に、立原の詩才は余人を許さない。絵も上手い。野村と違い、立原については当然加藤周一も絶賛。立原は府立三中(都立両国高校)で「芥川龍之介以来の大秀才」と呼ばれていた。
出典:ウィキ

立原道造「飛行船」
立原道造 「飛行船」 1927年〜1931年頃
出典:武内ヒロクニ
http://blog.goo.ne.jp/takeutihirokuni/e/ddd1868de6558cb0dcfbcdafe7d89842


はじめてのものに   立原道造

ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音を立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

その夜 月は明かつたが 私はひとと
窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 渓谷のやうに 光とよくひびく笑ひ声が溢れてゐた

一人の心を知ることは... ...人の心とは... ...
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
捉へようとするのだらうか 何かいぶかしかった

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と... ...また幾夜さかは 果てして夢に
その夜習ったエリーザベトの物語を綴った


浅間山 ささやかな地異は そのかたみに 灰を降らした この村に ひとしきり かなしい追憶のように 


1939(昭和14)年 20歳
9月 ドイツ、ポーランドに進撃、第二次世界大戦始まる。

3月 第一高等学校乙類卒業。しかし、東京帝国大学医学部の試験には落第。加藤周一人生二度目の落第体験だ。このあたりが、ぼくが「加藤周一はいわれるほど大秀才だったのか?」と疑問を持つ根拠となっている。今も昔も、灘などのエリート高校の「大秀才」は受験勉強なぞ全くしていなくても東大京大の医学部に現役で合格するし、東大で学年首位クラスの学生は、授業など一度も出なくても、首席のまま試験を通過し、首席で卒業する。


1940(昭和15)年 21歳
6月ナチスドイツ軍パリ占領、9月日本軍北部仏印進駐、10月大政翼賛会発足。4月東京帝国大学医学部に入学。医学部では青山胤通に師事仏文研究室にも出入りする。渡辺一夫、鈴木信太郎、中島健蔵らがいた。やがて森有正・福永武彦・三宅徳嘉らを知る。また文学部哲学科の友人立石龍彦をとおして法学部の川島武宜を知る。


川島武宜 東京帝国大学法学部助教授(のち教授)
出典:http://drc.diamond.co.jp/sales/pdf/200310/index.html#chap001

大学1年のとき肺炎に続いて湿性肋膜炎で九死に一生を得る。ヴァレリーを読む。

「その頃の仏文科には個性のある人々が集まっていた。辰野隆、鈴木信太郎、中島健蔵、森有正、三宅徳嘉・・・講義よりも、講義のあとでそういう人々が集ってする雑談は、医学部とは全く違う雰囲気をもち、独特の活気に満ちていた」(「羊の歌」205ページ)

加藤周一は、父が埼玉の大地主の次男で東京帝国大学医学部卒の医者、母方のルーツは、佐賀の鍋島藩の士族で、「上流中産階級」といったところだが、戦前のこの時代に、東大で仏文を専攻していた人たちなんて、軒並み、「お金持ちで知的名門の出」なのだ。2017年のいまでも、それほど状況は変わらない。大学に残り、勉学、特に文学系思想系に専念専攻するためには、頭の出来はむろん、「汗水垂らして働く必要などサラサラない家庭」であることが最低条件なのだ。

辰野隆
日本の建築家の開祖、辰野金吾(東大工学部学部長)の長男。加藤周一の父、信一がかかりつけ医だった。

鈴木信太郎
神田佐久間町の富裕な米問屋に生まれる。鈴木道彦は息子。

中島健蔵
ハーヴァード大学、コーネル大学大学院卒の心理学者、中島泰三の長男。

森有正
明治時代の政治家森有礼の孫。父の森明は有礼の三男で、キリスト教学者、牧師。母は伯爵徳川篤守の娘。祖母寛子は岩倉具視の五女。


※以下、肩書きは当時のもの。

辰野隆
辰野隆教授

鈴木信太郎
鈴木信太郎助教授


渡辺一夫助教授
出典:http://ja2kpr.at.webry.info/201001/article_6.html スタジオパークからこんにちは

中島健蔵
中島健蔵講師

森有正
森有正助手

三宅徳嘉( みやけのりよし)
三宅徳嘉助手
写真の出典:「辞書、この終わりなき書物」三宅徳嘉 みすず書房


なお、以下は、東京大学名誉教授・平川祐弘(比較文化)の2011年の文章

渡辺一夫が戦争中にフランス語で書いた日記は「一億玉砕」の愚を指摘して冷静である。それだけに(息子の)渡辺格氏が『ももんが』平成14年12月号に書いた「父の政治観」には、やはりそうだったかとガッカリした。「ハンガリーの動乱の頃まで、父は完全な共産主義信奉者であり、日本にもそのうち、革命が起きる、とよく語っていた。共産主義諸国の独裁制も、『資本主義国からの介入を防ぐためにやむをえない処置』と考えていたようだ。後年、共産主義国に関する種々の好ましからぬ情報を入手してからも、共産主義には好意的であり続けたと思う」とある。

では、なぜそんなナイーヴな国際政治認識の渡辺発言が世に重んぜられたのか。それはラブレー研究の仏文学者の後光がさしていたからだろう。戦後はフランスに関することは大人気で、秀才が仏文に集った。私も駒場に新設された教養学科フランス分科へ進んだ。

渡辺一夫については、日本に終戦をもたらした昭和天皇の功績に目をつむったことが私には非人間的に思える。日本は革命を体験しなかったから、市民社会として未成熟だ、という類いのフランス礼讃の言葉に隠された容共的革命待望論を私は好かない。

女子大生に向かって自衛隊員の嫁になるな、と訓辞した人も渡辺の弟子にいた。森は日本はダメだと言って、フランス礼讃をして評判になったが、これは、日本インテリの発言の一つの類型で、仏文出身者の一タイプである。しかし、同胞の劣等感につけこんで、自分を偉く見せかける人、誰がダメかと聞かれるなら、そんな人こそダメな人だと私は答えたい。
出典:2011年11月24日付産経新聞朝刊「正論」

渡辺一夫
渡辺一夫と長男格氏


1941(昭和16)年(22歳)
大東亜戦争始まる。

世田谷赤堤の借家へ引っ越す。父は開業せず、伊豆の結核療養所に勤務していた。水道橋能楽堂に通う。

12月8日あるいは9日、新橋演芸場で文楽の引越興行(二世豊竹古革刃太夫)を見た・・・というのはどうも伝説らしい。畏友、垣花秀武もその日か別の日に加藤周一とは別席で観劇していたという。こちらは事実。

新橋演劇場
当時の新橋演劇場


垣花 秀武(かきばな ひでたけ、1920年6月8日 - 2017年1月27日)核物理学者。

「僕たちが親しくなったのは東大だったね。専攻は違ったが、加藤君が医学部の講義を受けていた教室と、僕が理学部化学科の卒論研究をしていた研究室が同じ建物の一階にあり、よく顔を合わせるようになった。あのとき君は、三、四人の医学部学生と一緒に熱心に勉強していた。からだつき、身のこなしがしなやかで綺麗、顔は学者、声は静か。当時もその後も、君はいつもgentlemanだ。普通の秀才ではなく天才とも言える秀才で、心の温かい、心の優しい大秀才だ」(「冥誕」(垣花秀武 かもがわ出版 29〜30ページ)

当時の東大医学部
当時の東大医学部。右端が加藤周一。
出典:加藤周一/その青春と 戦争 NHK・ETV特集 2016-08-14

医学部で学んでいた加藤周一
出典:加藤周一/その青春と 戦争 NHK・ETV特集 2016-08-14


出典:ウイキ 医学部での師 青山胤通

12月8日に記された文章
「 街にはラジオの前に人が集まってニュースをきいている。 ちょうど相撲の放送をきく人の群れのように。 しかしそれよりも落ち着いた静かさで。 最も静かなものは空である。 今日冬の空は青く冷たく澄んでいる。 水のように静かに。 ヴェルレーヌの聖なる静寂を想わせる」(青春ノートより)

加藤周一は肋膜炎のため徴兵猶予となったが、東大医学部卒の、父の人脈で、うそっぱちというか大袈裟に診断書を書いて貰うのはそれほど難しくはなかったことだろう。


1942(昭和17)年 23歳
10月日本軍ミッドウェーで米軍に敗退。秋、中村真一郎、福永武彦、窪田啓作、原田義人らと詩グループ「マチネ・ポエティク」(命名・福永武彦)を結成。赤堤の加藤家には、山崎剛太郎、窪田啓作、中西哲吉や原田義人が集まった。


山崎剛太郎(1917年〜   )早稲田大学仏文科卒。フランス語翻訳、詩人。福岡県生まれ。在学中、加藤周一、福永武彦らの『マチネ・ポエティク』同人となり、卒業後外務省勤務をへて東宝東和に入社し、『大いなる幻影』など多数のフランス映画の字幕翻訳を行う。調布学園女子短期大学教授を務めた。1990年、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受勲される。

中西哲吉(1920年〜1945年) 一高、東大での友人。1945年、学徒動員で南方に出征、輸送船がアメリカの潜水艦の魚雷を受け、フィリピン沖で沈没、戦死。
出典:http://kshu.web.fc2.com/index.html 加藤周一 poeta doctus 加藤周一氏の非公式ホームページ

「どうして私じゃなくて彼なのかと。 サバイバルコンプレックスですよ。生き残りコンプレックス。 それが私にもちょっとあるのかもしれない。 つまり彼だったらやるかもしれないというような事を全然やらないでいるっていう事の一種の何ていうかね後ろめたさっていうのがあると思うんですよね。ほとんど怒りに近い感情で反戦的気分にあおられる」(NHKのインタビューより)


1943(昭和18)年 24歳
10月学徒動員。9月25日、東京帝国大医学部を繰上げ卒業。東大附属病院医局佐々内科に副手として勤務(43年10月前後から58年8月前後まで)し、血液学を研究、無給医局員として働きはじめる。のちに美甘内科にも所属。3時間の通勤時間中にラテン語を学習。妹・久子さんに捧げる「愛の詩」を発表。


習志野での軍事教練。
出典:


1944(昭和19)年 25歳
6月 連合軍ノルマンディー上陸。8月パリ解放。10月レイテ沖海戦。11月B29本土空襲。


1945(昭和20年) 26歳
3月の東京大空襲(9日―10日)のさい、本郷東大病院で治療にあたる。そののち、春、大学の佐々内科教室とともに信州上田の柳沢病院と結核療養所「奨健寮」に8月末まで疎開。5月、輸送船で送られた中西哲吉フィリピンで戦死。「太平洋のいくさの全体のなかで私にどうしても承認できないことは、あれほど生きることを願っていた男が殺されたということである」(「羊の歌」)

★千葉の内房の海辺の町出身の看護婦と付き合う。彼女の実家にも遊びに行く。恐らくは、加藤周一の性的初体験の相手であろう。看護婦の名前は不明。その後の関係も不明。加藤周一の結婚相手としては「身分」の違いのため、父母が絶対に許さなかっただろう。

春に、東大医学部内科教室の一部が、信州上田の結核療養所に「疎開」したのに伴い、加藤周一も上田に赴く。母ヲリ子と妹・本村(旧姓加藤)久子と、彼女のまだ幼い二人の子どもたちは、追分の別荘に疎開、久子の夫、本村二正氏は中国戦線に、父加藤信一は伊豆の療養所にひとりで「疎開」する。この戦争末期の一時的、加藤周一ファミリーは分散疎開した。

長野赤十字上山田病院
長野県上田市の結核療養所 現在長野赤十字上山田病院

追分村で、近隣の村に疎開していた片山敏彦教授に会う。教授は加藤周一に「この(追分村の)林はザルツブルグの夏を想い出させるね」(「羊の歌」242ページ)と語り、加藤周一を驚かせる。


片山敏彦 第一高等学校教授。詩人、ドイツ文学、フランス文学専攻。北軽井沢に疎開していた。

広島長崎に原爆投下。


8月6日広島 出典:米軍

8月15日終戦。加藤周一は上記上田市の結核療養所の食堂で玉音放送を聞いた。「今や私の世界は明るく光にみちていた。夏の雲も、白樺の葉も、山も、町も、すべてはよろこびに溢れ、希望に輝いていた。私はその時が来るのを長い間のぞんでいた。しかしまさかそのときが来ようとは信じていなかった。(中略)これから私は生きはじめるだろう、もし生きるよろこびがあるとすれば、これからそれを知るだろう。私は歌いだしたかった」(「羊の歌」247ページ)

9月初め 東京(目黒区宮前町の、眼前をどぶ川の流れる借家)に戻る。父はここで診療所を再開業。母は健康が優れず。妹は戦争前に結婚し、二児の母となっていたが、東北地方の夫の両親の家に住み、出征した夫が帰ってくるのを待っていた。のち、夫は無事帰国する。隣家には、母方の祖母と叔母とその妹が住む。

10月 東大医学部と米軍医団共同の原子爆弾影響合同調査団の一員として広島に約2ヶ月赴任。


1946年(昭和21年) 27歳
5月東京裁判、11月日本国憲法公布。


「1946年 文学的考察」中村真一郎・福永武彦と共著(真善美社)

「1946年文学的考察」という本がある。これが戦後驚嘆されたという事実こそ、(戦時中の)鎖国の酷さを物語っている。昭和10年頃なら、ある水準の学生なら誰でも書ける程度の知識ですよ」
出典:「近代日本の批評」 柄谷行人編 57ページ

西部邁も小林よしのりとの対談で、戦後まもなくの加藤周一の発言を別の視点から鋭く批判しています。

「日本が戦争に負けたとき、岩波文化人の加藤周一たちが、この戦争の敗北の原因、それは我々日本民族に科学的精神がなかったことだ、と言ったことです。大和魂などというロマンチィックな主観的な精神で戦ったのが間違いで、アメリカには科学的精神があったから、アメリカが勝ったんだというようなことを言って、それで戦後民主主義の扉を開いたんですね。ぼくはそれを遅ればせに読んで、科学を崇拝するなんて、と思いました。平和主義も民主主義も、戦後日本を毒してきたと思いますけど、科学主義も戦後日本を毒していると思っていたんです」
出典:本日の雑談5 西部邁+小林よしのり 飛鳥新社 57ページ

一方で、こんな発言もあります。

「戦後、加藤周一は、学問を志そうと心に決めた学生にとって、輝ける星であった」--------森毅(故人、数学者、京大教授、浅田彰のお師匠さん)


★5月30日 見合い(母の友人の友人からの紹介)で知り合った京都の名門医家の令嬢、○○綾子との婚姻届けを出す。綾子には若くして逝去した初婚の仏教学者との間に、当時、小学生の子どもがいた(未確認情報→要確認)。

★母ヲリ子はこの女性との結婚を勧めた。

★「母のお友だちのお友だちから紹介された女性だった。母は兄にこの結婚を勧めました」(実妹久子氏談 「『加藤周一』という生き方」鷲巣力、筑摩書房 55ページ)女性は医家に育ちキリスト教系大学を卒業した才媛で、敬虔なキリスト教徒だった。

★「母が勧める女性と結婚したことは、鴎外の場合と同じである」(同上本 鷲巣力)

★綾子は加藤周一と再婚し、二人の間に男子の実子をもうけた(という噂がある。あくまで噂→要確認)。また、終戦直後に、堀辰雄の主治医となる。

★山崎剛太郎「大学を出ると、加藤はすぐに結婚しました。尋ねて行ったら、玄関先で、和服を着て三つ指ついてお辞儀をする古風の人でした。が、別れました」
出典:http://www.siteadvisor.com/sites/http%3A//ameblo.jp/tonton3/theme24-10001333886.html%23main?aff_id=328 とんとん・にっき 世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」山崎剛太郎・清水徹対談編を聞く!より

「再出発日記」 KUMA0504さん http://plaza.rakuten.co.jp/kuma050422/
の、下記記事を、引用・要約させて頂きました。今後、加藤周一の伝記を書いていくうえで、最上級のインスピレーションをぼくに与えてくれた文章です。非常に参考になりました。多謝。
http://plaza.rakuten.co.jp/kuma050422/diary/200910310000/
2009年11月01日 加藤周一氏の「隠し子」について

加藤周一は自分の周辺のことを語らない。もちろん「羊の歌」「続・羊の歌」という自伝はある。しかし、それさえも1960年で「審議未了」ということで終わっているし、それの続編の短文も書かれているが、70年代で終わっている。

かつて「居酒屋の加藤周一」を企画した井上吉郎氏は私にこう言ったことがある。

「加藤さんの理論なんか研究するのはやめて、もっとおもしろいものを研究したほうがいい。たとえば、彼の朝日新聞連載の『夕陽妄語』に時々問答形式の話のときに高校生が出で来るだろう彼はいまではもう立派な大人なんだけど、じつは彼の子どもなんだよ。しかも最初の奥さんの子どもなんだ」

「というと、60年代のドイツ人(オーストラリア人)の奥さん?」

「いやちがう、加藤さんはその前にすでに結婚している。いや、実際の結婚はしたかどうかははっきりしない。『羊の歌』に京都の女というのが出てくるだろう。加藤さんはそのとき結婚までいっていたんだけど、結局わかれてしまう。その経緯がよくわからない。でも、どうやらそのとき一人息子をもうけていたらしいんだよね」

「えっー! そんなんですか!」

「そのあたりを君に調べてもらいたいんだよ。どうも『夕陽妄語』に出でくる高校生はその時の息子みたいだし、まるで夢の中のこまっしゃくれた加藤さんの分身みたいに出で来るものだから、彼が一体どんな大人になっているのかもすごく気になるんだ」

「それはものすごく魅力的な話なんですけど、私の手には負えない話です」

ともかく、著作集にも加藤氏の「年表」はあるのだが、「誰誰と結婚して子供をもうけた」という話は見事なまでに削られている。だから、加藤研究で人より違うことをしようとすれば、この部分を明らかにすればいいという、井上吉郎氏の意見は正しいということになるだろう。

これは下世話な三面記事的な関心ではない。最近になって、九条の会の一番の仕掛け人は加藤周一ではないか、ということが明らかになってきた。先の朝日の記事の「居酒屋のムッシュ」では、九条の会の事務局長小森陽一が説得されたのは03年秋加藤周一氏からだということを明かしている。

加藤氏の戸籍謄本を取よせて、関係者にインタビューする等、私はそこまでする気力はない。誰か調べてくれないだろうか。

→はい、わたくし、katoshu が、今後、できる限りのことをやってみたいと思っています。


1947年(昭和22年) 28歳
3月 教育基本法、学校教育法公布 5月 日本国憲法施行。


出典:加藤周一 http://kshu.web.fc2.com/chrono.htm 場所が広島です・・・。三好和夫さんについては、ぼくは全く知りませんでした。以下、日本語ウィキペディアからの引用です。

三好 和夫(みよし かずお、1914年 - 2004年11月9日)は、医学者、医師。専門は神経筋疾患学・血液学]。東京都出身。東京大学医学部で血液学を研究した。1954年3月、第五福竜丸操業中に被爆(ビキニ事件)した乗組員の診察と治療にあたった。その後、東大付属病院(現東京大学医学部附属病院)と米軍医団共同の原子爆弾影響合同調査団に参加。1955年4月1日、京都市で開かれた第14回日本医学会総会において、熊取敏之(国立東京第一病院)とともに「ビキニ放射能の臨床的、血液学的観察」と題して発表。「久保山愛吉さんの死因は単なる肝臓障害ではなく、死の灰によって致死量以上の放射線を受けたため」と、アメリカ合衆国側の見解に反論した。また、ビキニ事件に遭った「ほかの船舶の乗組員の調査も必要だ」と主張していた。

徳島大学医学部附属病院に移り、1967年に常染色体劣性遠位型筋ジストロフィーについて報告した。1980年より医学部長を務め、のち徳島大学名誉教授。1985年、武田医学賞を受賞。2004年11月9日、肺炎のため死去。

そういえば、加藤周一の専門も血液学でした。


1948年(昭和23年) 29歳
3月7日 日曜日
「僕が一日家にいることはまれだ。朝出かけて、夜帰ってくる。帰ってくると家のなかには、Bachの平均律が溢れている。それからA(綾子夫人)の眼が明るく輝いて、僕の疲れた心の中に灯をともす。若し世に行はれる私生活の記録を称して私小説というものを僕が書くとすれば、A(綾子夫人)の眼の瞬間の印象他には、ただ、Bachについて語るだろう。その他は心を動かすものはないからだ」(JOURNAL INTIME 1948 1949より)

本当に綾子さんとの新婚生活が幸せだったことを伺わせる日記の記述です。

内田義彦・森有正・木下順二・野間宏・瓜生忠夫らと『資本論』(英訳・邦訳)輪読会をもつ。


水声社から再刊された『マチネ・ポエティク詩集』。オリジナルは、眞善美社から1948年7月に出版された。当時の参加者は、福永武彦、中村真一郎、白井健三郎、中西哲吉、窪田啓作、加藤周一、山崎剛太郎、小山正孝、原條あき子、枝野和夫氏など。ちなみに、福永武彦の息子は、作家の池澤夏樹。先日、それを知らない人に遭遇して驚いたので、念のため書いておきます。加藤周一を「複雑な彼」と命名したのは、窪田啓作(東大法学部卒業後、東京銀行に入社)


福永武彦


中村真一郎


山崎剛太郎


★1949年(昭和24年)30歳
5月30日 最愛の母ヲリ子胃癌で他界。享年五二。

ヲリ子の辞世のうた
ヲリ子の辞世のうた
出典:立命館大学 加藤周一図書館 文庫 デジタルアーカイブ 1949年5月30日の加藤周一の日記に貼り付けられていた紙。

「母が命守らんとして 手術場に まやく否みて 子は断固たり つよき兄 やさしき妹よ 母は今 しみじみと 己が幸を知りたり」

※ぼくの誤読の可能性も高いけれど、末期癌の手術をするのに、全身麻酔薬や局所麻酔、術後にモルヒネ等の麻薬を全く使わない、ということがあるのだろうか? よくわかりません。

加藤ヲリ子遺言2

「周一さま 周一ありがとう 折角の骨折(ほねおり)にむくいられず 許して下さい」

※なんというか・・・医師である父と息子の加藤周一が、2人つきっきりで治療・看病・看護していたが、ヲリ子の癌の転移進行をとめることはできなかった。上記のようなヲリ子最期のメッセージを読むと、加藤周一がヲリ子の他界後、葬式も、ほかのあらゆることも、数ヶ月ものあいだ、記憶が完全に欠落しているというのもよくわかる。

10月中華人民共和国成立。この年の春頃より、浦和から東京へ通勤する(50年5月頃まで)。荒正人と星菫(せいきん)派についての論争。

12月31日日曜日
「あや子と銀座に買い物に行く。シャツ1枚627円、カンズメ180円等。7時頃帰る。停電。立石姉妹来る。年越えを共にする。今年、家に病人あり。母死に、その後であや子病む。病気したが、来年はもう少しましになるだろうと思う」
出典:立命館大学 加藤周一文庫 デジタルアーカイブ 1949年12月31日の日記から一部引用。


1950年(昭和25年) 31歳
1月 平和問題談話会声明、全面講和・中立・軍事基地反対を主張。
2月2日 医学博士となる。

ある晴れた日に
ある晴れた日に 昭和25年3月31日発行 発行所=月曜書房 初版

5月浦和を去り、東京都文京区駒込西片町9番地へ。
6月朝鮮戦争始まる(~53年)8月警察予備隊令公布。


1951(昭和26年) 32歳
10月、第2回半給費留学生・医学研究生としてフランスへ留学。往路は飛行機。

「一九四五年の秋に、戦後日 本の社会へ向かって出発した私は、五一年の秋に、 西洋見物に出かけた。これが私の生涯における第 二の出発になった」(「羊の歌」51ページ)

「西欧の第一印象は、私にとって遂に行きついたところではなく、長い休暇の後に戻ってきたところであった。」(「羊の歌」)

パリ大学医学部(Faculte de Medecine, Sorbonne,, Universite de Paris) 、パストゥール研究所(Institute Pasteur),キュリー研究所(通称 Institute Curie)で血液学を学ぶ。この頃、ルーマニア系ユダヤ人で学校教師の既婚女性と不倫の関係を持つ。9月 サンフランシスコ講和条約・日米安保条約調印。パリで、森有正・三宅徳嘉・高田博厚らと交流。12月28日「私信3 加藤綾子宛」(「戦後のフランス」収録)

森有正
森有正
出典:https://ameblo.jp/izumino-naka/entry-11840995746.html

私は復員して1948年まで、明石の疎開先を動けなかったので、『1946・文学的考察』や『マチネ・ポエティク詩集』など、敗戦直後の加藤さんの活躍は知らない。はじめてお眼にかかったのは、1954年、パリにおいてである。彼は当時、医者としてソルポンヌに留学中だった。
(中略)
森さんのことばかり書くようだが、当時、私が加藤さんから受けた印象は、極めて森さんに似ていたからである。加藤さん、森さんから、私の学んだことは、へんに身なりを飾らないこと、余分の金を稼ごうとしないことである。外国語をやること、教養を大事にすること――これは戦争のため欧米との文化的格差がひどくなっていた1954年頃では、不可欠なことであったが、そこに金持へこびる、成上り者みたいな生活態度が加わると、鼻持ちならなくなる。知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である。加藤さんは1957年に『雑種文化』を出した。森さんと同じ講談社の「ミリオン・ブックス」だったのは、変な縁だが、加藤さんの方が少し先だったはずである。これは帰国してから書いたものだが、外国滞在の成果であることは共通している。
出典:加藤周一著作集「月報」ーー大岡昇平「加藤さんの印象」


1952年(昭和27年)(33歳)
★オーストリア人のヒルダ・シュタインメッツ(1933年生まれ 当時19歳)とフィレンツェの美術館で出会う。

12月「ルネサンス絵画集」をヒルダに贈る。

フランスでの加藤周一3
出典:ETV特集 加藤周一1968年を語る〜「言葉と戦車」ふたたび 2008年12月14日


1953(昭和28)年 34歳
5月28日、堀辰雄没。

★ヒルダに誘われてヴィーンへ。「トリスタンとイゾルデ」観劇。ヒルダへの想いを詩に託して数多く作る。翠夫人の時と全く同じ。女たらしな加藤周一がここにいる。「ぼくはおぼえている おまえの声を」「雨の日の汽車」「春の海」「人の噂」(のちに「薔薇譜」に収録)「ぼくはおぼえている おまえの眼を」


1954(昭和29)年 35歳
7月 自衛隊成立 11月アルジェリア戦争。
下記は35歳前後の写真。三井鉱山株式会社本店医務室時代(1955〜1958)

出典:横浜・青葉台暮らし http://ameblo.jp/miffy3616/theme-10027769234.html


1955(昭和30)年 36歳
11月自由民主党結成(保守合同)、55年体制へ。2月4日帰国、6週間以上の大阪商船・貨物船あとらす丸での船旅、神戸で下船。同行者にはR・P・ドーアもいた。4月より明治大学非常勤講師(~60年7月頃)としてフランス文学を講義。本郷東大病院勤務とともに三井鉱山株式会社(東京・日本橋)で内科医として隔日勤務。(~58年8月頃)。

★しばらく、ヒルダとともに、追分の別荘で暮らす。

★この頃の住所は東京都世田谷区玉川上野毛 本村方。妹との同居が再開された。

★この年、矢島翠、東京大学文学部を卒業して共同通信社に入社。


1956(昭和31)年  37歳
2月ソ連スターリン批判 11月 ソ連ハンガリーに軍事介入。

「雑種文化ー日本の小さな希望」(大日本雄弁会・講談社・ミリオン・ブックス)発行。
以下は、上記本についての、吉本隆明の辛辣な批判。
「さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない」(吉本隆明「三種の詩器」)


1957(昭和32)年  38歳
4月4日 ハーバート・ノーマン、カイロで自死。


1958(昭和33)年  39歳

ヒルダ・シュタインメッツ夫人、雄鶏社より「ウィーン風家庭料理」を出版。担当編集者は、向田邦子だった。上記は、ウィーン家庭料理といえば、これ! の「ウィーン風カツレツ(ウィンナー・シュニッチェル Wiener Schnitzel)」

9月 第2回アジア・アフリカ作家会議準備委員会書記局員としてウズペック共和国タシュケントを訪問。同行者には伊藤整、野間宏、遠藤周作。その後オーストリア・クロアチア(ユーゴスラヴィア)・ケララ州(インド)を訪問。

この年、医師を廃業。

1959年(昭和34年)  40歳
ヨーロッパからインドを経て、1月26日帰国。これを機に医業を廃して、文筆業に専念。

1969年羽田2
1959年10月 羽田空港にて。右から加藤周一、中村眞一郎、吉田秀和。
出典:日本現代文学全集104 講談社 口絵


1960年(昭和35年) 41歳
東大文学部講師に就任。

★綾子夫人と離婚。「1960年は、私にとっては、戦後の東京の生活の結論の年であり、またその後の生活への出発の年でもあった。」(続羊の歌)

以下、綾子夫人との別れの場面。しかし、普通の感覚の女性から見れば「なんて身勝手な、自分に都合の良い屁理屈をグダグダと並べる嫌味でキザな男かしら」と思うのではないか? それとも、このセリフって、やっぱりかっこいいですか? 水村さん。

「そんなことってあるかしら。こんなに待っていたというのに」。そのとき私は同じことをくり返す私自身を憎んでいた。私は自分が一人の人間の生活を精神的に破壊しようとしていることを感じた。「あなたは馬鹿ね。また同じことになるでしょうに・・・」。そうに違いなかったろうが、将来「また同じことになる」かならぬかは、私にとって全く問題ではなかった。「不満な点があるなら、いってくれ」と彼女は言った。そういうことではない。私はながく彼女を愛していると思っていたが、ひとりの女にほんとうに夢中になったときに、彼女と私の間の関係がそれとちがうものであったことに気づいたのである。「不満な点などひとつもない。欠点があったとすれば、それはたしかに私の側にありすぎるほどあっただけだ」と私はいい、事実そう思っていた。相手の責任のない不幸を、私が相手の生活のなかにつくり出す、ということを承知の上で、私が行動するーー行動せざるをえない、というときに、その当の相手と話すことのあるはずがない。私は喋り、喋ることの無意味さを感じ、疲れきった。私は放心状態で彼女に別れ、二度と会うまいと考えた。もはや相手のことを考えつづける気力もなかった。それは完全に自己中心的な状態である。しかしそういう状態が成立すると同時に、私はそういう自分自身を第三者のように眺めていた。この「自己」とは何だろうか。一人の女から去って、別のもう一人の女へ向う人間の内容は何であろうか。その二人の女との関係を除けば、私のなかには何も残らず、ただ空虚だけが拡がっているように思われた。(「続羊の歌」190〜191ページ)

8月1日 原田義人死す。10月カナダに渡り、ブリティッシュ・コロンビア大学に客員教授(Assistant Professor,Department of Asian Studies, University of British Columbia)として出講、日本文学古典を講じる(Japanese Literature in Translation)のちに正教授(Full Professor)になる(69年8月まで)

ブリティッシュコロンビア大学
ブリティッシュ・コロンビア大学
出典:ウィキ


大学所在地のバンクーバー 
出典:http://lifevancouver.jp/aboutus


ソーニャ・アンゼン

1960年、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学でフランス文学を教えていた加藤周一の生徒。ヒルダ夫人の親友となる。その縁もあって、養子の名前の「ソーニャ」は彼女からとられたという。
出典:2016年 加藤周一文庫開設記念講演会
http://plaza.rakuten.co.jp/kuma050422/diary/201605070000/


1961年(昭和36年) 42歳
1月ケネディ大統領に就任 5月ヨーロッパ旅行へ。8月ベルリンの壁。


1962(昭和37年)(43歳)
9月からカナダU・B・Cに帰任。

★ヴァンクーヴァー日本領事館にヒルダ・シュタインメッツとの婚姻届を提出。


出典:「頭の回転をよくする読書術」(光文社カッパブックス)。ぼくはこの本の奥付に記載されていた上野毛の住所を高校1年のときに訪問した。


出典引用:再出発日記

https://plaza.rakuten.co.jp/kuma050422/
加藤周一に関してネット上で最も言及の多いブログ。その節はありがとうございました。


1963(昭和38)年  44歳
11月ケネディ大統領暗殺。5月カナダを出発、9月までヨーロッパを旅行。


1964(昭和39)年  45歳
10月 東京オリンピック 5月ー7月、ミュンヘン大学へ出講『正法眼蔵』などを講義(Gastprofessor, Ostasiatishes Institute, Universitat Munchen) 8月に帰国。倉敷でダートマス会議。


「海辺の町にて」 な、な、な、なんですか、誰なんですか、この天下のイケメンは! 橋龍? 違う違う、この超イケメンは我らが加藤周一。日活のニューフェイスに応募していたら、間違いなく合格・採用されたでしょう。断言しておきます。

吉本隆明の「加藤周一は女性にモテモテだから書くものがダメになるのだ」という意見にぼくも一票入れさせて頂きます。マスクはむろん稀代の美男子のそれですが、それに留まらず「内省的な知性」を写真を通して感じさせるところが凄い。例えば、三船俊郎は天下の二枚目でしたが、そのマスクに「知性」を感じさせるものはなかった(だからこそ大スターになれたのだけど)。

以下、余談ですが、ある女性と話していたら「全盛期の加藤周一より柄谷行人のほうがはるかにセクシーだ」といって柄谷さんのおっかけをしていました。「駒場のジュリー」でしたっけね、柄谷さんの渾名は。いや、それは村上陽一郎でしたか。その本家ジュリーは、すっかり「ドラえもん」と化していますが、柄谷さんも・・・。ま、このあたりまでくると、好みの問題でしょうね。最近の知識人では、藤原帰一教授が群を抜いての色男、美男子だと思います。「藤原帰一は女装が趣味」というのは、妬んだ誰かのデマでしょうけど、才能あるスタイリストが、藤原先生を女装させたら、玉三郎なんて目じゃない、エリザベス・テイラー系の「絶世の美女」になると思います。一度観てみたいですね。


1965(昭和40)年  46歳
2月米軍ベトナム北爆開始 4月べ平連デモはじまる


4月4日 丸山真男・田中慎次郎・都留重人・豊田利幸・中野好夫と6名連名で「ベトナム問題に関し日本政府に提案する」


1966(昭和41)年   47歳

5月中国文化大革命始まる、8月北京に紅衛兵。
6月岩波書店「思想」の編集顧問になる。(~12月)

9月、10月サルトル・ボーヴォワール来日,座談会に参加。
1966来日したサルトルとボーボアール
朝吹さん・・・フランス語の通訳大丈夫だったのかな。

10月から翌年1967年3月まで、「羊の歌」を朝日ジャーナルに連載。


1967(昭和42)年   48歳
4月 ウイリアムズバーク日米民間人会議(ダートマス会議)で、ベトナム北爆についてスカラピーノを論駁、桑原武夫、鈴木治雄、D・リースマンら同席。

★加藤周一と矢島翠、ハワイで初めての出会い。



★加藤周一と矢島翠がニューヨークで同棲を始めるのが、矢島翠さんの発言や著作から、1969年からで、知り合ったのは、加藤周一が、ハワイ経由でニューヨークに行くさい、共同通信の記者で当時ハワイ在任中だった矢島翠がハワイを案内した(1967年)のが、二人が知り合う最初のキッカケ(「知の巨匠加藤周一」191ページ 山崎剛太郎の発言)だったとのこと。この年の4月、ウィリアズバーグに行っていますから、途中でハワイによったのがこの時でしょう。

7月から12月まで、「続 羊の歌」を朝日ジャーナルに連載。翌年1968年、岩波新書にまとめられて「羊の歌」「続 羊の歌」が刊行される。

⭐️「羊の歌」というタイトル名は、加藤周一じしんの公的説明では「わたしが、羊年に生まれ、羊同様おだやかな性格だから」ということになっています。

が、多くの人が、同じ羊年生まれの詩人、中原中也の「羊の歌」を意識しているだろう、加藤周一は中原中也の詩を好んだから、と指摘していますが、大好きだった先行詩人の著作と全く同じタイトルにする、というのは、ちょっと加藤周一らしくない。プライドを持った物書きなら、尊敬する先行作家の著作と全く同じタイトルの本を出すというのは、著作権の問題もあるだろうけれど、「避けたい」と思うのが普通だと思うのです。

鷲巣さんは、このタイトルに、彼なりの面白い疑問を抱いていました。

「なぜ『歌』なのか。中也の『羊の歌』は詩であり『歌』と表現するのは当然である。加藤周一の『羊の歌』は半世記であり散文である。『歌』という必要は必ずしもない。にもかかわらず『歌』と謳った。その理由は何だろうか」(「加藤周一という生き方」 筑摩書房 107~108ページ)

大変面白い疑問だと思います。で、その謎解きの回答として、鷲巣さんは「「羊の歌」にはいくつもの意図・主題が撚りあわされて編み上げられている。その意図のひとつに、「羊の歌」のなかには何人かの女性が登場するが、彼女たちに対する「女性賛歌」としての意図があったのではないか」(同上)と読み解いています。

う~~ん、唐変木、じゃない失礼、頓珍漢なハズレでしょう。仮に「女性賛歌」の裏の意図があるなら、いくらタイトルにセンスのない加藤周一でも違うタイトルにしたでしょう。

むしろ、某匿名掲示板に書き込まれていた、以下の指摘のほうが、いかにも加藤周一らしいと思います。

「「羊の歌」は、ギリシア語の悲劇 tragoidia(山羊の歌)を意識している。 加藤周一氏は、自分が羊年に生まれたから云々と説明しているけど、もちろん韜晦ね。」(某匿名掲示板)

「現在のヨーロッパ諸言語で悲劇を指す語は、古代ギリシア語において悲劇を指す語「トラゴイディア」(tragoidia)から発展したものである。トラゴイディアの原義は「ヤギの歌」であるが、なぜこの劇形式がそのように呼ばれるかについては諸説ある。その説の一つとしては、劇の背景や状況などを歌い上げる合唱隊コロスが、牧羊神の衣装を着ていたからというものがある。この説は有力なものとされているが、研究者間で意見の一致をみているわけではない」(ウィキペディア「悲劇」の項より引用)

この理由(韜晦)のほうがいかにも加藤周一らしいです。「ギリシャ語、ラテン語もわかるんだぜ」という隠蔽された自慢と自己満足。

ぼくは、こちらのほうが正解だと思いますが、鷲巣さん、そのあたりどうですか?


1968(昭和43)年   49歳

「羊の歌」 岩波新書

加藤周一1968年(昭和43年)2
この頃の加藤周一
出典:日本現代文学全集104 講談社 口絵


★(この部分前述の繰り返しですが)加藤周一と矢島翠がニューヨークで同棲を始めるのが、矢島翠さんのインタビューに答えての発言(「加藤周一における『時間と空間』168ページ」)から、1969年からで、知り合ったのは、加藤周一が、ハワイ経由でニューヨークに行くさい、共同通信の記者で当時ハワイ在任中だった矢島翠がハワイを案内した(1967年)のが、二人が知り合う最初のキッカケ(「知の巨匠加藤周一」191ページ 山崎剛太郎の発言ということから、加藤周一と矢島翠のハワイ滞在年を調べていますが、少なくとも1967年以前に知り合っているハズです。

鷲巣さんは「第四の時期は、一九七〇年代前半である。このころに矢島翠との出会いがある」(「『加藤周一』という生き方」52ページ)と書かれてますが、側近中の側近だった鷲巣さんが、二人の「なりそめ」の正確な時期を知らないはずがない。ぼくのような外野席の人間でも、ほんのちょっと調べればわかるんだから。

この表現だと、二人が知り合ったのは、1972年か1973年頃と読者は受け取るでしょうけど、1974年に正式に離婚したヒルダ夫人との「時間差」を鷲巣さんが「気を利かして」「意図的に短縮」しているのではないかという疑いがある。 

「羊の歌」タイトルの珍解釈はご愛敬としても、この手の「事実関係の歪曲」を、側近中の側近編集者で、いまは加藤周一文庫の館長たる人物が、「意図的に」やっているとしたら、許しがたい行為だと思います。たとえば、ニーチェの妹が、どれだけ後世のニーチェ研究の妨げになってきたか、鷲巣さんならよくご存知でしょ?


他の項目でも引用させていただきましたが、こうした点で、ぼくと似たような感想を抱いた方がおられました。古井戸さんという方で、鷲巣さんには厳しいけれど、非常に鋭い指摘です。

なおここで以下、解説者=鷲巣力さん です。

長い引用で恐縮ですが、加藤周一の人生に関して、非常に重要なことなので、古井戸さん、どうかお許しあれ。


▼引用ここから

加藤(および、加藤に寄り添う人)にとって、自分の思考はどのように変化しようとも、内的な一貫性(必然性)は、あるのは当然である(気でも狂わない限り)。しかし、「変節」と呼称しないまでも、神を信じない、と、言った人が、何年後かに神を信じる、と言い出せば、信条を変えたのだな、と普通の日本人なら思うのが当然ではないか。われわれは、生まれつきある信条や宗教を信じているのではない。あるとき、ある切っ掛けや条件で信じるようになるのである。その条件が解消あるいは変われば、思想や信条は変わって当然である。なぜ、晩年になるにしたがって、家族愛が大きく思考を占有するようになり、信条を変更することになった、と言わないのか。思想家(あるいは一般人にとって)信条の変更はただちに不名誉ということにはならない。いかなる信条を、いかなる理由で、変えたのか、を説明するのが公人の義務であるとわたしはおもう。できれば加藤自ら説明すべきであった。加藤は、己の信条を公にすることを職業とするひとだからである。加藤の家族(妹さん)は、このような加藤周一(兄)の入信の説明に満足しているのだろうか。加藤に近すぎる人(あるいは内在的理解力に富みすぎる人)を解説者に選んだのは加藤の不幸であった。

加藤の奥さん(矢島翠)は、最晩年加藤の病状が悪化するにつれ、

「加藤周一が加藤周一でなくなっていく」

と嘆いたという。自選集p488

わたしは、入信したこと、あるいは、入信の告白、打診の電話(鷲巣に対する)も、「加藤周一でなくなって」きたことの兆候か、とおもってしまう。加藤周一でなくなった後の加藤の公的および私的行動は無視してよい。 あるいは、加藤はもともと(若いときから)無神論者ではなかった。

##追記2011/1/19
家族愛(というより、母と妹への愛)ゆえに、入信したという説明は、なぜ、若いときに入信しなかったのか、死の間際に駆け込み的に入信せざるを得ないいかなる理由があったのか、を説明していない。

編集者=鷲巣力もこれを気にする読者のため次のような解説を行っている。

自選集p493
「わたしはもう幽霊なんです」という(加藤の)ことばで表現しようとしたことは、すでに私は死んでしまったのだ、ということだろう。だれが死んだのか。思想家、作家としての加藤、いわば「公人としての加藤」に違いない。「公人としての加藤」は死んでもなお「私人としての加藤」は死んではいない。「私人としての加藤」は、母を想い、妹に心をかけて、カトリックに入信する。とはいっても「私人としての行動」と「公人としての行動」はそう簡単に切り離されるものではない。」 



この文章の後、二頁の説明(弁明)をおこなって、(鷲巣力氏は)次のような結論を導き出す。

(『羊の歌』にある「宗教は神仏のいずれも信ぜず」という立場にもかかわらず)

「加藤の行動に、むしろ加藤の一貫性と加藤の世界を感じる。加藤の「理の世界」と「情の世界」の接点に、あるいは「公人としての加藤」と「私人としての加藤」の接点に、「カトリック入信」が用意されていたのである」



私の理解では鷲巣氏は気の回しすぎ。

重要、とわたしがおもうのは、自選集解説(by鷲巣)によれば、加藤周一自ら入信する、との意思表示はなく、鷲巣との電話の後、鷲巣氏が(この電話は)入信の意思表示だと理解して、教会にその手続を取った、ということ。

なぜ、24時間生活を共にしている奥さんを差し置いてこのようなことが編集者にできるのか、という疑問が湧く。むろん奥さんの了承は得ているのだろうし、加藤周一も洗礼を受けたのだから、加藤の意志に反してということはありえないだろうが。一体、当時、加藤周一はどのような状態(精神、体力)だったのだろうか。入信のような重大な決定であれば、身の回りの面倒を見ている(以上の存在の)配偶者に意思を表示しておくのが当然とわたしはおもうのだが(加藤周一に入信の意志があれば、矢島氏にとおの昔に知らせており、その手続も依頼していたはず)。

鷲巣が伝えている、矢島氏「加藤周一が加藤周一でなくなっていく」という嘆き、が現実味を帯びる。

出典引用:試稿錯誤 日々の雑念を記録する 書き手:古井戸さん(ニックネーム)
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2011-01-16

▲古井戸氏の引用ここまで。



「またあるときはハワイ運河のほとり・・・・(中略)しかしここでは私事には立ち入らないことにしよう」(「『羊の歌』余聞」52ページ)

上記記述は、間違いなく、翠夫人と出会ったハワイでの、懐かしいデートの思い出を仄めかしている。



1月東大紛争 ヴェトナム・テト攻勢 
3月31日ジョンソン声明「北緯20度以北の北爆停止」
4月マーチン・ルーサー・キング暗殺 
5月 フランス「5月革命」、ヴェトナム・パリ和平会談
6月 ロバート・ケネディ暗殺 プラハ「二千語宣言」
7月末ニューヨークからパリに行く 
8月 UBCのビギニング夫妻と車で東欧を旅行、チェコ「プラハの春」、ソ連軍侵入を8月21日ウィーンで聞く。
9月中頃 ヴァンクーヴァーへ帰る
10月米北爆停止。劉少奇失脚。

⭐️別項。「羊の歌」に埋め込まれた謎解きの続き

以下引用は、
静かな日 http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2013/04/201-da72.html

★引用ここから

「加藤が晩年カソリックに入信しルカという受洗名を与えられたことはよく知られているが、その意味がこの本で初めて明かされている。

それは「カソリックであった母や妹とともに死後の世界にいたい」という動機、主として妹への愛によるもので、カソリック的世界から苦闘の末から逃れ出てきた妻、矢島翠には耐えがたい行為だった。

鷲津さん自身も、加藤さんの実妹への愛に驚いたと書いている。

「読者を裏切るものだ」という矢島翠の激しい抗議も聞き入れられなかった。その結果、矢島翠は回復することのない深い喪失感を抱えたまま約1年後に死亡するのである。

加藤周一の晩年をきわめて陰影深くしているこの事件こそ、鷲津力さんが書きたかったことに違いない。

*今朝、僕はふと本棚のなかで目にとまった菅野昭正編「知の巨匠 加藤周一」岩波書店(2011.3.10刊)を取り出して読みなおしてみた。

驚いたことに、そこにある大江健三郎「いま『日本文学史序説』を再読する」のなかに、上記のことに響きあう部分を発見した。

表面的には「古事記」に残っている古い短歌の美しさを加藤さんが感嘆しているという話である。

それは近親相姦の罪に問われて、大江さんの故郷の松山に流されて心中する皇子と皇女の間に交わされた歌で、もはや歌垣などで集団的にうたわれるものでなく、きわめて個人的な情愛の詩である、という加藤さんの説を大江さんは紹介している。

これはおそらく木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の話だろう。

ここで大江さんが間違っているのは、二人を異母兄妹と説明したことである。そうならば罰せられることはない。二人は同じ母を持つ兄妹だったので流刑にあったということになっている。

僕が気にするのは、加藤さんが日本で初の美しい個人的な情愛の詩としてこの二人の短歌を紹介したときの彼の潜在的な意識ということである」

★引用ここまで

参考

カルノオホイラツメは、あまりの美しさに肌の色が衣を通して照り輝くほどだっため、衣通と呼ばれたという。カルノミコのほうも、見る者はつい見とれてしまうほど美しい容姿だという美男で、皇位が約束された身だった。この同父同母のふたりが、愛し合ってしまったのである。

出典:日本の「神話」と「古代史」がよくわかる本 PHP研究所日本博学クラブ 島崎晋

絶世の美女と美男子・・・この二人の兄妹は、しっかりと結びついたままで輪廻転生し、20世紀はじめの日本で、兄・加藤周一と妹・加藤久子さんとなって、見事に生まれ変わったのではないか。その愛の絆の強さには、ただただ驚くばかり。

また、加藤周一は、日本文学史序説 上 の88ページで、あまりにも有名な歌、

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

を「万葉集」随一の歌としていますが、これもまた「禁断の愛」の歌なのであった。

さて、岩波新書の「羊の歌」には、見合いで初婚の綾子さんと別れるにあたって、「愛していると思っていた、あるいは、愛したいと思っていたにすぎないことを、はっきりと理解した」と、当時、連載されていた公の雑誌である「朝日ジャーナル」に加藤周一は書いています。

外国で知り合った金髪19歳女性の、金粉飛び散るピチピチ豊潤クチュクチュベロリの肉体に溺れて、綾子さんへの愛が醒めたのは仕方がない。加藤周一だってそこは、健康な、スペルマ飛び散る普通の男です。しかし、書き方ってものがあるでしょ、いくらなんでもこの言い方は酷すぎる。

やがて、綾子さんと離婚する原因となったヒルダさんへも、ヒルダさんと離婚する原因になった矢島翠さんへも「愛していると思っていた、あるいは、愛したいと思っていたにすぎないことを、はっきりと理解した」というクサイセリフと、ほぼ同様の仕打ちを、加藤周一は平気でする。そのくらいなら、最初から、

「ぼくは妹を誰よりも愛している。妹以上に素晴らしい女性はいない。もちろんぼくたちはプラトニックな関係だけれども、究極の愛、至高の愛、それは、わが妹への切ない想いや、情愛のなかにこそあることをぼくは知っている。つまり、あれほどまでに美しくキュートで聡明な妹への愛、しかし、決して成就されることのない、また、されてはならない愛、口づけが、肉体の交わりが、かくも厳しく制約された禁断の愛こそ、つまりは、インセストこそ、我がユートピア(=どこにもない場所あるいは悲劇)なのだ。無事成就された愛などそれに比べたら・・・」

と、知り合った女性にまず滔々と語り、相手を「どん引き」させ、独身を貫くべきでした。矢島さんとは籍は入れていないようですが、二人は、誰が見たって「内縁の妻」以上の間柄でした。

「しかし、それ(加藤周一との同居生活)は矢島翠が、覚悟をもって主体的に決めたこと、他人があれこれいう問題ではない」と各方面から叱られるかもしれないけど、まさか、死の床にあって、「天国で母と妹と穏やかに暮らしたいから洗礼を受ける」なんて加藤周一が自分に告げるとは、さすがの、矢島翠さんでも思いもつかなかったでしょう。

加藤周一にとっては、妹さんと結ばれず、結婚できないことは、彼にとってまさしく「人生の悲劇」だったことでしょう。

妹さんとの(精神的な)近親相姦的恋愛関係。妹さんは、加藤周一同様、母親譲りの、稀に見る、キュートでおちょぼな美少女であると同時に、非常に聡明な才女でもあり、庶民からすれば、そんな「高嶺の花」が実の妹にいて、追分別荘での長く続いた一夏の滞在は、いつも、たいてい、彼と妹さんの二人だけでした。

八月末、軽井沢に別荘を持つ「東京ブルジョア階級」のほとんどが帰京した後も、二人とも学生の身分(妹さんは雙葉)だったため、都会人の誰もいなくなった九月の上旬まで、夏は10年の長きにわたって、二人きりで追分の別荘に滞在していました。

加藤周一じしん、妹さんとのプラトニックな恋愛関係を一挙に飛び越えて、現実の肉体的近親相姦に陥る危険性を自覚していたこと。その自覚と抑制が、加藤周一にもたらした内心の歓喜。いわば「インセスト、我がユートピア」のようなものだったのではないでしょうか。

九月に、田舎の追分から、大都会東京に帰京すると、都会の猥雑さや、文化・芸術がよりディープに味わえるため、妹さんと二人で都内のあちこちを「デート」し、母が呆れていたことが「羊の歌」には書かれています。

また、新築された上野毛の自宅は妹さん夫婦との二世帯住宅でした。

加藤周一が壮年期以降、世界中を旅し、滞在し、世界中の大学で教鞭をとれたのは、戻る場所があったからであり、それは、高級住宅地上野毛に、妹さん夫婦と二人の甥が住む、二世帯住宅があったからに他ならないこと。人間は、確実に戻れる場所があればこそ、遠くまで旅立つことが可能になるでしょう。

加藤周一の版権継承者は、京都の実子や養子、矢島翠さんの子どもではなく、妹さん夫婦に出来た子ども(甥)というのも驚きです。

加藤周一が、三人の「妻」を冷酷無残に捨て去ることができたのは、彼のマザコンとインセストラブのなせる技でした。それらは、加藤周一を最晩年まで「美貌の大知識人」として輝かせることに成功しましたが、伴侶となって仕えた三人の女性にとっては、「マザコン男とは結婚するな」という俗世間のことわざを、身を持って、ホラー映画のように体験するあまりに辛い、「悲劇的な出来事」となりました。

加藤周一の人生、まさしくそれは、ギリシャ語で言う「tragoidia=悲劇=羊の歌」として、彼に仕えた三人の女性の悲劇的な死を踏み台にし、1968年刊行のタイトルに埋め込まれた予言通りに、つまり、「予言の自己成就」をあますところなくなしとげて、「羊の歌あるいは悲劇」として、かくも見事に完結されたのです。⭐️

※最後の「悲劇」の部分をぼくは誤読していた。別項を参照のこと。


1969(昭和44)年  50歳
1月東大安田講堂攻防。10月ベトナム反戦運動全米に広まる。

9月から1973年8月まで、ベルリン自由大学教授として東アジア研究所に勤務(Ordentlicher Professor, Direktor des Ostasiatisches Instituts, Freie Universitat Berlin)
西ベルリン・シャルロッテンブルグ駅近くの、ライプニッツ街とカント街の交叉するあたり(「認識論と存在論との交叉するところ」)に住む。

鷲巣さんは、加藤周一がいかに諧謔に富み、風刺が利き、遊び心に満ちていたかの事例として、上記、加藤周一がベルリンに住んでいたころ、住まいの在りかを聞かれて、

「認識論と存在論の交叉するところ」

と、答えていたことをあげています。

鷲巣さん、ぼくが感じたのは、鷲巣さんの受けた印象とはまるで正反対のことでした。

こんな表現、まったく面白みに欠け、冴えた機知など、どこにも感じられず、「くだらない」のそのひとことで誰もが早々に片付けてしまう、ダサイ喩えだと思います。大学に入学したての、哲学科の学部生がいうなら、まだわかる。しかし、それですら「青臭くて恥ずかしいこと言うなよ」と回りから突っ込まれるのではないか。

鷲巣さん、ですから、この事例紹介はまったく逆効果だと思いますよ。ぼくは本邦知識人サークルの完全な外部にいる人間だけど、「加藤周一って、まるで面白くない、つまらぬことを、気取って話す人だなあ」と、平均的な読書家ならそう感じると思います。

★矢島翠と加藤周一がニューヨークで一緒に暮らし始める(加藤周一における時間と空間 「矢島翠、加藤周一を語る 168ページ)」

★加藤周一、ヒルダとの離婚を決意「『加藤周一』という生き方(78ページ)」


1970(昭和45)年   51歳
この年、上智大学教授に就任。1月1日 パリ・オランジェリーでジャコメッティ展を見る。
11月三島由紀夫割腹自殺。


三島由紀夫(平岡公威、1925年〜1970年)と妹・平岡美津子(1928年〜1945年)

加藤周一と妹・久子の関係との類似。「良家の子女」とインセスト・タブー

三島由紀夫は、妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての “愛”だったのだと思える。(湯浅あつ子「ロイと鏡子」)

妹であればこその、男としての愛し得ない障害の予感が、三島を昂ぶらせた、保護者の快さもある、活字でしかしらなかった女の、初々しいながら、すべての萌芽を妹はしめす。美津子の求めに、先んじて応対するなど、なつのそれに較べいかに容易なことか。妹の満足そうな表情に、三島も充足感を覚える。「お転婆」「おしやま」「あきつぽさ」「わがまま」「驕慢」のそのすべてが、好ましい。しかも、中等科へ入れば、才能を認めた教師の寵を受け、はるか年上の文芸部員が、対等のつき合いをしてくれる。(中略)そして肩肘張ったその疲れを、美津子が癒した。( 野坂昭如「赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫」)


1971(昭和46)年   52歳
9月26日~10月19日まで日中文化交流協会訪中団(団長 中島健蔵・事務局長白土吾夫)に加わり、中国(広州、北京、西安、延安など)を3週間訪問、周恩来とも会見、10月帰国。


万里の長城での杉村春子さんと加藤周一さん(1971年秋)出典:東眺西望 http://japanese.cri.cn/781/2010/09/21/Zt162s164214.htm


文学とは何か 角川書店 初版1971年 再刊2014年


1972(昭和47)年   53歳
2月米中首脳会談・共同声明 、ニクソン訪中、連合赤軍浅間山荘事件。4月22日、ヴィーンの孤児院からヒルダとの間に、まだ1歳にも満たない女の子を養子にとる。カナダ・バンクーバーの大学で教えていた時の愛弟子、ソーニャ・アンツェンから、ソーニャと名付ける。養子縁組の届け出は11月。ソーニャの生年月日は、1972年1月14日、ウィーン生まれ。下記サイトを参照のこと。
https://de.wikipedia.org/wiki/Sonja_Kato-Mailath-Pokorny
http://www.unikato.at


養子のソーニャ

1967年のハワイでの出会いから、この年にかけて、矢島翠との関係が急速に深まる。矢島翠は、東大が女性に門戸を開いた第1期生で、東大英文科卒。

★「空気のように扱って」冷酷に見捨てたヒルダの時同様、今度は、矢島翠への相聞歌が数多く書かれる。いい気なもんだよ、加藤周一。

★繰り返しますが、鷲巣さんは、加藤周一と矢島翠が「出会った」のは一九七〇年代前半としているが(「加藤周一という生き方」52ページ)、いろんな二人の知人、矢島さん本人の証言を照らし合わせると、最初の出会いは、1967年ハワイで、その後、急速に親しくなっていると思います。

★矢島翠
東京都出身。聖心女子学院小、中、高を経て(聖心では美智子皇后の2年先輩にあたる)、女子に門戸が開かれたばかりの東京大学文学部に入学し、英文学を専攻。1955年卒業。同年共同通信社に入社、外信部、日本女性では初めてのニューヨーク特派員など。単独著書として下記がある。
単著『女性特派員ノート』人文書院, 1978.6
単著『出会いの遠近法』潮出版社, 1979.7
単著『ヴェネツィア暮し』朝日新聞社, 1987.10、のち平凡社ライブラリー68、平凡社, 1994.8


出典:恋情あふれる漢詩 http://hinokakera.exblog.jp/23619239
加藤周一(当時ベルリン自由大学教授)から矢島翠(共同通信)へ捧げられた愛の詩。もと漢文。1972年7月1日。加藤周一の当時の妻であるヒルダさんは、加藤周一の自分への愛が完全に冷めていくことへの「最後の打開策」として、ヴィーンの孤児院から、まだ幼い女の子をもらい受け、ソーニャと命名し二人の養子にした。しかし、加藤周一を自分ヒルダとソーニャのもとにつなぎ止めておくことはできなかった。ヒルダさんの苦悩と、加藤周一の「ヒルダ? それって誰?」的対応。だから、この年前後は、妻ヒルダさんの「死に至る絶望」と加藤周一の「不倫愛への情熱」が交差した大転換点の年なのだ。ヒルダさんは「周一は自分を空気のように扱う」と妹・久子さんに絶望的な自分の気持ちを伝えている。空気のように扱う? ヒルダさん、加藤周一は、最後期に「天国では、母(すでに逝去)と妹(ご存命)との三人で穏やかに暮らしたい」といってカソリックの洗礼を受け、翠さんをポイ捨てしちゃいました。詩の方は、加藤周一が書いたものとしてはそこそこ上手いけれど、翠さんにとっては「死に神」に変貌した加藤周一の冷酷無残さこそが彼の本質(の一部)なんです。翠さんへの愛が100%醒めていても、「翠がこちらに来たら、二人の骨をないまぜにして、夕陽の沈むヴェネチア沖に船を出し、わたしたち二人が、手を取り合って、ともにアドリア海に散骨されることを望む」くらいの遺言状をなぜ書いておかないのか。万巻の書物を読んでも、それしきの配慮ができないなら、全くなにも知らないのと同じ。翠さん、いまも昔も「東大生と結婚するさいの最大のライバルは、彼の母親」って言うでしょ。加藤周一には、世界のどこに滞在しようと、帰巣する場、すなわち、初恋の相手でもある上野毛の二世帯住宅で待つ最愛の妹さんがいた。マザコンとインセストに見事に染めあげられた「加藤周一お殿様」。九条の会で、「あれほど戦争で死ぬのがイヤだといっていた男(中西哲吉)が死んだ。彼がいま生きていれば立ち上がって戦争反対のために行動するだろう。ぼくは親友を裏切りたくない」な〜んてタンカを切って、その気持ちに嘘はないと思うけれど、加藤周一にとって、「友情」とはあくまで男子限定。母親と妹さん以外の女性は、所詮、皆、「家政婦」なんですよね。

山崎剛太郎「矢島翠はパートナーです。夫唱婦随、従属関係の生活を加藤は嫌っていました。尊重して、助け合って暮らす。今頃国会でやっているが、加藤はその頃から実践していた。共同通信の記者をしていた矢島翠は、加藤がアメリカへ行くときにハワイを案内したのが最初でした。」
引用元:http://www.siteadvisor.com/sites/http%3A//ameblo.jp/tonton3/theme24-10001333886.html%23main?aff_id=328 とんとん・にっき 世田谷文学館で「知の巨匠加藤周一ウィーク」山崎剛太郎・清水徹対談編を聞く!より


1973(昭和48)年   54歳
1月から1979年9月19日まで朝日新聞客員論説委員。


1974年(昭和49年) 55歳 
★4月22日、父の信一が他界。享年八九。父も死の直前にカトリックの洗礼を受けている。

7月末から渡米、9月から1976年8月まで イェール大学(北米ニュー・ヘヴン)に客員講師(Visiting Lecturer,Department of History& Department of Modern Language and Literature, Yale University)として出講。

⭐️二番目の妻、ヒルダと離婚。養子ソーニャはヒルダが引き取る。ヒルダの没後は、ヒルダの妹スージーが養育する。

⭐️日本でいわれているのと全く逆の辛らつな評価を今は別れちゃったオーストリア人の加藤夫人から聞いたことがある。ウィーンのホテルで一晩ダベッたところ一晩中加藤批判だった。その時の加藤評価は日本でいわれているのと全く逆。彼女が言うには、加藤の役目は、ヨーロッパあるいはヨーロッパ的世界にいてヨーロッパ的世界の目で日本をみて、それを日本や日本人に伝えることにあるのだが、彼には非常なコンプレックスがあるということなんです。つまり、少し外国にいるとあいつはヨーロッパにイカれたんじゃないか、日本人でなくなったんじゃないかと思われそうだというコンプレックスがあって、しょっちゅう日本に帰ってくるが、それが彼にとってはマイナスであるという批判なんです。なんというくだらないコンプレックスであるか。加藤の使命はどこにあるのか。ヨーロッパ文化を内在的に捉えられる人は、日本ではまだ非常に少ないのに、それを自分の使命としないで、1年ぐらいヨーロッパにいるとしょっちゅう日本へ帰る。日本との接触、日本人との接触が失われることを、彼は極度に恐れている。そして日本にもいいところはあるとか、そんなあたりまえのことをいったり書いたりしているという(笑)。辛らつな批判ですね。(中略)もっとヨーロッパにのめり込め、10年帰らなくてもいいではないか、日本人の知友がいなくなってもいいではないか、もっと自分の使命がどこにあるかを考えろというわけです。⭐️
出典:


1975(昭和50)年  56歳
4月サイゴン陥落。30年にわたるヴィエトナム戦争おわる。1月9日ニューヨークで池田大作と会談。

恩師の渡辺一夫(1901年9月25日 - 1975年5月10日)が死去。

この年から、85年3月まで上智大学外国語学部国際比較文化学科教授(日本文学・思想史)、実際の授業は76年秋学期から84年秋学期まで。


1976(昭和51)年  57歳
7月30日北米を去りヨーロッパ経由で帰国。9月毛沢東歿。10月、四人組逮捕 華・鄧体制。日本文学史序説上巻刊行。上智大学教授に就任。

★矢島翠、共同通信退社。以降、フリーランスとなる。


1977(昭和52)年  58歳
1月から1年間、月1回 朝日新聞「文芸時評」を担当。


1978(昭和53)年  59歳
4月中国に一時滞在、北京・西安・龍門石窟など訪問。その後、1978年4月から1979年4月までと1978年10月から1980年5月までジュネーヴ大学(スイス)客員教授(Professeur invite, Faculte des Lettres, Universite de Geneve)として出講。


出典:加藤周一著作集 平凡社 1978年


1979年(昭和54)年   60歳
6月元号法制化、12月ソ連アフガン侵攻。1月から1982年9月まで再び雑誌「思想」(岩波書店)編集委員になる。
8月13日 福永武彦死去。


1980(昭和55)年  61歳


ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905年6月21日 - 1980年4月15日)死去。

春訪米してニューヨークへ。10月1日「日本文学史序説」で第7回大佛次郎賞受賞。


翠夫人とともに。大佛次郎賞受賞パーティで。
出典:加藤周一ブログ。 http://kshu.web.fc2.com/chrono4.htm

柄谷行人「(自分の周囲にいる知識人は)加藤周一に批判的だけれど『日本文学史序説』(だけは)いいよ」


1981(昭和56)年   62歳
9月から12月まで ブラウン大学(北米)歴史科へ出講(Visiting Professor,Department of History, Brown University)


1982(昭和57)年   63歳
11月カナダ・エドモントン訪問(ソーニャの招待)


1983(昭和58)年   64歳

小林秀雄が死去(1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)

9月、大韓航空機サハリン上空でソ連軍機に撃墜される。10月 米軍グレナダ侵攻。1月―6月 ケンブリッジ大学客員教授として出講(Visiting Professor, Department of Asian Studies, Clare Hall, University of Cambridge)。

ヴェネチア

10月―1984年7月まで アドリアーナ・ボスカロ教授の要請でヴェネツィア・カ・フォスカリ大学日本学客員教授(Professore invitato, Seminario di Lingua e Letteratura Giaponese, Universita di Venezia) として赴任、ヴェネツィアの”Dorsoduro 92A"の借家(オーナーはアメリカ人女性)に「パートナー」の矢島翠(矢島は加藤周一を「伴侶」と呼ぶ)とともに滞在。(矢島翠「ヴェネツィア暮らし」参照)

ヴェネツィア暮らし


★ヒルダ50歳の誕生日を前にして逝去。当時11歳のソーニャはヒルダの妹のスージーが養育を継続した。


1984(昭和59)年   65歳

林達夫が死去(1896年11月20日 - 1984年4月25日)
5月30日林達夫の葬儀で加藤周一が弔辞を読む。
写真の出典元:http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20160410000108/printより。


林達夫邸。鷲巣さんが、「生涯で四〇〇〇枚しか原稿を書かなかった林達夫は、どのようにして暮らしの糧を得ていたのだろうか」(加藤周一という生き方 263ページ)とか書いておられるけど、林達夫は、大富豪、高瀬弥一ファミリーの一員ですよ。担当編集者だった鷲巣さんがそれを知らないハズがない。鷲巣さんは、カマトトかい。

晩年、大御所となった小林秀雄に、若かりし頃の瀬戸内寂静が「小林先生は原稿料だけでどうやってご家族を養われているのですか?」と聞いたのと同じ。いや、この場合はホントに知らなかったのだから違うか。晩年の小林秀雄が某超大手出版社の社外取締役として勤めていたことは、当時の一人前の作家なら誰もが知っていて、でも、あえて吹聴しない「周知の事実」でした。

林達夫が属していた高瀬家は、日本の近代的知性の揺籃場といってもさしつかえない、大富豪、大地主、そしてパトロンでした。こういうことを書くのは「下品」と鷲巣さんは思っているのかもしれませんが、知や芸術の歴史は大富豪、パトロンからの援助なくしては開花しない、という面をしっかり見ていかないと、表層を掬ったことしかわからないと思います。


林達夫の義理の兄、和辻哲郎。

江之島電氣鐵道が開通して間もなく、現在の柳小路駅と鵠沼駅の中間にあった藤ヶ谷停車場から東の百両山砂丘一帯に2万坪を超す敷地と巨大な冠木門、豪壮な建物で「鵠沼御殿」と噂される高瀬邸が完成した。電車が藤ヶ谷停車場に近づくと、車掌が「次は藤ヶ谷、高瀬邸前」と叫んだという。邸内には少なくとも4軒の離れがあり、大正時代初期に、高瀬弥一の東京帝国大学の先輩に当たる阿部次郎、安倍能成、そして高瀬家当主、髙瀨三郎の長女・照と結婚した和辻哲郎、五女・芳と結婚した林達夫、さらに茅野雅子が借家して居を構えた。彼らは時折「例の会」と称する牛鍋を囲んで談論する催しを、友人で夏目漱石門下の小宮豊隆や森田草平らを招いて開き、ここから「大正教養主義」と呼ばれる思潮が生まれた。また、谷崎潤一郎、芥川龍之介、与謝野晶子らの文人も彼らを訪問した。江口朴郎が少年時代を過ごしたのもここで、また、第一高等学校の校長になった杉敏介も高瀬家の筋向かいに住んだ。高瀬弥一の父三郎は貿易商で鎌倉十二所の名主・山口家の出身。母:高瀬キク(旧姓浅葉)は横浜・金沢の名主の出身。出典:ウィキ

余談ですが、下記サイトの記述には、やや違和感を覚えてしまいました。引用には深く感謝なので、U原さんとぼくの考え方の食い違いはどうか御容赦あれ。

U原の土佐と高知だより
http://umecchi.seesaa.net/article/251622452.html
2012年02月10日
加藤周一はおそろしく鋭い

例えば林達夫が戦争中、「沈黙」を守りながら(加藤はそう書いているが、実際は林達夫も政府の海外宣伝雑誌の編集顧問的な立場にいたこともある・・・・U原)、「園芸」に没頭していたことを(加藤周一が)とらえて。

「林さんの場合「沈黙」が抵抗だった。それで、庭にラベンダーを植える。ラベンダーは外来種ですから、これは万世一系の純血主義に対する抵抗です。つまり、外来種だろうと日本の土に根を降ろすことができるということで、思想の普遍主義を表現していた。」

これ、林達夫が加藤周一にそのように話した事実があるなら、ま、その通りなのでしょう。話した事実がなく、加藤周一の推測だとしたら「外来種なんて、日本には何百何千もあって、日本の土にどっかりと根を降ろし、おまけに、日本固有の稀少植物を絶滅の危機にさらしているものもたくさんあるけれど・・」とツッコミたくなってしまう。さらに付け加えれば、林達夫が加藤周一に「レジスタンスとしての自宅でのラベンダー植え」を話した事実があるとしても、そんなもの「戦争への抵抗」でもなんでもないと思います。林達夫が「本気で」そう思っていたならば、小児的で気持ちの悪い自己陶酔だと思うし、加藤周一の独断なら、手入れもなく、日本の土に根付いている幾百もの外来種のほうが、より逞しく純血主義に対する大いなる抵抗を示しているのではないか。いずれにせよ、外来種の植物や動物を日本人は毎日喰らっているのを脇に置いて、これを戦争への抵抗ととらえるなんぞ、およそくだらない話だと思います。

5月7日―9日第1回日仏文化サミット「文化の将来」(フランス文化省・朝日新聞社主催)(箱根)に出席、ジャック・ラング、ジャック・デリダ、エドガー・モランらと。基調報告「大衆民主主義のゆくえ」


1985(昭和60)年  66歳
平凡社顧問となる。1986年3月まで。


「絵の中の女たち」帯の加藤周一に注目。加藤周一先生も、カメラマンの要望に応じて、サービス精神旺盛ですね。しかし、このポーズがこんなに格好良く決まる知識人なんて、いまでも本邦では皆無、加藤周一以外は無理でしょう。きゃ〜〜カツコイイ。

フランス政府より、芸術文化勲章シュヴァリエを受賞する。


1986 (昭和61)年   67歳
4月―7月 コレヒオ・デ・メヒコ大学(メキシコシティ)アジア・北アフリカ研究センターへ出講(Profesor visitante, Centro de Estudios de Asia y Africa del Norte,El Colegio de Mexico)


1987(昭和62)年   68歳
4月 プリンストン大学(北米)に出講(Visiting Professor, Department of American Studies, Princeton University、コロンビア大キャロル・グラック教授のゼミで話す。(四方田犬彦が参加)


1988(昭和63)年   69歳
5月 ソ連アフガンから撤退 8月 イラン・イラク戦争停戦。1月22日「石川淳と別れる会」で弔辞。3月〜4月にかけて平凡社「世界大百科事典」(31巻)編集長。

「その次に中身も装いも一新した1988年版の新百科事典の編集長に加藤周一を迎えたのが、われわれをがっかりさせた。平凡社の百科も終わったなと感じたのだ。編集部は「真理、民主、非暴力、快楽」の4つを編集方針に挙げたらしいけれど、出来上がったものは堅いものになっていた。加藤周一は心向きに精緻な人である。(中略)こういう人は編集力よりも執筆的な思考力に耽りたがるものなのだ」
出典:松岡正剛の千夜千冊 1596夜
http://1000ya.isis.ne.jp/1596.html

→でも、頭は、松岡正剛より、加藤周一のほうが格段にいいけれどね。松岡さんは、フランス語の文献もろくに読めないでしょ。文章も、加藤周一より下手で支離滅裂です。加藤周一は少なくとも、会話のスムーズさはともかく、英・独・仏の三カ国語の本が自在に読めました。「読書家」を名乗るなら、この三カ国語の読解能力は必須条件。ぼくのように読める外国語文献は英語のみ、なんていうのは「読書家」とはいえません。

4月から2000年3月まで立命館大学(京都)国際関係学部・大学院国際関係研究科客員教授となり日本文化論などを講義する。この年より、1996年まで東京都立中央図書館長。


1989(昭和64 平成1)年  70歳
1月昭和天皇逝去 6月 ポーランド選挙で「連帯」勝利 中国天安門事件 8月 東独市民、西独への脱出続く 11月 ベルリンの壁崩壊。1月〜3月 カリフォーニア大学デイヴィス校・評議会招聘の教授(Regent's Professor)として講義(Regens' Professor, Department of East Asian Studies, University of California, Davis)。

天安門事件ウーアルカイシ
天安門事件
出典:澎湖島のニガウリ日誌
http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/


1990(平成2)年  71歳
1月 イラク軍クウェート侵攻、湾岸戦争。10月東西ドイツ統一。4月25日(~01・4.27)白沙会(会員約20名)発足、第1回例会26人参加(居酒屋「静」にて)

この頃から、京都を訪れた際に、白沙村荘に滞在するようになる。


白沙村荘

白沙村荘1
出典:朝日新聞 2015年2月17日


1991(平成3)年  72歳
1月湾岸戦争 8月ソ連共産党解体 12月ソ連消滅。1月3日田中康夫とNHKTV対談「日本とは何者か」


1992(平成4)年  73歳
立命館大学(京都)国際平和博物館館長。4月『中学国語』(教育出版)の監修者の一人となる。4月―7月 ベルリン自由大学へ「東アジア研究所」所長(Gastorofessor, Ostasiatisches Seminar, Freie Universitat Berlin)として赴任、江戸時代の思想・文学などを講じる。


1993(平成5)年  74歳
4月〜7月 チューリッヒ大学(スイス)へ出講(Akademischer Gast, Ostasiatisches Seminar, Abteilung, Japonologie, Universitat Zurich)


1994(平成6)年  75歳
1月1日 朝日賞受賞。10月、大江健三郎ノーベル賞受賞。


1995(平成7)年  76歳
1月 阪神大震災 3月オウム真理教による地下鉄サリン事件。 


1996(平成8)年  77歳

丸山真男(1914年(大正3年)3月22日 - 1996年(平成8年)8月15日)死去。

9月19日喜寿祝う会(京都ロイヤルホテル)に50人参加、第2次白沙会メンバー募集28人申し込み16人を選ぶ。


1997(平成9)年  78歳
「私の旅は終わりに近づいている」(「『羊の歌』その後 1997年3月発表)

12月21日熱海で、矢島翠と、中村真一郎・佐岐えりぬ夫婦と歓談、しかし、12月25日、中村真一郎が突然の逝去。


1998(平成10)年  79歳
12月米英イラク空爆。1月30日白沙会第11回例会(きよみずで合宿)20人が夜遅くまで語り合う。31日は第1次白沙会会員も参加して高台寺園徳院にて。


1999(平成11)年 80歳
7月TBS News23で筑紫哲也と「それから対論」(写真)

出典:加藤周一 http://kshu.web.fc2.com/chrono4.htm

平凡社から「加藤周一セレクション」が刊行され始める。加藤周一が何歳くらいの時の写真か不明ですが、個人的には、このころのマスクが一番好きです。溜息のもれる、芸術品のようなマスク。写真に残していただいた担当編集者の鷲巣さんには感謝。 


「加藤さんの魅力は何といってもその貌にある」 岩元嘉一 私にとっての加藤周一 28ページ



加藤周一14
出典:2点とも 加藤周一文庫デジタルアーカイブ
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2671055100

「色気溢れる美しい面差し」  髙澤そよか  私にとっての加藤周一  27ページ

「先生のお姿はいつも『絵になった』」  矢吹正夫  私にとっての加藤周一  64ページ

「その美しい横顔をいつまでも見つめていたい」  吉永小百合  加藤周一と仕事いきいき女たち 

「なんと美しい心と姿の人であるか」 吉田秀和

「日本人離れした堂々たるお顔」  渡邊守章  越境する伝統  359ページ



「加藤周一はハンサムで女にモテモテだから、書くものがダメになるのだ」  吉本隆明


なんと、こんなところにも加藤周一の名前が!

YAHOO!知恵袋 ハンサム顔とはどんな顔のことですか? 具体的に教えてください。

長嶋茂雄、中村勘九郎、松本幸四郎、中村吉右衛門、野村万作、●加藤周一●、ヨン様、松平健、中居正広、沢田研二、花柳章太郎、市川雷蔵、美輪明宏、三船敏郎、赤木敬一郎、長谷川一夫、石原裕次郎、杉良太郎

以上。わたしのまわりに、ファン(超おば様)がいる男性。
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q101636930

「男の顔」は読書が作る。
たとえば、加藤周一、中村真一郎、福永武彦。いずれも戦後文学を支えた知の巨人たちで、和漢洋といずれの文学にも精通した本読みとしても知られる。三人とも美男子というわけではない。しかし、共通するのは、年を経るにしたがってだんだん風貌に深みが加わっていることだ。「知」の力が、男の顔にある種の魅力を与えることは、古今の読書家たちの顔ぶれを見る限り疑いの余地はない。
出典 本を読むと「イケメン」になれるよ
http://motemoteninaru.hatenablog.com/entry/2015/10/22/131554

セレクション1_
加藤周一セレクション1 平凡社

セレクション3
加藤周一セレクション3 平凡社

セレクション4
加藤周一セレクション4 平凡社


2000(平成12)年 81歳

6月 ヴェネツィアのカ・フォスカリ大学で名誉博士号(Laiurea Honoris Causa)を授与されたときのスナップ。貴族的な衣服、貴族的な椅子、そして貴族そのものの顔立ち。「王卿(おうけい)」なんていう、最上級階級の言葉が、この頃の加藤周一にはよく似合う。

12月2日 京都大学シンポジウム「サルトルの世紀」(京都大学時計台内 法経第一教室)浅田彰・三宅芳夫と。

京都大学の講演「サルトルの世紀」に招待された加藤周一は、ニヒリスト・アキラくんに、無残にもその老体を斬り倒されてしまった。おまけに同席したいた新鋭評論家・三宅くんの「サルトルはアナーキストだった」という新発見および加藤周一の称賛に対し、「そんな事は、いまさら考えるまでもなく、解りきったことで・・・・・・」。三宅くんは泣く泣く「そんなあ〜、それではまるで僕の論文は無意味じゃないですか〜」とつぶやいたが、無駄であった。
引用:天才アキラくん
http://www.eonet.ne.jp/~radical/old/critic01.htm


2001(平成13)年 82歳
1月13日(~03年12月27日まで)信濃毎日新聞 に「高原好日―20世紀の思い出から」を隔週で連載開始。


2002年(平成14年) 83歳
9月小泉首相訪朝。上野毛の二世帯住宅の同居人で妹・久子の夫の本村二正氏(宮城県出身、東大卒、元三井建設専務)88歳で他界。


2003(平成15)年  84歳
3月 米英軍イラク攻撃 4月フセイン政権崩壊 6月有事関連3法成立 7月日本イラク特措法成立。11月27日 バルバラ・吉田=クラフト没。


2004年(平成16)年 85歳

6月、「九条の会」呼びかけ人となる。「あの人が政治活動に携わるなんて」と翠夫人は驚く。


出典:新華社 2004年6月 九条の会の呼びかけで大江健三郎と。


出典:満州っ子 平和をうたう
http://38300902.at.webry.info/201107/article_10.html


2004年6月1日 赤旗

時事放談20041205
2004年12月5日放映のTBS時事放談 「イラク自衛隊派遣延長〜ねじれる世界の中で〜」
司会は筑紫哲也。ゲストに後藤田正晴+加藤周一 


2005年(平成17)年 86歳

出典:日本その心とかたち (ジブリLibrary)  2005年
加藤周一と対談した吉永小百合が「いつまでも、いつまでもその美しい横顔を見つめていたい」と、こころ奪われた、加藤周一の、目も綾なる片影。どこかしら、インドのジャワハルラール・ネールを連想させるノーブルで静かな気配。


2006年(平成18)年 87歳

まるでヨーダのヨーダ。


出典:加藤周一講演会 http://www.eizoudocument.com/0106katou.html 2006年12月8日 東京大学駒場900番教室


出典:朝日新聞デジタル。追分。樋口陽一夫妻とともに。

ぼくは、2、3年前の夏の昼下がりに、追分の“追分そば茶屋”で晩年の加藤周一を見かけたことがある。 国道ではなく、追分駅のほうからの上り坂を、女性2人と一緒に店に向かって歩いてくる彼に気づいた。「あっ、加藤周一だ」と思った。一瞬眼が合ったが、ぶしつけな視線を感じたのであろう、まさに『読書術』のあの視線が返ってきた。
出典:豆豆先生の研究室
http://blog.goo.ne.jp/mamemamehakase/e/8ecbe5d3adeab55aad93e49edff4735a


2007年(平成19年)88歳

2007年8月28日 軽井沢で「お話しの会」
出典:麦草工房 ギャラリーむぎ草
http://mugikusakobo.com
http://mugikusa.jugem.jp/?month=200708


『日本文化における時間と空間』岩波書店 が生前最後の刊行書籍となる。

加藤周一幽霊を語る2
最晩年の加藤周一
【告知!】
出典:しかしそれだけではない 加藤周一幽霊と語る
出演 加藤周一
製作 加藤周一映画製作実行委員会 矢島翠/桜井均
プロデューサー 桜井均/石紀美子/河邑厚徳
監督 鎌倉英也
協力 スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・ジャパン
公式サイト htttp://www.ghibli.jp/kato/
当作品は、自主上映会が可能です。ご希望の方は、下記までお問い合せください。
映画センター全国連絡会議
aai48260@pop12.odn.ne.jp


2008年(平成20年)89歳

出典:2008年1月6日 朝日 上野千鶴子と対談

5月、進行の進んだ胃がんが見つかる。医師からガンの告知を受ける。

最晩年インタビュー周一翠夫人
最晩年の加藤周一と翠夫人
出典:ETV特集 「加藤周一 1968年を語る〜“言葉と戦車”ふたたび〜」2008年12月14日放映

七月二六日、「夕陽妄語」に「さかさじいさん」発表。これが生前、公表したものの、絶筆となる。

8月某日 養子でウィーン在住のソーニャ・カトーさんが見舞いに訪れる。加藤周一はこの再会を非常に喜んだという。よかった、よかった。

8月19日、矢島翠の猛反対を受けながらも、自宅で世田谷区のカルメル修道会上野毛カトリック教会の大瀬高司神父からカトリックの洗礼を受ける。洗礼名はルカ。カトリックの家に生まれながらもそこから離脱した矢島は加藤の洗礼に激しい落胆を覚える。「死後は母と久子と穏やかに暮らしたいから洗礼を受ける」と妹・久子さんにも語る。

洗礼
出典:http://kshu.web.fc2.com/chrono4.htm

9月19日 意識がなくなり昏睡状態に。

12月5日午後2時5分、多臓器不全のため世田谷は船橋の有隣病院から天国に旅立つ。


世田谷区船橋の有隣病院。http://tokyoyurin-hospital.com

棺には三冊の書が収められた。フランス語版「聖書」、ドイツ語版カント「実践理性批判」、岩波文庫「論語」である。「これだけあれば退屈しないと思って」という矢島翠さんの発案によるもの。英語の本は入れなかったのかな。

12月7日 世田谷のカルメル修道会・上野毛カトリック教会で、近親者のみでの通夜が行われる。

ところで、
https://www.amazon.co.jp/加藤周一を読む――「理」の人にして「情」の人-鷲巣-力/dp/4000258214
の読者レビューに面白い意見が書かれてあった。以下要約して引用させていただきます。

1つだけ私見を
投稿者oha2011年11月9日
細かい瑕疵をあげつらうことはやめたい。が、1っだけ私見を述べたい。それはほかでもない加藤の棺に入れたという3冊の本のことである。その選択について鷲巣は「矢島翠氏の見識に脱帽する」と書いている。私は必ずしも賛成しない。「フランス語版聖書」(もちろんエルサレム版だろうが)と「岩波文庫版論語」(1冊本ということなら仕方ないだろう)には異存はない。問題は「ドイツ語版カント実践理性批判」である。「加藤の思想に響き合う、愛読していた古典」という点で、そぐわない気がする。ドイツ語に拘るなら、加藤のかつての枕頭の書、ヴィットゲンシュタイン「Tractatus Logico-philosophicus」がよりふさわしいが、もっとふさわしいのが「渋江抽斎」だと思うのだ。

う〜〜ん、「渋江抽斎」はドイツ語ではないけれど、こうした細部に拘って考えるのがぼくも好きなので、私見を。「論語」を日本語として考えるならぼくも異存なし。加藤周一が最も愛読し言及も多かった書物です。ただし、

フランス語は、 
『CD-ROMフランス語版 ヴァレリー全集』

ドイツ語は、
『CD-ROMドイツ語版 マルクス=エンゲルス全集』

なんてのはどうでしょうか。もちろん、再生装置を花束とともに捧げて。


病院に入院してからの加藤周一を、つきっきりで看護していた矢島翠さんが、

「あんなに好きだった本が読めなくなった。あんなに好きだった書き物ができなくなっている。終日、ぼんやりと過ごしている。加藤がどんどん壊れていく。すぐそばにいて、私はどうしようもなかった。ただ悲しかった」

出典引用:「『朝日ジャーナル』現代を撃つ」村上義雄 朝日新書 215ページ

と2009年2月21日の朝日ホールで催された、加藤さんと「お別れする会」で嘆かれたそうですが、2008年のこの写真あたりから、矢島さんと同じ感慨をぼくも持ちます。しかし、それでも彼、加藤周一は、テレビの前に出て、政治的意見を述べた。そこが加藤周一の凄いところです。


出典:NHK


出典:NHK


出典:NHK

https://www.sotokoto.net/jp/talk/index.php?id=14&page=4
浅田彰の追悼。さすが! 人を誉め、貶す、ことにかけては天下一品の彰先生。素晴らしいお褒めの言葉。

加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。晩年になっても、日本料理よりは西洋料理や中華料理、それも血のソーセージみたいなものを選ぶわけ。で、食べてる間はボーッとしてるようでも、いざ食後の会話となると、脳にスイッチが入って、一分の隙もない論理を展開してみせる。彼と宮脇愛子と高橋悠治は約10年ずつ違うけれど、誕生日が並んでるんで何度か合同パーティをした、そんなときでも彼がいちばん元気なくらいだったよ。とくに国際シンポジウムのような場では、彼がいてくれるとずいぶん心強かった。英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳をもって話すんで海外の参加者からも一目置かれる、当たり前のことのようで実はそういう人って日本にほとんどいないんだよ。むろん、ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった。でも、先月号(2009年1月号/talk13)で触れた筑紫哲也の場合と同様、死なれてみるとやっぱり貴重な存在だったと思うな。

以上引用ここまで。

加藤周一没後の該博な国際的知識人として浅田彰をあげる人がいるけれど、頭の回転、洞察力、語学力、教養、読書量、文才、国際的な知識人との人脈、どれをとっても、圧倒的に浅田彰が加藤周一より格上。家柄は互角(浅田家は高松藩の牟礼の大庄屋にして御典医の家系)、加藤周一が唯一浅田より上なのは、ルックスだけでしょう。というか、加藤周一を凌ぐルックスの知識人はいまのところ国内には見当たらないけれど。唯一の希望は、今後の藤原帰一先生です。


2009年(平成21年)存命なら90歳
2月21日午後、有楽町朝日ホールで「加藤周一さんお別れの会」が開かれる。実行委員長は岩波書店社長の山口昭男、弔辞は加藤さんと親しかった作家の大江健三郎、水村美苗、音楽評論家の吉田秀和、哲学者の鶴見俊輔の各氏で、英・独・仏・中など海外の友人からのメッセージも紹介され、和漢洋に通じた知の巨人の仕事と魅力的な人となりが語られた。喪主は矢島翠夫人。花でいっぱいの祭壇の上に、優しい、しかし鋭い羊の眼をした白髪の加藤さんの写真が飾られ、その前に1000人余りの参列者全員が献花して会は終わった。


加藤周一お別れの会 出典:現時点では不明。

6月2日
★矢島翠さん「九条の会講演会—加藤周一さんの志を受けついで」に出席、あいさつをする。


現代思想 加藤周一 2009年7月号


「言葉と戦車を見すえて」筑摩書房 2009年8月発行

8月15日、両親の墓に挟まれて、都内霊園に埋葬される。墓碑は「加藤」とのみ。おいおい、40年間連れ添った、矢島翠さんのお墓はどこになるのよ。思想が左巻き、中国に劇甘、とか生前は批判されたけど、僕は個人的にはそちら方面には、あまり関心がないので、その種の感慨はないのだけど、「死後は、天国で母と妹と穏やかに暮らしたい」と(隠しきれない本音を吐いて)、最晩年に洗礼を受け、翠夫人を絶望の淵に追いやったり、自分の墓についても、翠夫人とのことには全く触れていなかったり。「九条の会」なんて他の人に任せておいて、最晩年は、今は亡き翠夫人のことを思いやって欲しかった。翠夫人は、加藤周一御大の「家政婦さん」じゃないんですから。そのあたり、少年時代に見た、母方のお祖父様の女性に対する振る舞いが「反復」されているようで、「蛙の子は蛙」という庶民のことわざを、ついつい、思い出してしまいました。「血は憲法よりも強し」という、新しいことわざも作りたくなっちゃいました。

あと、これはネット上、 
http://konohoshi.jp/movie/kato.html
この惑星

に掲載され、hitosi sakurai(桜井均)というクレジットも入っていますので、この映画のプロデューサー、桜井均さんが著作権を持っていることは明らかですが(ネット上の写真類はだれが真の著作権者なのかわからないことのほうが多い)、ぼくが見た加藤周一の写真のなかで「最高にカッコイイ」写真なので、「映画の宣伝」ということで、どうか、掲載をお許しあれ。お願い。3点掲載しましたが、どれも同じ写真。すみません、こんなにも素晴らしい加藤周一・・・。初めて見ました。ありえない程の、この世のものとは思えない加藤周一です。渡邊守章が、晩年の加藤周一を「神仙思想を求めて山奥へでも消えていくような」と描写していますが、まさにそんな感じ。不謹慎だと思いますが「アルツハイマーの美学」という言葉さえ連想されます。揶揄ではなく、

「加藤周一はアルツハイマーになっても美しい」

と感嘆しちゃいます。


告知!

しかしそれだけではない 加藤周一幽霊と語る
出演 加藤周一
製作 加藤周一映画製作実行委員会 矢島翠/桜井均
プロデューサー 桜井均/石紀美子/河邑厚徳
監督 鎌倉英也
協力 スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・ジャパン
公式サイト http://www.ghibli.jp/kato/
当作品は、自主上映会が可能です。ご希望の方は、下記までお問い合せください。
映画センター全国連絡会議
aai48260@pop12.odn.ne.jp









12月5日、京都・白沙村荘で加藤周一没後1周年のつどいが開催される。


私にとっての加藤周一 白沙会編 かもがわ出版 12月5日刊行

12月12日、パリ日本文化会館で国際シンポジウム。『加藤周一、或いは文化多様性についての考察』


2010年(平成22年)存命なら91歳。


歴史・科学・現代 加藤周一対談集 (ちくま学芸文庫)2010年7月7日刊行


連続講座「知の巨匠ー加藤周一ウィーク」2010年9月18日〜9月26日

2011年(平成23年)存命なら92歳。

★8月30日 矢島翠さん、呼吸不全のため、逝去(79歳)。喪主は、長女の長谷川季里子さん。彼女は、確か、漫画家だったような気がします。


出典:格調の在処 http://blog.goo.ne.jp/kimion20002000/e/149641b8d7a2935d8f7207ed5cbefbe2


出典:遅ればせながら矢島翠を追悼する - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
http://www.seiryupub.co.jp/cinema/2011/12/post-36.htmlより

新聞の訃報では、評論家の故加藤周一のパートナーであることばかりが強調されていて、名著『ヴェネティア暮し』(平凡社ライブラリー)を始めとする彼女の優れた仕事について言及したものはほとんどなかった。まともな追悼文すら出なかったのではないだろうか。・・・小川徹が編集長として辣腕をふるっていた一九六〇年代半ば頃の『映画芸術』では、ほぼ毎号のように映画評論を書いており、どれも読みごたえがあった。そういえば、幼少時から矢島翠と親交があり、名文家として知られた須賀敦子は『ヴェネツィア暮し』の解説の中で、「対象を忍耐ぶかくじっくり見定める著者の、まれな教養と素質が、爽やかな理性に支えられてどの章にも光を放っている」と書いている。矢島翠の映画批評の魅力は、まさに、「まれな教養と素質が、爽やかな理性にささえられて」いるところにあるのだ。
 
この年、「加藤周一 知の巨匠」(岩波書店)が刊行。

東大の医学部を出て、そのまま医者を本業として続け、あくまで余技で書いたり喋ったりしていたなら、十分、世評の高い人物のままで、その生涯を送れたと思いますが、それでは嫌だったのが、加藤周一の「偏屈」で「凄い」ところだと思います。

個人的には、最晩年にいたる人生の40年間をともにした矢島翠さん、天才詩人と呼んで差し障りのないそのリリカルで華麗で知的な文体と意表をつく斬新なレトリック、加藤周一など足元にも及ばない、読者を惹きつけて離さない論理展開、東大の女子一期生で、晩年にいたるまで衰えを知らない頭のキレ、語学力なんぞ加藤周一を軽く凌ぐ「天下の才女」「日本の宝」のような女性です。

矢島翠の「ヴェネツィア暮し」(平凡社)のイントロは、次のようなプレリュードによって躊躇いがちに奏でられはじめたかと思うと、たちまちにして読者を中世の幻想的な世界へと誘いこんでいきます。

「ヴェネツィアは、天上の釣り人に釣りあげられて、アドリア海の奥の生簀に、そっと入れられた魚に似ている。(中略)都市国家ヴェネツィアの威光がアドリア海のみならず、地中海一帯にかがやきわたっていた中世には、きっとこの魚は、夜な夜な狭い囲いからぬけ出して、外海もさながら自分の池のように泳ぎまわっていたに違いない」

それなりの読書家を誇負するひとなら誰でも、この筆頭を読んだだけで、矢島翠の文才や知性は、夫・加藤周一以上のものだった、と即座に判断ができるでしょう。

その彼女に、病室で、「死後は母と妹と暮らしたい」と死神のような怖るべきセリフを語り、すでに亡き母と、存命中の妹さんの信仰するカソリックの洗礼を受けては、過ぎた日々の相聞歌相手にしていまやただの使用人の一人の家政婦を、早すぎる絶望死(矢島さんは2011年没)へと追い込んだ。

矢島翠さんは、加藤周一の洗礼の意思を聞いて「読者にたいする裏切りだ」と叫んだというけれど、カソリックの家庭環境から覚悟を持って脱出した彼女は、その己の人生の後半すべてを加藤周一に捧げ尽くした「自分にたいする裏切りだ」と号泣怨嗟したのだ、と誰でも容易に推測できる。仮に、その時、加藤周一のアルツハイマーが相当程度進行していたとしても、これだけは、ぼくには許せない。「九条の会」なんぞ、かつて最愛の妻だった矢島翠さんに比べればどうでもいい話だ、とまで書けば問題かもしれないけど、加藤周一の存在なくしても「九条の会」は機能する。しかし、「死後は母と妹と暮らしたい」と看病してくれている翠さんにむかって言うなんて。

加藤周一が最晩年カソリックの洗礼を受けたことについては、深読みやひねった解釈をする識者が多いけれど、そんな難しい話じゃなく、彼の言葉通り「死後は母と妹と暮らしたい」ためにそうしたのでしょう。洗礼を受けたころの加藤周一が、複雑で高度な判断ができたとは到底思えません。

側近の鷲巣さんには深夜に電話をかけ、いろいろと理屈を並び立てたようですが、鷲巣さんの書かれているその時の加藤周一の電話内容を素直に読めば、「本音は別のところにあるけど、鷲巣さんには『タテマエ』の屁理屈をならべ、また、自分自身をなんとか誤魔化して納得にもっていくための方便や、『大知識人加藤周一の整合性のある伝説化』に鷲巣さんをある程度利用しているなぁ」というのが一目瞭然。こういう小細工が、加藤周一の最大の欠点だと、外野席のぼくなんぞは思います。

鷲巣さん、「真夜中に書いたラブレターは、翌朝、必ず再読してから投函しろ」という古くからのことわざがありますでしょ。鷲巣さんのところにかかってきた加藤周一の真夜中の電話なんて、まさにそれ。真面目に受け取っちゃダメですよ。

むしろ、前述にも書いたように、自分に献身的に尽くしてくれたパートナーの矢島翠さんのことを考えて、近い将来のための覚え書きとして「自分が洗礼する、洗礼したいなどとと言い始めたら、それはもはや、わたし、加藤周一ではない。わたしを長年支え続けてくれた最愛のパートナー、矢島翠の逝去を待ち、二人の骨灰をアドリア海の海原に撒いて欲しい」といった遺言を、絶対に書き残しておくべきだったと思うのです。

イデオロギー関係、右とか左とか、天皇制とか、憲法九条とか、ぼくはあまり興味がない、ただの「加藤周一のルックスに惚れたホモのおっかけ」にしかすぎないのだけど、矢島翠さんに対する、人生最期の、あまりに酷い「裏切り」だけは許しがたい。

ただ、そこに「加藤周一」=「複雑な彼」の人生を解く鍵がある。すなわち、「マザコン」と「インセスト」に呪縛され、同時に、そこからの離脱など考えもしなかった、それが、「複雑な彼」こと、加藤周一の、ハンサムでノブレスな軌跡だったと思います。


2012年(平成24年)存命なら93歳。


2012年6月 加藤周一における時間と空間 ジェフリー・ブロック かもがわ出版


2015年(平成27年)存命なら96歳


「九条の会」メンバーのひとり、鶴見俊輔、2015年7月20日、天寿を全うする。享年93歳。写真はハーバード大学に16歳で入学した頃の鶴見俊輔。5歳のときから読んでいた無尽蔵な書籍の内容を、晩年に至るまで、全て記憶していたという。「九条の会」のメンバーのなかでは、断トツで一番頭が良かったと思う。しかし、これがまた、浅田彰の手にかかれば以下のようになる。

「生理的に嫌いだったのは鶴見俊輔です。彼はよく自分が家事をすることを自慢するけれど、そりゃ家事ぐらいだれだってするでしょう。『あの鶴見祐輔の息子であり、戦前にハーヴァードへ留学したこのわたしが、なんと家で家事をしている、すごいだろう』という裏返しのエリート主義なんですよ。本当に恥ずかしい奴だと思っていました」
引用元:「ゲンロン4」(東浩紀編集 2016年)(69ページ)

高校(あるいは中学)時代に、鶴見の本を読んでこういう感想が持てる浅田彰にはつくづく感服する。高校時代のぼくなんて、鶴見の著作を読んで「こりゃ本物の天才だ!」と興奮し、ただただ仰ぎ見る存在だったというのに。また「天才とキチガイは紙一重」という言葉をぼくがはじめてリアルに実感したのも、彼からだった。


後藤新平。親類縁者、遺流、後昆は、みなさん超優秀なひとばかり。最後の言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であった。
出典:後藤新平記念館


2016年(平成28年)存命なら97歳

出典:加藤周一最終講義—佛教大学 白沙会 清華大学 立命館大学
2016年 かもがわ出版

4月
「加藤周一文庫」が京都市北区の立命館大衣笠キャンパス平井嘉一郎(かいちろう)記念図書館2階にオープン。館長は、立命館大の加藤周一現代思想研究センター長、鷲巣力教授。スタッフに加藤周一現代思想研究センターの半田侑子・客員研究員。


出典:http://www.sankei.com/life/news/160511/lif1605110013-n1.html

http://www.ritsumei.ac.jp/library/collection/collection13.html/
加藤周一文庫(立命館大学)

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2671055100
立命館大学図書館 加藤周一文庫関連資料 デジタルアーカイブ

図書館
平井嘉一郎記念図書館

図書館2
図書館内部

図書館3
図書館内部
出典(上記3点とも):https://kotocollege.jp/archives/2729


2017年(平成29年)存命なら98歳


11月19日 立命館大学で浅田彰の講演。「『普遍的知識人』の時代は終わったか?」



素晴らしい老人


あ、待って、さかさじいさま。いろいろとけなして、ごめんなさい。ホントは、さかさじいさまのことが大好きなんです。


「さようなら 加藤周一翁
あまりにも短かかりし 
我らが希望の知性の 
きらめきよ」


上記「加藤周一「裏」年譜」作成のための参考文献及び参考ネットサイト及び情報提供者や出典などは以下。


⭐️書籍
「羊の歌(上下)」
「『羊の歌』余聞」
「1946 文学的考察(初版)」
「現代フランス文學論」(河出書房)
「フランスの青春」 ジャン・ゲーノー 渡邊一夫訳+加藤周一解説
「ある晴れた日に」
「運命(初版)」
「加藤周一を読む」(鷲巣力)
「『加藤周一』という生き方」(鷲巣力)
「加藤周一」(海老坂武)
「ヴェネツィア暮らし」(矢島翠)
「ラ・ジャポネーズ キク・ヤマタの一生」(矢島翠)潮出版社 1983年
「加藤周一全集」
「加藤周一自選集」
「加藤周一を記憶する」
「加藤周一 二十世紀を問う」海老坂武
「知の巨匠 加藤周一」
「薔薇物語」山崎剛太郎
「夏の遺言」山崎剛太郎
「加藤周一と丸山眞男」樋口陽一
「丸山眞男の時代」竹内洋
「丸山眞男」苅部直
「丸山眞男回顧談(上下)」
「抵抗の文学」
「現代詩人論」
「冥誕(めいたん) 加藤周一 追悼」
「海辺の町にて」
「ある旅行者の思想」
「東京日記」
「西洋讃美」
「加藤周一における「時間と空間」」
「日本その心とかたち」
「高原好日」
「私にとっての加藤周一」(白沙会編)
「時代を読む」
「翻訳と日本の近代」
「日本文学史序説 上下」
「ウズベック・クロチア・ケララ紀行」
「サルトル 人類の知的遺産」
「サルトルとの対話」
「ことばと芸術 加藤周一対話集4」
「歴史・科学・現代」
「遡行と予見」(饗庭孝男)
「加藤周一の思想・序説」(矢野昌邦)
「戦後文学」(小久保実 編)
「これが『教養』だ」清水真木
「悪魔の思想」谷沢永一
「真夜中の喝采」(向井敏)
「古代の禁じられた恋」桐村英一郎
「日附のある文章」江藤淳
「日本現代文学全集104」
「新選現代日本文学全集34」
「吉本隆明全著作集5」
「人類の知的遺産77 サルトル」
「ゲンロン4」(東浩紀編)
「太陽」1965年6月号
「渋谷・実践・常磐松 ~知っていますか 過去・現在・未来~」 井上一雄
「『朝日ジャーナル』現代を撃つ」村上義雄 朝日新書
「辞書、この終わりなき書物」 三宅徳嘉 みすず書房
「ドーダの人、小林秀雄」 鹿島茂 朝日新聞出版社
「ヴァレリー」 清水徹 岩波新書



⭐️英文書籍
A Sheep's Song: A Writer's Reminiscences of Japan and the World  Shûichi Katô (著) Chia-Ning Chang (寄稿, 翻訳) University of California Press 1999年



⭐️その他、過去に読んだもろもろの資料



⭐️インターネット
https://ja.wikipedia.org/wiki/加藤周一
wikipedeia日本語版「加藤周一」の稿

http://kshu.web.fc2.com/index.html
加藤周一 poeta doctus 加藤周一氏の非公式ホームページ

http://www.mfjtokyo.or.jp/mfjtokyo2/ja/press.html?page=shop.product_details&flypage=flypage_mfj.tpl&product_id=82&category_id=2
人間は死ぬ、加藤周一でさえも  三浦信孝中央大学教授

http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2017-01-28/31/1817/2259543/
ETV特集 アンコール「加藤周一 その青春と戦争」

http://www.eizoudocument.com/0106katou.html
加藤周一講演会 老人と学生の未来−戦争か平和か

http://www.gohki.com/wp/?page_id=334
剛熈を語る  加藤周一

http://tatsuno.shisyou.com/index.html
タツノオトシゴ 堀辰雄とその周辺の作家・詩人



⭐️個人的なインタビューに応じて下さったひと
現在までに7名ほど。親族、知人、編集者、郷土史家・・・などの方々ですが、許可を戴いていないので、ここでは名前は伏せさせていただきます。






※この項、随時、大幅加筆してゆきます。
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14-4  加藤周一の親族・関係者一覧 201709023

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加藤周一ファミリー1
加藤周一ファミリー
出典:加藤周一/その青春と 戦争 NHK・ETV特集 2016-08-14



中丸村で「お大尽様」と呼ばれていた大地主にして名主である「加藤本家」(現在も近郊に40万坪以上の地所を所有)は、すごく詳しいところまで取材で判明しそうです。一方、まるでわからないのは、佐賀の資産家の増田家。母方の祖父の増田熊六については少しずつ分かってきましたが・・。熊六の父親が誰なのか? どのような家柄なのか・・・。

1551年(天文二十年)の末に、武蔵国岩槻城下市宿の在地土豪「鴻巣七騎」の筆頭、小池長門守久宗が北条氏康に命じられて、原野を切りひらき、いまの埼玉県北本市あたりに新田を開拓しました。


北条氏康

この「鴻巣七騎」の一騎に「本木家」がありました。で、なんとその末裔(15代目くらい)に、俳優の本木雅弘さんがいます。加藤周一とはハンサム繋がりですが、加藤家と本木家は「ご近所さん」なので、どこかで血が混じり合っているとみた。

本木
写真は映画「永い言い訳」より。監督は西川美和。公式サイトは http://nagai-iiwake.com


関東地方の典型的な庄屋。加藤本家もこのようであったと思われるが、加藤本家が現在どうなっているかというと・・・驚き桃の木。



・・・巨大なスーパーマーケットになっていました。

後北条氏の滅亡により、小池長門守久宗の次男は、母方の姓である「加藤」を戴いて、加藤修理亮宗安、通称、幸左衛門と名乗り、鴻巣の中丸村に土着。徳川家康が権力を握ると、たちまち家臣となり、帯刀を許された地方豪族・地侍から、名主にして中丸村の大地主へと時代と共に変貌していく。2017年現在でも、「お大尽さま」と呼ばれる加藤本家は、近隣に40万坪もの膨大な地所をいまも所有。本家一族は都内在住。

加藤家10代目 平右左衛門 明治37年没。72歳。先祖は、武蔵国岩槻城下市宿の在地土豪「鴻巣七騎」の筆頭、小池長門守久宗。土着豪族にして武家。

鴻巣goten
加藤周一と血の繋がった小池長門守久宗が構えた鴻巣砦とその後築造された鴻巣御殿。加藤周一の家系って「お殿様」だったんですね。わかります、わかります。

カヨ 平右左衛門の妻。大正15年93歳で没。

加藤家代々のお墓
加藤家代々のお墓。初代からここにお墓があります。由緒正しい家柄。

父方の祖父 11代目、加藤隆次郎 埼玉県北足立郡中丸村(現在の北本市)の大地主。昭和八年没。

「祖父は私たちが訪ねていくと、みずから庭の小屋で鶏を捉え、その首を絞め、羽根をむしり、肉を割いて、夕食の支度をしてくれた」(「羊の歌」23ページ)

加藤隆次郎さんのお墓
加藤隆次郎さんのお墓

父方の祖母(龍次郎妻) 加藤タキ 昭和2年没。68歳。

父方の祖父の姉 加藤○○。隣村の豪農の家に嫁ぐ。

父方の祖父の次女 島根が地盤の国会議員、細田一族に嫁ぐ。

加藤信一2
加藤信一
出典:A Sheep's Song: A Writer's Reminiscences of Japan and the World  Shûichi Katô (著) Chia-Ning Chang (寄稿, 翻訳) University of California Press 1999年 205ページより

父 加藤信一 1885年(明治18年)2月20日、加藤隆次郎・タキの次男として生まれる。加藤周一は、母親も凄い美人だけれど、父も学者風の非常に整った顔立ちをしている。浦和中学から、一高、東京帝国大学医学部卒の内科医師。東大附属病院医局長を経てのち開業医。辰野金吾(建築家)、辰野隆(東大仏文科教授)のかかりつけ医、それ以外にもいくつかの財閥家族(たぶん三井財閥)のかかりつけ医。澁谷の金王町に邸宅を構えていたが、加藤周一が府立一中に入学した頃、美竹町に新居を建てて転居。頭は凄くいいが、相当な変人でもあった。アララギ派や明星のグループとも関係を持ち、それら文学に、そして工学にも格別な興味をもち、な、なんと、19歳の時には「写真術階梯」という本まで出している(「加藤周一を読む」鷲巣力 岩波)。文学系の蔵書家であったため、少年期の加藤周一は父の書斎でそれらを読み耽った。ところが、父は、加藤周一が医学でも文学でもなく工学の道に進むことを望んでいたという(同上)。なにゆえに? 1974年没。


旧制 浦和中学
出典:http://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002707.html

加藤周一は明らかに、父の「唐変木遺伝子」を受け継いでいるとぼくは思います。海老坂さんは、加藤周一と父との関係が、加藤周一の謎多き人生を解く鍵、としていますが、「「羊の歌」余聞」(ちくま文庫)では、父を尊敬していたこと、そのエピソードの数々が語られていますから「マザコンでインセスト」であっても、父との深い確執はあまりなかったような気がします。成熟した男子ならば、父について、加藤周一同様、一定の距離を置いた見方をするのではないでしょうか。加藤周一はスーパーマザコンだったので、相対的に、父の影が薄いように見えるだけだと思います。

加藤ヲリ子2
加藤ヲリ子
出典:A Sheep's Song: A Writer's Reminiscences of Japan and the World  Shûichi Katô (著) Chia-Ning Chang (寄稿, 翻訳) University of California Press 1999年 205ページより
 
母 加藤(旧姓)増田ヲリ子 増田熊六の三人姉妹の次女。雙葉卒。1916年(大正5年)一月に信一と結婚。すんごい美人。加藤周一がマザコンになるのもよくわかるが、八〇歳を過ぎても加藤周一は「母親にああしてあげればよかった、こうしてあげればよかった」と涙ながらに、妹・久子さんに語ったという。


当時の雙葉学園。超お嬢様の行く学校でした。
http://www.futabagakuen-jh.ed.jp/gakuen/fb-development.html

ただ、鷲巣さんはこのエピソードを紹介した直後の文で「『情』に篤い加藤であったことを髣髴とさせる話である(同上)」と書いているけど、ぼくは違うと思うなぁ。鷲巣さんは加藤周一に関しては「唐変木」ならぬ「頓珍漢」なことをたまにいう。『情』に篤い加藤というけど、最初の結婚相手であった京都の令嬢に、離婚を告げに行き「人でなし!」と罵られているし、二番目の妻であるヒルダさんには、加藤周一が矢島翠さんとの不倫愛にのめり込んだあと、「シュウイチは私を空気のように扱う」(「加藤周一という生き方」鷲巣力 岩波)と、嘆き悲しませている。

これら愛し、やがて愛が醒め、最後には別れた女性たちにも、「(初婚の)綾子には、ああしてあげればよかった、(再婚の)ヒルダには、こうしてあげればよかった」と涙ながらに、妹・久子さんに語ったことがあると思います? 鷲巣さん。父母が他界したあと、たいていの人は「父にこうしてあげればよかった、母にこうしてあげればよかった」と多かれ少なかれ思うものだけど、50年たって、泣きながらこういうことを言うのは、ちと、異常で異様。加藤周一の強烈なマザコンぶりと、老人性のディメンチアの兆しでしょう。

妹 加藤久子 1920年生まれ。雙葉高等女学校卒。一歳違い。キュートで凄い美女。兄・加藤周一とプラトニックな恋愛関係を生涯持ち続ける。加藤周一の「理想の女性」。

本村久子3−2
本村(旧姓加藤)久子
出典:加藤周一/その青春と 戦争 NHK・ETV特集 2016-08-14
それなりにお歳を召されているというのに、その芳容には絶句する。高相鳳眼、という吉相のひとつがあるけれど、まさにそれ。兄は最晩年に至るまで、天下一品の美丈夫、その妹は、晩年に至っても、唸るような芙蓉の持ち主。神は依怙贔屓して人を愛する。

父の兄 加藤精一 加藤本家12代目。一橋大学卒。埼玉の名主で大地主の加藤本家の跡継ぎ。若い頃は「新詩社」の同人と交わっていた。しかし、ゆえあって、都内在住。結婚して子どもはもうけたものの、実家が大金持ちゆえ、とくに定職は持たず。お酒が好き。写真、映画マニア。このあたりの志向性は、加藤周一の父の加藤信一と似ている。一時、写真学校で教えていたこともある。戦時中は中丸村に疎開したが、それ以外はずっと都内在住。昭和25年、69歳で没。墓は中丸村にある。

「長男は高等商業学校(いまの一橋大学)を卒業したあと、何の仕事もしていなかったが、冠婚葬祭のどうしてもやむをえない場合を除いて、決して生家へ帰ろうとはしなかった。・・・・東京を動かない伯父は、ひとりで、女中をおき、外出もせず、ほとんど人とも交わらず、朝からどてらを着て酒を飲んでいた。・・・向こうからは決して訪ねてこなかったが、稀に私たちの方から訪ねていったときには、必ず上機嫌で、「おお、よく来たな」といった。そのいい方に、私は一種のあたたかさを感じた。(「羊の歌」15〜16ページ)

加藤精一さんのお墓
加藤精一さんのお墓

ヒデ 加藤精一の妻。昭和33年、90歳で没。

加藤照 精一とヒデの次女。平成22年没。93歳。

加藤昌一 精一とヒデの長男。加藤本家13代目。平成15年没。88歳。

武子 昌一の妻。平成28年、95歳で他界。

加藤元 昌一と武子の長男。加藤本家14代目。都内在住。

加藤○○ 昌一と武子の次男。東大卒。都内在住。ハンサムで身のこなしも加藤周一そっくりの洗練された所作の人とか。

父の姉の長男(従兄弟) 早稲田大学卒。早稲田大学剣道部の主将。剣道四段。金王町の家で加藤周一家族と同居。加藤ヲリ子に密かな想いを寄せる。大卒後、結婚し、埼玉で豪農として農家を営む。終戦直後、加藤家が身を寄せたのも、この従兄弟宅で、妹・久子が二人目の子どもを生んだのもこの家。加藤家のひとたち全員が、こころを許した数少ない近しい親族。

母の兄 増田○○ 増田熊六の長男。東大医学部卒の医者。若くして逝去。おそらく、同じ帝国大学医学部卒の周一の父加藤信一と、なんらかの深交があり、その縁で、信一とヲリ子が見合いに至ったと思われる。

「もし祖父があれほど信頼していた長男を早く失うことがなかったら、その後の放蕩はおこらなかったろう、またもし祖母がことごとに祖父の気に逆らうような女でなかったら、家を留守にすることもはるかに少なかったはずであろう」(「羊の歌」8ページ)

母の姉 増田○○。佐賀の代議士(不明)と結婚。

母 増田ヲリ子。1949年没。前述。

母の姉の夫 佐賀の資産家の長男で政友会の代議士。のち県知事。県知事まで上り詰めているのだから、いまも名前の残る人物だとは思うけれど、いまだ特定できておらず。

母の姉の息子 外交官。

母の妹 増田みちこ。夫の死後、美竹町の家で同居。

母の妹の夫 大阪の町家の出の会社員。結核で若くして逝去。


母の妹の長男 増田良道 東北大学教授。工学博士。加藤周一と同い年の従兄弟。写真は東北大学工学部校舎。

母の妹の長女 会社員。

増田熊六2
母方の祖父 増田熊六
出典:A Sheep's Song: A Writer's Reminiscences of Japan and the World  Shûichi Katô (著) Chia-Ning Chang (寄稿, 翻訳) University of California Press 1999年 205ページより
佐賀の資産家であった増田○○の一人息子。陸軍将校を経て、イタリアに遊学。貿易業や西銀座にイタリアレストラン(「ボン・トン」)を営む。女性の愛人多数。澁谷の宮益坂に豪邸を構える大金持ちだったが、やがて没落、戦時中に他界。同じ佐賀藩の上級士族の出身だった大隈重信とも交遊あり。大隈重信宛の書簡が多数、早稲田大学図書館に保管されている。

有楽町から新橋にむかう「電通通り」に「ボン・トン」という名の、1階がバー、2階が西洋料理のレストランを経営していた。

その頃西銀座に祖父は小さなイタリア料理店を経営していた。一階に酒場があり、そこからせまい急な階段をのぼると、二階で食事ができるようになっていた。祖父は孫を連れてその店へ食事に行くことがあった。「今日は家族連れだ」などといいながら、酒場の奥へ声をかけ、顔見知りの男たちと軽口を叩き合う。それはイタリア語かフランス語のやりとりで、抑揚が表情に富み、大げさな身振りを伴っていて、家で祖母や女中たちにとりかこまれ、母や私たちと話している祖父とは、全く別人に変わってしまったかのような印象をうけた。それが私には、すじのわからぬ芝居の一幕を眺めているようにみえた。芝居のなかの祖父と子供たちとの間にはつながりがない。二階へ通じる階段の上り口で、私は主人公が一瞬の間私たちの存在を忘れているということを知っていたし、私たちの役割がその短い一幕の見物人であるほかない、ということも知っていた。

二階では料理店の女主人が待っていて、いくらかつくった華やかな声で、「あら、お珍しい、どうぞ」などという。「お珍しいもご挨拶だな」「でもそうじゃないかしら・・・」「いや仕事が忙しくてね」「どんなお仕事でしょう?」と女主人はからかうように笑い、「それどころじゃないよ、昨日大阪から帰ってきたばかりだ」と祖父があらたまった声を出すと、急に調子を変えて、「あちらはいかがでございますか」「なに、相変わらずだが・・・」「いつもそう仰るだけね」と、いうべからざる媚びを含んで———と私には思われた———睨む(「羊の歌」6〜7ページ)



この増田熊六と佐賀の資産家であった熊六の父が、どういう人物であったかご存知の片がおられたら、ご教示いただけると嬉しいです。熊六の父は、当時の佐賀では有名な大金持ちであったことは間違いないと思いますが、まだだれなのか細部まで特定できていません。また、海老坂さんは、熊六の遊学先が、イギリスでもフランスでももなくイタリアだったのか、ここには個人的な秘密が隠されているのかもしれない、と深読みされています。確かに。そのあたりも調べてみたいと思います。

加藤周一は、その乱脈な女性関係のため、祖父を軽蔑していたが、加藤周一じしん、中年期以降、特にフランスに留学してからは、女性関係においては、祖父の「再演」を行ったように思える。ま、よくある話ですが。


増田祖父のお気に入りの芸者 名妓万龍

この増田熊六さんについて、ぼく同様、興味をもって調べておられる方がいます。よかったら情報交換したいのですが・・・以下引用。

「東京府豐多磨郡澁谷町上澁谷四番地」と≪日本海事仲裁判決例≫(1925) のp.294に書かれている。なお、增田熊六の氏名が≪官報. 1897年06月29日≫と≪官報. 1891年03月24日≫に載っている。

増田熊六の翻訳
≪獨逸軍馬補充事務及軍馬育成法≫
<偕行社記事>#306(1903年01月)pp.29-46
cf.——http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3544398

増田熊六の寄稿
≪伊太利の國民性及び軍隊≫
<欧州戦争実記>#30(1905,博文館)pp.65-71

cf.——http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1557667

以上の出典引用:とどくとおもう Ⅱ
http://todoct.blog85.fc2.com


母方の祖母 増田○○ 佐賀藩士で佐賀藩権大参事であった岩村定高の「芸者腹」の娘。

母方の大叔父(祖母の兄。長男) 大燃料会社(ガソリン)の副社長。東大卒。豪放磊落な人物で、加藤周一ともウマがあった。母方の祖父(増田熊六)の家が没落していくのと対称的に、景気と時代の波に乗って彼の会社はどんどんと大きくなっていった。


母方の大叔父(祖母の弟。次男) 岩村清一 岩村定高の子。海軍中将。揚子江艦隊司令官で艦政本部長。通称「提督」。1899年(明治22年)、東京生まれ。海軍大学校甲種19期首席卒業。英語に堪能で、若くして英国に国費留学。英国の日本大使館附武官。母は岩村千代。二男二女をもうける。加藤周一と二女とは同年代で、どちらも美人で、加藤周一が密かに憧れを抱く。1970年逝去。

母方の大叔母 岩村三須代 岩村清一の妻。実兄は高木八尺東大教授。


母方の大叔母の兄 高木八尺(たかぎやさか) 東京帝国大学教授。東京帝国大学卒・法学博士・学習院高等科・東京大学法学部教授・東京大学法学部名誉教授・太平洋問題調査委員会常任理事・貴族院議員・日本学士院会員・文化功労者・従三位・勲一等。

母方の大叔母の兄の父 神田乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2月27日) - 1923年(大正12年)12月30日)。明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、英学者。男爵。(1886年)より帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)教授となり、ラテン語を教える。

母方の大叔母の兄の祖父 神田 孝平(かんだ たかひら、1830年10月31日(文政13年9月15日) - 1898年(明治31年)7月5日)。日本の洋学者、政治家。神田乃武の養父。兵庫県令、元老院議官、貴族院議員を歴任した。男爵。美濃国不破郡岩手村(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)出身。通称、孝平(こうへい)。


母方の曽祖父 岩村定高 佐賀藩士。旧名右近。1869年(明治2年)佐賀藩権大参事に就任。同年7月23日(8月30日)明治政府に出仕し開拓御用掛となる。以後、開拓権判官、兼民部権大丞、山形県大参事、同県参事を歴任。

初婚の妻 ○○綾子 初婚の女性。京都の医家の娘。最初の夫の逝去後、加藤周一と再婚。加藤との間に男子を一人もうける。加藤周一と婚姻関係にあり、彼の一刻も早い帰国を待っていたが、海外滞在中に知り合った若くて金髪のヒルダに気移りした加藤周一に無残に捨てられる。


再婚の妻 Hilda Steinmetz(ヒルダ・シュタインメッツ)。彼女は自分から愛情の冷めた加藤周一とのあいだに実子を望んだが、かなわなかった。そのため、ウィーンの孤児院から養子を貰い受ける。在日中に、「ウィーンの家庭料理」の本を出版。担当編集者は向田邦子。1974年、深い失望のなか、離婚。1983年没。


ソーニャ・カトー 1971年1月14日ウィーン生まれ。1972年11月、ヴィーンの孤児院から、加藤周一がヒルダ夫人との間にもうけた養子。カナダのブリティシュコロンビア大学で教えていた時の学生、ソーニャ・アンゼンさんの名前に因んで拝受命名。もとヴィーン市議会議員。ヒルダ夫人は加藤周一の自分への愛が完全に冷めてしまった(恐らくは矢島翠さんとの不倫により)ことを悟り、嘆き悲しみ、少しでも加藤周一の愛情が自分に戻るよう、二人のあいだに実子を望んだが、かなわず、養子をもらい受けた。それから長い時を経た今、現在のソーニャさんは、ウィーンでは有名人だ。
https://de.wikipedia.org/wiki/Sonja_Kato-Mailath-Pokorny


ソーニャ・カトーさんと2004年に結婚した御主人で政治家のアンドレアス・メアラス・ポコニー氏。幸せそうだ。

ソーニャ・カトーHP
http://www.unikato.at
ソーニャ・カトーさんのHP。成功したセレブになっているようだ。中丸村の大地主加藤本家の、東京の分家であった加藤信一長男、加藤周一のkatoの名前は、ウィーンで、これから名門一族の印として、代々受け継がれていくだろう。さすが加藤周一! やったね、加藤周一!
unikato communication & coaching
Mag. Sonja Kato-Mailath-Pokorny
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Mob. +43 664 220 91 31
Tel. +43 1 922 92 51 
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www.unikato.at

マチアス・シュウイチ・カトー ソーニャの長男。


ソーニャ・アンゼン。コロンビア大学時代の加藤周一の教え子。上記養子の「ソーニャ」は彼女に由来。

矢島○○ 矢島翠さんの父。矢島翠さんの出自や家系や一族は、間違いなく教育学的名門だと思うのですが・・・。失礼ながら、そんじょそこらの庶民の家庭から、いきなり、あれだけの才媛は絶対に出てきません。キリスト教の家庭環境、聖心から東大卒という経歴、瀟洒で流麗な筆裁き、加藤周一など足元にも及ばぬ語学力、自家薬籠中の深い教養、加藤周一のコーディネーターでもあっただろうその抜群のファッションセンス・・・、江戸末期の、熊本の名門・矢島家一族の六女、矢島楫子(かじこ)(JGこと女子学院の創設者)あたりの末裔なのではないでしょうか? 加藤周一の影に隠れて、あまり日の当たらなかった人生後半でしたが、矢島翠さんの履歴については、とことん調べてみたいと思います。


三番目の加藤周一夫人 故矢島翠さん★。1932年東京に生まれる。1972年頃(もっとはるかに以前、1968年頃からじゃないかとぼくは思います)からの加藤周一の不倫相手で、その後、加藤周一の三番目の妻となる(戸籍は入れてないみたいですね)。東大英文科女性第一期卒。元共同通信記者。呼吸不全で、2011年没。享年79歳。加藤周一とは到底比較にならぬほどの、燦めく文才の持ち主であった。加藤周一に人生後半を捧げたが、最後の最後に「ポイ!」とぼろ布のように捨てられる。こんなことってあり?

この点で、ぼくと、全く同感な意見を述べておられる方がいた。ここで、解説者=鷲巣力さん です。

引用ここから

加藤(および、加藤に寄り添う人)にとって、自分の思考はどのように変化しようとも、内的な一貫性(必然性)は、あるのは当然である(気でも狂わない限り)。しかし、「変節」と呼称しないまでも、神を信じない、と、言った人が、何年後かに神を信じる、と言い出せば、信条を変えたのだな、と普通の日本人なら思うのが当然ではないか。われわれは、生まれつきある信条や宗教を信じているのではない。あるとき、ある切っ掛けや条件で信じるようになるのである。その条件が解消あるいは変われば、思想や信条は変わって当然である。なぜ、晩年になるにしたがって、家族愛が大きく思考を占有するようになり、信条を変更することになった、と言わないのか。思想家(あるいは一般人にとって)信条の変更はただちに不名誉ということにはならない。いかなる信条を、いかなる理由で、変えたのか、を説明するのが公人の義務であるとわたしはおもう。できれば加藤自ら説明すべきであった。加藤は、己の信条を公にすることを職業とするひとだからである。加藤の家族(妹さん)は、このような加藤周一(兄)の入信の説明に満足しているのだろうか。加藤に近すぎる人(あるいは内在的理解力に富みすぎる人)を解説者に選んだのは加藤の不幸であった。

加藤の奥さん(矢島翠)は、最晩年加藤の病状が悪化するにつれ、

「加藤周一が加藤周一でなくなっていく」

と嘆いたという。自選集p488

わたしは、入信したこと、あるいは、入信の告白、打診の電話(鷲巣に対する)も、「加藤周一でなくなって」きたことの兆候か、とおもってしまう。加藤周一でなくなった後の加藤の公的および私的行動は無視してよい。 あるいは、加藤はもともと(若いときから)無神論者ではなかった。

##追記2011/1/19
家族愛(というより、母と妹への愛)ゆえに、入信したという説明は、なぜ、若いときに入信しなかったのか、死の間際に駆け込み的に入信せざるを得ないいかなる理由があったのか、を説明していない。

編集者=鷲巣力もこれを気にする読者のため次のような解説を行っている。

自選集p493
「わたしはもう幽霊なんです」という(加藤の)ことばで表現しようとしたことは、すでに私は死んでしまったのだ、ということだろう。だれが死んだのか。思想家、作家としての加藤、いわば「公人としての加藤」に違いない。「公人としての加藤」は死んでもなお「私人としての加藤」は死んではいない。「私人としての加藤」は、母を想い、妹に心をかけて、カトリックに入信する。とはいっても「私人としての行動」と「公人としての行動」はそう簡単に切り離されるものではない。」 



この文章の後、二頁の説明(弁明)をおこなって、(鷲巣力氏は)次のような結論を導き出す。

(『羊の歌』にある「宗教は神仏のいずれも信ぜず」という立場にもかかわらず)

「加藤の行動に、むしろ加藤の一貫性と加藤の世界を感じる。加藤の「理の世界」と「情の世界」の接点に、あるいは「公人としての加藤」と「私人としての加藤」の接点に、「カトリック入信」が用意されていたのである」



私の理解では鷲巣氏は気の回しすぎ。

重要、とわたしがおもうのは、自選集解説(by鷲巣)によれば、加藤周一自ら入信する、との意思表示はなく、鷲巣との電話の後、鷲巣氏が(この電話は)入信の意思表示だと理解して、教会にその手続を取った、ということ。

なぜ、24時間生活を共にしている奥さんを差し置いてこのようなことが編集者にできるのか、という疑問が湧く。むろん奥さんの了承は得ているのだろうし、加藤周一も洗礼を受けたのだから、加藤の意志に反してということはありえないだろうが。一体、当時、加藤周一はどのような状態(精神、体力)だったのだろうか。入信のような重大な決定であれば、身の回りの面倒を見ている(以上の存在の)配偶者に意思を表示しておくのが当然とわたしはおもうのだが(加藤周一に入信の意志があれば、矢島氏にとおの昔に知らせており、その手続も依頼していたはず)。

鷲巣が伝えている、矢島氏「加藤周一が加藤周一でなくなっていく」という嘆き、が現実味を帯びる。

出典引用:試稿錯誤 日々の雑念を記録する 書き手:古井戸さん(ニックネーム)
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2011-01-16



引用ここまで。長文引用御容赦。

ぼくもこれを書かれた古井戸さんに全くの同感です。「加藤に近すぎる人(あるいは内在的理解力に富みすぎる人)を解説者(=鷲巣力さん)に選んだのは加藤の不幸であった」も同感だし 「鷲巣さんは気の回しすぎ」も全くの同感。普通の感覚の人なら、古井戸さんやぼくのように必ず思うことでしょう。

★矢島翠
東京都出身。カトリック系の小学校で学び、幼い頃から英語に親しんだ。女子に門戸が開かれたばかりの東京大学文学部に入学し、英文学を専攻。1955年卒業。同年共同通信社に入社、外信部、ホノルル特派員(1968年のとき、仕事でハワイ案内するため加藤周一と出会う)、ニューヨーク特派員(加藤周一と同棲)など。単独著書として下記がある。
単著『女性特派員ノート』人文書院, 1978.6
単著『出会いの遠近法』潮出版社, 1979.7
単著『ヴェネツィア暮し』朝日新聞社, 1987.10、のち平凡社ライブラリー68、平凡社, 1994.8

長谷川季里子 矢島翠さんの長女。母、矢島翠さんの葬儀のさい、喪主を務めた。ぼくの勘違いでなければ、漫画家だったような・・・。結婚されていて、子どもさんもいて、追分の幼稚園に加藤周一が迎えにいって「しゅうちゃん、しゅうちゃん」と他の園児から人気者だった、という話をどこかで読んだ記憶あり。

長谷川○○ 長谷川季里子さんのこども。追分の幼稚園に通い、加藤周一が迎え送りをしていた。

長谷川香菜子

木村二正
本村二正 1914年〜2002年。妹の加藤久子の結婚相手。宮城県出身。東大工学部卒。三井建設専務。2002年肺炎で逝去。享年88歳。遠目にも、凛々しいハンサムで、加藤周一に似た面影を宿している、と感じるのは、ぼくだけの錯覚だろうか。


本村雄一郎 妹・加藤久子と本村二正の間に生まれた長男。東大工学部卒。マサチューセッツ工科大学修士。米国の有力国際コンサルティング会社等を経て(株)パデコを設立、代表取締役。加藤周一の版権継承者。
(株)パディコ
住所 〒113-0034 東京都文京区湯島3-20-12ツナシマ第二ビル3F
ホームページ http://www.padeco.jp/
業種 コンサルタント/シンクタンク
事業内容 下記の領域における調査・分析・コンサルティング業務。
事業領域 運輸交通、都市・地域計画、経済分析、財務・金融、経営、教育、PFI、民活・民営化、観光振興・開発、建築、環境、法律、行政、システム分析、情報技術、社会組織開発、等
資本金 1億500万円
代表者名 本村雄一郎

本村正二郎 妹・加藤久子と本村二正の間に生まれた次男。東大工学部卒(早稲田卒という資料もあり)。東急建設代表取締役。

本村昌子 聖心女子大学卒。本村正二郎の妻。



この項順次追加してゆきます。
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12-16 加藤周一の「読書術」ってそれほどの名著ですか?

12-16 加藤周一の「読書術」ってそれほどの名著ですか?

読書術表
読書術。ぼくが読んだのは、このカッパブックスのときのもの。今は岩波から。

読書術裏
裏表紙。怖すぎる加藤周一の顔。


アマゾンのレビューを読むと、加藤周一の「読書術」は非常に評価が高いのだけれど、この本、そんなに面白いですか?

だいたい、加藤周一自身がどこかで「カッパの担当者が、100万部の本にしてみせる、としつこくいうので、口述で1日だけ喋って、自分はそのあとすぐ外国に行った」とか、「所詮、売れ線狙いの三流版元にしつこく頼まれ作ったやっつけ本ですから」と、自虐的、というか、相変わらずプライド高く、カッパ軽蔑的に暴露している通り、内容的には「薄い」本だと思うのですが・・・。

読書術は、やはり、蔵書が最低でも5万冊以上のひと、荒俣宏、鹿島茂、立花隆、日垣隆、ついでに渡部昇一・・・あたりが書いたもののほうが絶対に面白い。「総量規制していた」加藤周一の蔵書は3万冊前後だったらしいですが、ちょっと少ない。本を際限なく、金に糸目をつけず買いまくり、置き場所がなくなるくらいまでためこんだ人は、本の洪水に毎日苦労しているから、自ずと面白い読書術を編み出す。

1日の口述を纏めた本だから内容が薄い、ってことを加藤周一も自白し「出来の悪さ・内容の薄さ」を認めているているし、むしろ、本をたくさん読めば「ボケ防止になる」という「神話」を見事に粉砕してくれた最晩年の加藤周一のほうがはるかに偉大だと思います。

やはり、10万冊以上の蔵書家で、天下一品の読書家でもあった丸谷才一が、芥川龍之介のことを語るのに、知人の大学教授との雑談、という文脈の中で、

「石川淳と話していたら石川さんが『芥川には学がない』という。あの芥川をして『学がない』と評するのだから面白いことこのうえないのだけれど、石川さんに『聡明怜悧とはいえ芥川はいかんせん若死しましたからね。学、なんていうものはやはり40歳すぎてから身につく性質のものでしょう』と反論した」と述べると、相手の大学教授が「ところで丸谷くんは、何歳になった? 40歳はもう過ぎているだろうから、さぞかし学が身についたことだろう」

という流れの会話になっておおいに慌てた、とどこかに書いていて、その相変わらずの筆運びの見事な芸に思わず呻らされるのだけど、学とは、丸谷もいうように、やはり、不惑なり天命を知るといった、ある程度の年齢に達して得られるものだと思います。

学とはつまり、たんに知識だけの総量を指すものではなく、なにがしら「人格の円熟、耳順」といったニュアンスを帯びる性質のものでしょう。

室生犀星は、軽井沢の堀辰雄の書庫をみたとき「掘くんは、この本を全部読んだのだろうか? 恐ろしいことだ」と驚嘆したらしいけれど、軽井沢は追分の掘辰雄記念館を訪れ、彼の書庫を覗いたことのあるひとならば「え? たったこれだけ?」とまずは驚き、次に「いやいや、昔は本の値段が高かったんだよね」と納得することになるでしょう(むろん、掘の書庫の本は、往時よりは整理されているとは思います。念のため)。

堀辰雄は「芥川さんは本をゆっくり読めなかった」と中村真一郎をはじめとする弟子グループに語っていたそうだけど、この堀辰雄の言葉は、芥川の読書速度のことだけではなく、芥川の生き急いだ人生への警戒心を述べている、と考えたほうがわかりやすい。

芥川は一時間に600ページの速度で本を読んでいて、死ぬまでに読める本の冊数を計算し、あまりの少なさにがっかりした、という逸話は有名ですが(一般人は約五千冊だと言われている)、芥川のような乱読家でもそんなに少ししか読めないものだろうか?

本を、常人から見れば驚異的な速度で読む速読家というのはいまでは結構いる。あの慶應女子卒の鼻ヒクヒクの評論家、勝間さんとか、要は慣れの問題だから、最初は遅くても、だんだんと速く読めるようになるわけだ。

海外に移住した過激な評論家、日垣隆氏は「前屈は毎日していると最初はまるでダメでもだんだんとできるようになる、読書だって自分が一五歳のときより四〇歳の今の方が二十倍速く読めるようになった」と言っているし、評論家の呉智英は、ひとは500冊読むごとに、読書の「段位」が一段あがるといっている。

好きな分野は本を読むにつれて、その関連の知識が増えるから、同じ分野だと本に書いてあることの多くはすで知ってるため、飛ばし読みができるようになるので、眼球の動かし方などにコツがある何か特別な速読法をマスターしていなくても、一日十冊前後読むひとはけっこいるものだ。

ひと昔まえには、杉浦民平が、一ヶ月一万ページを読むのを目標にしている、というので話題になったけれど、これは一日だと約三百ページで、約一冊。ヒッキーや学生、暇な主婦などで、一日二〜三冊の本を図書館で借りて読んでいる、というひとはいまではけっこういるし、日垣隆氏は本にはあたりハズレがあるのだから、40代になったら毎日最低五冊読め、と指南しているが、正論だと思う。

小林秀雄は外国語(英語とかフランス語)の本を一日一冊読めといったらしいけど、こうなるとさすがにハードルがかなり高い。京大で天才湯川秀樹(・・・といわれているけれど、頭の本質的な良さ、は朝永振一郎のほうが格段に上)以来の、サヴァン的な大天才(というか京大史上でも断トツで最高でしょう)と謳われた浅田彰は、京大図書館で、英独仏の原書を自分の椅子の周りに床から天井まで積み上げ、その本の山を毎日片っ端から、最後の一冊に至るまで読んでいて、翌日には、昨日とはまた違う英独仏の原書が、同じく天上まで積み上げられていた、という逸話の持ち主だが、これは天下の京大でいまでも語り継がれている伝説だから、さすがに誰にでもマネの出来ない、超絶技巧的読書だ。

昔だと、鶴見俊輔が十代で一万冊読んだとか、廣松渉が一日(英・独語を含め)三千ページの文献を読んでいたとか、最近のひとでは、評論家で(しかし、ぼくにはただの馬鹿としか思えない)宮崎哲弥が十五分あれば新書を一冊読むといって自慢している。一時間で4冊、十二時間で約50冊、新書以外の本も含めて一日十〜二十冊、月間で二百冊位は読んでいることになるけれど、新書なんて1日たっぷりあれば100冊は読めるでしょう。

宮崎哲弥をして「あいつは俺よりたくさん読んでいる」と脱帽させているのが慶応大学教授にして文芸評論家の福田和也で、福田はフランス語やドイツ語の原書も読めるから、英語しか読めない宮崎哲弥は到底かなわない、というか、そもそも頭の出来がまるで違う。

こうした濫読について小林秀雄が以下のように述べている。

「努めて濫読さへすれば、濫読に何んの害もない。寧ろ濫読の一時期を持たなかった者には、後年、読書がほんたうに楽しみになるという事も容易ではあるまいとさへ思はれる。読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪る様に読む事で養われる他はないからである」

一方で、いまはやりの速読には意味がない、と言う人もいる。たとえば芥川賞作家の平野啓一郎。

「速読家の知識は単なる脂肪である。それは何の役にも立たず、無駄に頭の回転を鈍くしているだけの贅肉である」

「人は、あまりに早く読むかあまりにのろく読むかすれば、何事も理解しない」とは、パンセの中のパスカルの言葉だけれど、読書の方法だっていろいろあっていい。

野口悠紀雄はアメリカ留学時代「大学図書館では、時間がなかったため、他人が傍線を引いたところだけを読んだが(もちろん英・独・仏の原書)、それできちんとその本が理解できた。わたしの編み出した裏技だけど・・・」と語っているけど、これなんぞ誰にもマネできる技ではない。

「究極の読書法」とはなにか、じっくりと考えてみたことがあるのだけれど、「自分宛のラブレターを読むように、想像を膨らませ、行間を読む」いう方法がそれかもしれないと思いあたったことがあります。以下は、アドラーの「本を如何に読むべきか」

「彼らが恋愛をし、ラヴレターを読む時には、その手紙の全価値を読み切って了うのである。彼らはどの言葉も三様に読む。彼らは行間ばかりでなく、天地左右の開きさえも読み、全体を部分において読み、部分を全体において読むのである。彼らは前後の関係、曖昧な表現、それとなくいうほのめかしや含みのある言葉に敏感になるのである。彼らは言葉の色合いを、句の匂いを、文の重みを感ずるのである。彼らは句読点さえも考慮に入れるのだ。もしそれ以前にも、それ以降にも全然読んだことがないとしても、この時こそ彼らは『読んだ』のである」

しかし、これもまたひとつの屁理屈。結局、「読書術」なんて、他人から教わるものではなく、自分自身で編み出していくものなんでしょうね。歩き方のスタイルが人様々であるように。



★参考
国内の個人の蔵書家ランキング(現存の方は、みなさんどんどん増えていくのであくまでアバウトな目安です。また、市井の本好きにも5万冊前後の蔵書のある方はそれなりにいらっしゃいます)

個人的には、先日逝去された、加藤周一の敵対者のひとりであった、渡部昇一の蔵書が、質量ともに、特にその質において、国内ではナンバーワンだと思います。渡部昇一の著作や思想を馬鹿にするのが、旧帝大卒インテリの慣わしのようになっていますが、彼の蔵書の凄さだけは、誰にも否定できないでしょう。


▼高島俊男 25万冊

▼立花隆 22万冊

▼井上ひさし 22万冊

▼谷沢永一 20万冊

▼渡部昇一 15万冊(1冊数千万の稀覯本多数)

▼細谷正充 15万冊

▼紅野敏郎 13万冊

▼松岡正剛 10万冊

▼草森紳一 6万2000冊

▼岡崎武志 6万冊

▼寺島実郎 5万5000冊

▼鹿島茂 5万冊

▼司馬遼太郎 4万冊(司馬遼太郎記念図書館に保存されているもののみで)

司馬遼太郎記念館
出典:司馬遼太郎記念図書館 http://www.shibazaidan.or.jp

▼山口昌男 4万冊

▼佐藤優 4万冊

▼katoshu(ブログ主)4万冊。4万冊といってもその99%は、ブックオフの100〜200円の本。鉄筋鉄骨の賃貸マンションに一人で居住していますが、だんだんと動きがとれなくなってきました。どうにかしないと。

▼加藤周一 3万冊

▼清水有高 2万2000冊

清水有高
清水氏の、「蔵書が10万冊を超えたらなにかの専門に特化した図書館を開く」は、全くもって個人蔵書の王道。ぼくもその線を狙っています。
出典:https://www.youtube.com/watch?v=TGlXi-qpi2w

▼丸山眞男 1万8000冊

▼澁澤龍彦 1万5000冊

▼林達夫 1万5000冊

▼荒俣宏 不明(稀覯本多数)。ただ、周囲のいろいろな人が語っている情報から推定すると、50万冊くらいではないかと思う。

▼浅田彰 不明。「蔵書数自慢なんて」と一笑に付されそうだが、英独仏が大量にある蔵書を、自宅外マンションに「放置」していると聞いた。その昔、フランシス・フクヤマと対談したとき、彼の祖父が「資本論」の初版本を持っているような、知的一族の出自であることから紹介を始めるなど、本に関する彼のセンサーは凄い。


※個人で最もたくさん本を所有していた人物は、確かな記録があるものとしては、一八〜十九世紀のフランスの書籍蒐集家のブラールというひとで、六十万冊〜八十万冊あったという。ここまでいくと、愛書癖(ビブリオマニア)という一種の病気である。





参考サイト
日本一の蔵書家 http://zxvz.exblog.jp/18617344/
蔵書数 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13141648053
古書自身に稼いでもらう https://plaza.rakuten.co.jp/noncaffeinetensi/diary/201103200003/
草森紳一 https://ja.wikipedia.org/wiki/草森紳一
渡部昇一さん http://www.seiryupub.co.jp/blog/2017/04/post-132.html
書庫が欲しい http://www.apalog.com/daisen/archive/183
渡部昇一 https://ja.wikipedia.org/wiki/渡部昇一
立花隆の本棚 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35188
すごい読書量のまとめ https://kuritoritarou.com/post-250/
一人暮らしの限界蔵蔵書数 http://masahirom0504.hatenablog.com/entry/2016/02/11/184533
20世紀日本における知識人と教養 http://office.twcu.ac.jp/univ/research/project/maruyama-project/report/17maruyama_kenkyuuseikahoukokusyo.pdf
高山宏の「読んで生き、書いて死ぬ」 http://booklog.kinokuniya.co.jp/takayama/archives/2007/07/
松岡正剛の「屋根裏ブックウェア」http://www.eel.co.jp/news/update/141006.html
一月万冊 http://readman.jp/shimizu/



この項ここまで。
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12-9 加藤周一神話を解体する ジョージ・スタイナーの加藤周一批判

12-9 加藤周一神話を解体する ジョージ・スタイナーの加藤周一批判

ジョージ・スタイナー
ジョージ・スタイナー
出典元:http://www.institutfrancais.jp/kyushu/events-manager/george-steiner/


※加藤周一は、このときの対談について「今日は、英語、ドイツ語、フランス語の何語で話しましょうかね?」とわたしに聞いてきた。あれは明らかに、わたしを見下していたので、腹が立った。だから『どれでもかまわない』とけんか腰で言った」という趣旨のことをどこかで書いていました。加藤周一、やはり、プライドが滅茶苦茶高いなぁ・・。



ジョージ・スタイナー略歴

1929年、オーストリア系ユダヤ人としてパリに生れる。
パリのリセで教育を受けたのち、ナチに追はれて1940年、アメリカに亡命。
ニューヨークのフレンチ・リセで教育を續行。
1948年、シカゴ大學で學士號を取得。ハーヴァード大學で修士號を取得したのち、1955年、オクスフォード大學に留學して博士號を取得。
1952年から56年までは「エコノミスト」編輯員。
1957年、プリンストン高等學術研究所員となる。
1959年から60年にかけて、プリンストン大學ガウス人文學講座教授。
1961年、ケンブリッジ大學チャーチル・カレッジの研究員(フェロー)(イギリス科主任)、1969年、滿期により特別研究員(エクストローディナリー・フェロー)となる。
1974年よりスイス・ジュネーヴ大學教授(英文學・比較文學擔當)。
同年6月、「イングリッシュ・アソシエーション」(英語・英文學會)會長に推擧される。
1974年4月、慶應義塾大學の久保田万太郎基金の招きによつて來日。加藤周一、高橋康也、山口昌男、江藤淳を相手に、論争も交えて対談した。講演録・対談・スタイナー論などを収録した『文学と人間の言語 日本におけるG.スタイナー』(編集代表池田弥三郎、慶應義塾三田文学ライブラリー、1974年)が出版された。



加藤周一との對談で、加藤の「演説」を聞かされたスタイナーは、

“政治の面については、今あなたが示された分析は、最近の政事状況に必ずしも對應しないのではないかと思ふ”、

“加藤さんが『自主管理』の兆候をどこに見てをられるのか、わたしには分らない”、

“あなたと政治の議論はこれ以上したくない”。

“さうは思ひませんね”、

等々、加藤の主張を悉く否定した。

しかし、加藤は平然と「政治演説」を延々と續け、スタイナーは呆れ返る。

スタイナーは言ふ──

“わたしにも言はせてもらひませう。あなたのお話しに、どんなに感動させられたか。ほとんど、わたしの子供時代に戻らされた思ひだ”、

“つまりませんね”、“第一、あなたは『五月革命』のことを話題になさつた。でも、このわたしは、あの『五月革命』のとき、現場にゐたのですよ。わたしには、あなたが、何を言ひたいのか、この點、全く分らない”。

話をするのが嫌になつたスタイナーは、

“すまないが、その話題は止めて下さい。わたしはその話題を進める用意がない。止めて下さい、濟まないが”、

と言ふが、加藤は平氣な顏で、

“さうですか。用意がなければ、社會主義といふ語は時代遲れだといはない方がよくはないですか”、等と拔かしてゐる。

社會主義者・加藤の、人を見下したやうな發言の數々には呆れる。
出典:超近代の思想
http://nozakitakehide.web.fc2.com/EnglishLiterature/Steiner/SteinerinJapan.html




スタイナーと加藤周一、月とスッポン

週刊スパ(2013年7・2号)の坪内祐三氏と福田和也氏の対談の中で、ジョージ・スタイナーが取り上げられていた。彼の本は何冊か積んどくしている程度でよくは知らないのだが、坪内氏によると、かつて来日した時、加藤周一と大論争を「世界」(74年8 月号)でしたそうな。

「加藤周一は社会主義とか中国に対して楽観的なわけ。でもスタイナーは社会主義が嫌いだから、「すべての国際社会主義は強制収容所に行き着く」「あなたと政治の議論はこれ以上したくない」と言って、怒鳴り合いになっちゃうの。翻訳は由良君美がやってるんだけど「二人とも怒声となり聴取不能」って何度も書いてある」

それは知らなかった。さっそくその対談を読んでみた。

「西欧・社会主義・文化 『先進文明』の希望をたずねて」と題して22頁ヘージもの対談。一読して、やはりねという感じ。ここでいう「社会主義」とは「民主社会主義」ではなく「共産主義」のことのようでもある。

加藤氏は、「わたしには、伝統的マルクス主義の社会主義像というか社会主義国家のイメージと、『自主管理』の理念とが結合して、フランスの社会主義が政治的活力をとりもどしたようにみえます」「社会主義にかんするかぎり、西欧世界の外で、アジアでも、アフリカでも、社会主義という言葉はまさに死語の反対でしょう」とノーテンキな発言をしている。

それに対して、スタイナーが、「加藤さんが『自主管理』の兆候をどこに見ておられるのか、わたしには分からない」「そんなことを言えば、ジェネラル・モーターズ社の方に、もっと沢山の『自主管理』がある」「済まないが、その話題は止めて下さい」「わたしは政治家ではないから、社会主義云々はこれぐらいにしたい」「(社会主義は)完全に時代遅れ、とわたしは考えております」「40分以上、対談しあったことは、すべて見解の相違でしかなかった。あなたがおっしゃったことは、どれもこれも、わたしにはひどく旧式のことばかりに思える」「あなたの方が、論点をそらしておられる。わたしの立場は、あなたの立場より、はるかに分かり易いものです。わたしは、すべての国家社会主義は強制収容所に至る、と信じているのです」と。

そういった対談のあいまには以下のようなト書きが入る。

(二人の声が同時にたかまりスタイナー氏が卓を叩く音。ほとんど、聴取不能)
(同時に激しく言い合いになり、ほとんど、聴取不能)
(突然、二人とも怒声となり、聴取不能)

一読して、まあ、「社会主義(共産主義)」に関する認識では、スタイナーのほうがベタ-というしかない。スタイナーさんも、シーラカンス的日本の進歩的知識人のレベルに驚愕したのだろう。
出典:古本虫がさまよう
http://kesutora.blog103.fc2.com/blog-entry-1187.html




スタイナーの来日が当時一部で関心をもたれたのは、同書に収録されたスタイナーと加藤周一との公開対談のせいである(初出は雑誌「世界」)。こうした場合によくあるような、相手に気を遣った儀礼的な対談でなく、加藤周一は真っ向からスタイナーに論争を挑んだ。歯に衣着せぬ舌鋒は、ときにスタイナーをたじろがせ、録音テープを起こした対談に<激しい言い合いのため聴取不能>と三たび記された。対立点を一言でいえば、マルクス主義の命運ということになろうか。

ときは1974年、パリ五月革命後の急速に沈滞してゆく西欧の反体制運動の気運のなかで、コミュニスムの理想はいかに実現可能かをめぐって、ふたりは鋭く対立した。スタイナーのペシミスムにたいする加藤周一のオプティミスム。むろん、加藤周一のオプティミスムは、「英知においてはペシミスト、だが、意志においてはオプティミストたれ」とグラムシのいう「意志としてのオプティミスム」である。

対談では、司会をつとめた由良君美がついに見かねて、論争に介入するといった事態もあった。いまでは「脱領域」といってもごく普通に通じるだろうが、スタイナーの著書 Extraterritorial(治外法権の、といった意味)に「脱領域の知性」という絶妙の邦題を与えたのは、ほかならぬ由良君美である。スタイナーの日本への紹介とその招聘に尽力した由良君美の心中はいかばかりであったか。あるいは逆に、面前で繰り広げられる激論を、由良君美はしてやったりと超然と眺めていたのだろうか。
出典:qfwfqの水に流して Una pietra sopra
http://d.hatena.ne.jp/qfwfq/




その時「検索していて」出遭ったのが、文学批評を専門にしているらしいqfwfqの水に流してというブログ。

そのブログのスタイナーの続き、あるいは由良君美と山口昌男(2012年6月23日)と言う記事に粉河がコメントを寄せている。

・・・スタイナーの加藤批判は、ある意味で岩波・朝日文化人の硬直さを鋭く指摘しており、論争を仕掛けることになった由良さんは、このときばかりは、してやったりという顔そしていました。・・・

これに対してブログ主(服部と言う方なのか)はこう切り返す。

・・・やっぱりね、由良君美も人がわるい。スタイナーこそ、いい迷惑でしたね。・・・

筆者がR大学で「ひたすら勉強しない」努力を傾けていた時、後に彼方米国遊学中に勉学・研究のため関心を持つことになる加藤周一等「日本の現代知識人」の思想状況を垣間見せる、「スタイナーと加藤周一の口論」構図は以下のように描写されている。

ときは1974年、パリ五月革命後の急速に沈滞してゆく西欧の反体制運動の気運のなかで、コミュニスムの理想はいかに実現可能かをめぐって、ふたりは鋭く対立した。スタイナーのペシミスムにたいする加藤周一のオプティミスム。むろん、加藤周一のオプティミスムは、「英知においてはペシミスト、だが、意志においてはオプティミストたれ」とグラムシのいう「意志としてのオプティミスム」である。
出典:大和郷にある教会
https://sugamo-seisen.blogspot.jp/2014/06/5.html


この項追加予定。
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4-1 第一の女 母は傾城の美女

4-1 第一の女 母は傾城の美女

加藤周一の母、加藤ヲリ子については、全集などで、当代一の女優ですら顔色なき、その佳容を見ることが出来ますから、ここには掲載しませんが、金王町の家に同居していた、加藤周一の父の姉の長男(=いとこ、当時、早稲田大学の学生で、剣道部の主将をしていた強力の魁傑)が、ひそかにヲリ子に恋心を抱いていたことを、小学生の加藤周一も気がついていて、周一と妹・久子のよき遊び相手だった、という記述が出てきます。

「父には窮屈な思いをしていたらしいが、母にはうちとけて、大学から早く帰ってくると、お茶を飲みながら、長い間母と話していて、なかなか自分の部屋へ引き上げようとしなかった。子供好きで、散歩に出ると、両手の小指に私と妹をぶら下がらせ、地面から引き上げて歩いて見せたりした。『およしなさい、お兄さんが疲れてしまうわ』と母はいった。『なに、大丈夫です、これ位のことは』と従兄はいい、それをよいことに私と妹は何度でも同じことをせがみ、従兄はほんとうに疲れるまで私たちを相手にしていた。子供を好きだったにはちがいない。しかし、それ以上に母を好きだったのかもしれない」(「羊の歌」46ページ)

あるとき、その従兄と、母と、加藤周一と妹が、当時からすでに、渋谷の盛り場で会った道玄坂に買い物に出かけたさい、酔っ払いの中年男二人がヲリ子に絡んできたものの、武術に長けたその従兄が、瞬時に彼らを撃退する、痛快な話が出てきます。

その従兄は大学卒業後、故郷の中丸村に戻り、結婚し、大地主の親族として、農協を切廻し、農業を営む人生を歩みます。母ヲリ子や周一、妹・久子が第二次世界大戦末期に東京を焼き出されたとき、身を寄せたのは、中丸村の彼の家であり、三井建設勤務で、東大工学部卒の本村二正氏とすでに結婚していた久子が、第二子の正二郎を出産したのも、当時の彼の家でのことでした。本村二正氏は、当時、中国方面に出征。戦後、無事帰国します。

(なお、この頃の父の生家であった大屋敷は、祖父母が亡くなっていて、「幽霊屋敷」と近所では呼ばれていたという)

この従兄の名前は、調べればすぐ分かると思うけれど、その名前より重要なのは、加藤一家には、そうした人間的な温かみや経済力のある父方の大地主の親族がいたことであり、そのことひとつとっても、庶民が食うや食わずで飢えに苦しみ、こどもや老人が餓死すらしていたあの時期に、恵まれた避難所があったのだ、ということを知ることのほうが、加藤周一という人物を知る上ではより重要だろうと思います。

なお、以下は当時の道玄坂の風景です。当時なりに「繁華街」だったことがよくわかります。


1922年(大正11年)加藤周一3歳道玄坂
大正11年。加藤周一 3歳。

1930年(昭和5年)加藤周一11歳道玄坂
昭和3年。加藤周一 11歳。



この項ここまで。
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番外 美竹町の加藤周一ファミリーの家

番外 美竹町の加藤周一ファミリーの家


美竹町の家1
昭和10年の宮益坂。左手が美竹町。加藤周一16歳。

美竹町の家2
昭和12年の宮益坂。左手が美竹町。加藤周一18歳。


「私が中学校に入った頃(12歳)、一家は宮益坂をのぼって坂の右側から左側へ引っ越しをした。金王町の古い家は、豪家の一部を切り離して移築したもので、住むにも不便であり、開業医の仕事にも適さなかったから、美竹町の祖父がもっていた土地を借りて、新築したのである。土地は、祖父の屋敷よりも一段と高い崖の上にあり、反対側は、氷川神社(御嶽神社の誤りか?)の垣に接していて、もと私用の庭球場になっていた。庭球場はつぶされて、その代わりに木造二階建の新築の白い家が建った」(「羊の歌」93ページ)

「美竹町の家は、診療所の上に二階がのっていて、その南西の角の部屋が父の書斎になっていた。南の窓には松の巨木が枝を広げていて、夏には煩いほど油蝉が鳴いた。しかしせまい空地を隔てて、高い崖に臨んだその二階の窓からは、渋谷駅のあたりの谷間を越えて、はるか遠く道玄坂の斜面が地平線までみえた。(一中に通う)五年間の間、西の空(道玄坂方向)の夕暮を眺めることは、雨の日をのぞいて私のほとんど欠かしたことのない日課であった」(「羊の歌」104〜105ページ)

上記一番上の写真の左手、巨木の背後の家、あるいは、その下の写真のほぼ同じ位置にある白い2階建ての崖上の家が、加藤周一一家の美竹町の家ではないだろうか?



この項ここまで。
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13-1  加藤周一の生涯 そのあまりにも多い謎  加藤周一初恋の相手 「桜横町の女王」とは誰?

13-1  加藤周一の生涯 そのあまりにも多い謎  加藤周一初恋の相手 「桜横町の女王」とは誰?

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出典:シブヤ散歩新聞 No. 10 「桜横町」と「さくら横ちょう」
http://shibuyasanpokaigi.jp/shinbun/index.php/2017/05/01/hill10-sakurayokotyo/

小学生の頃の毎日の通学路だった桜横町を、加藤周一は、過酷で悲惨な戦争の最中に、何度も想い出したそうです。最も幸せだった頃の思い出だったからでしょう。それを、「十六世紀フランスに流行したロンデルの韻を借りて」作ったのが以下の詩です。

加藤周一のほかの詩同様、相変わらず、いまひとつ冴えない詩で、全国津々浦々、どこかの田舎の公立小の、ありふれた校歌のようだけれど、ま、これはこれでいいのでしょうね。なお、この詩には中田喜直と別宮貞雄の二人の作曲家が別々のメロディを付けています。


さくら横ちょう       加藤周一

春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう
想出す 恋の昨日(きのう)
君はもうここにいないと

ああ いつも 花の女王
ほほえんだ夢のふるさと
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう

会い見るの時はなかろう
「その後どう」「しばらくねえ」と
言ったってはじまらないと
心得て花でも見よう
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう



それより、「本邦初 本格的伝記 加藤周一 その真実の生涯」をものにしようと頑張っているぼくにとって興味があるのが、加藤周一の初恋の相手、「桜横町の女王」とは誰なのか? ということなのです。

「彼女は大柄で、華かで、私には限りなく美しいと思われた・・・もし彼女と二人きりになることができたら、どんなによいだろうか、と空想していた」「とり巻きを連れて、はしゃぎながら、途中までやって来て、自分の家のまえの石段を昇ると、その上で手を振ってみせる彼女に出会わないと、私は学校からの帰り道にいくらかの失望を感じるのをどうすることもできなかった」



加藤周一は、「それはまだ恋ではなかった」と書いていますが、いや、一般的にいってこれはもう十分「初恋(ただし片思い)」と言っていいでしょう。

個人的には、小学校の同級生で、日本郵船の船長の娘(加藤周一同様、公立小に通うには似合わないブルジョアの家庭です)さんのほうが、魅力的で、

「あの子は、偉そうなことをいっても、自分でもよくわかっていないのよ、どうせ子供のいうことでしょう」

「馬鹿ねえ、そんなことを知らないの、あたしもよく知らないけど」

「あなたのお父さんもいいけど、むっつりしているのが、どうかな」

などといった彼女の早熟なセリフには爆笑してしまった。総じて深刻な「正続羊の歌」で、最もユーモラスで腹の底から笑える珍しい箇所がここである。

彼女は加藤周一に芥川龍之介を教え、後に妹さんのよい友だちとなり、両方が結婚してからも交遊があったというから、久子さんに聞けば誰なのかはすぐに特定できるだろうけれど、鷲巣さん、よろしくお願いいたします。

参考
氷川丸 昭和5年竣工 初代船長(昭和5〜7年) 秋吉七郎
秋吉
出典:日本郵船歴史博物館
http://kozaru98.fc2web.com/kouen/kanagawa/hikawamaru/hikawamaru.htm


「女王様」のほうは、下記の地図が、ぼくにとってはいまのところ唯一の手がかりです。

昭和3年渋谷
昭和3年渋谷地図 「桜横町の女王」は、その横町の一軒に住んでいた、という。


この項追加予定。
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ということで、前項でお世話になった、

中落合日乗(國學院大學元職員の日記)
http://blog.livedoor.jp/haute_contre/ 


ですが、加藤周一関係だけでも、まだまだ参考になる内容が盛りだくさんなので、もう少し引用させていただきます。多謝。

ブログ主のK.K.さんと加藤周一の接点は、勤務先への路地に突然、加藤周一「さくら横町」の詩碑が現れたこと(平成28年5月12日)です。

http://blog.livedoor.jp/haute_contre/archives/51900852.html
平成28年5月12日(木) 「さくら横ちょう」の碑

ここから同氏の解明が始まりました。過去1冊だけ加藤周一の著作を著者を意図せずタイトルに惹かれて読まれていたものの、あまり記憶に残らず、それ以外には接点がなく、従って、加藤周一の名前を覚えていなかった同氏にすれば、「なにこれ?」という疑問がわき起こるのは当然でしょう。

で、その解明が、

http://blog.livedoor.jp/haute_contre/archives/51900994.html
平成28年5月14日(土) 続・「さくら横ちょう」

へと続きます。

そこには、ぼくの知らなかったエピソードが!

「ちなみに、大正15年に氏が入学した常磐松尋常小学校は前年12月に開校したばかりの出来立てほやほやでした。『羊の歌』に出てくる校長は、常「盤」松では皿が割れるに通じるので、石の常「磐」松にしたという逸話が残る方なのでしょうね。」

いや、これ、知りませんでした・・・。このブログでは、いままで間違えて全部「常盤」と表記していたと思いますが、あえていままでの誤記はそのままにしておきます。

桜横町④常磐松小学校校名プレート-1024x768
常磐松小学校。「常盤」にあらず。
出典:シブヤ散歩新聞 No. 10 「桜横町」と「さくら横ちょう」
http://shibuyasanpokaigi.jp/shinbun/index.php/2017/05/01/hill10-sakurayokotyo/


また、

「父親の意向で「普通」の学校に通ったということですが、加藤氏宅の当時の位置は現クロスタワー近くであり、現ヒカリエあたりにあった渋谷尋常小学校のほうが圧倒的に近いはずです。新設校で児童を集めなければならなかったのか、父親の意向なのか、あるいはほかの理由があるのか、加藤氏の本からはわかりません。」

とありますが、こちらのほうは、「羊の歌」の73ページに、その理由の一端が書かれています。K.K.さんご覧あれ。


さらに、ブログ主のK.K.さんは、ぼくと同様、現在の、加藤医院の位置を探っておられますが、この界隈を熟知し、通勤や散策されている同氏の推定のほうが正しいに違いありません。以下引用させていただきます。


5月16日追記
加藤医院現在の風景
加藤邸(医院)は多分このあたりだと思います。渋谷駅南側から六本木通りと別れて246(青山通り)へ上がっていく道。当時は狭い道があったようです。したがって旧加藤邸は現在一部道路にかかっているのかもしれません。しかし、このクロスタワーの裏手から東福寺(金王八幡宮隣、旧別当寺)の裏あたりまでが長井邸でした。めちゃくちゃ広いですね。長井邸についての参考ページはこちらとこちら(うちのブログですが(^^;))など。
※引用はここまで。感謝です。以下は再掲。

金王町の家2017
2017年8月 出典:Google map



余談ですが、下記の地図、

昭和3年渋谷
昭和3年渋谷地図 クリックすると拡大します。

なんだか、まだまだこの地図から、当時のいろんな情報が読み取れそうです。探ってみます。



この項ここまで。
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番外 小学生の加藤周一が毎日通った、自宅と常盤松小の通学路を確定する

番外 小学生の加藤周一が毎日通った、自宅と常盤松小の通学路を確定する

以前掲載した番外記事で、



番外 金王八幡と加藤周一の自宅位置

位置的な関係で見ると、学校の行き帰りに八幡神社を通り抜けた、という記述はおかしい。この地図の「東福寺」を横切る道のことかもしれない。

金王八幡
「また学校の近くには、八幡神社があった。(中略)私は学校の行き帰りにその境内を通り抜けたけれども、その(同じ小学校の遊び)仲間に加わったことはない」(「羊の歌」62ページ)


現在の金王八幡宮の境内の様子
出典:https://nipponrama.com/fr/konno-hachimangu-shibuya/


・・・と書きましたが、あるサイトのおかげでその謎がとけました。

まず、大正14年の『渋谷町商工地図』を加工して、加藤周一自宅から常盤松小までを一望できるようにしてみます。

さくら3

クリックして大きく拡大してご覧下さい。左端の交差点の下に「加藤医院」とあり、ここが金王町の加藤周一の自宅です。また、右端上部に青地に大きく「常盤松小」と記載されていますが、ここが加藤周一が毎日徒歩で通っていた小学校で、敷地の一番下あたりに正門があったようです。


さて、ここから大変お世話になったのが、下記サイトです。さくら横町の場所と同時に、疑問の残っていた加藤周一の毎日の通学路の記述の謎が解消できました。多謝。

http://blog.livedoor.jp/haute_contre/archives/51900994.html
平成28年5月14日(土) 続・「さくら横ちょう」

以下、上記サイトよりの引用です。

「さくら横ちょう」に関して、そのすぐ脇に住んでいる友人に聞いてみました。確かに友人の子供時代(昭和20年代後半?)までは桜並木はあったそうです。ただ、そのあたりでは「桜横丁」ではなく「さくらみち」(漢字は不明)と呼ばれており、そのころあった駄菓子屋さんでは「さくらみち」と書かれた袋を使っていたそうです。名残の桜の木は、和菓子店の「千本堂」さんが数年前に建て替えられるまでは庭に残っていたとのこと。「桜横丁」か「さくらみちか」のどちらが一般的に使われたのかはわかりません。正式名称ではないようですので、あるいは住んでいる場所(や年齢)によって違う呼び方をされていたのかもしれません。

さくら4
桜横町と加藤医院 クリックして拡大してご覧下さい。

文と地図の引用ここまで。多謝。

「羊の歌」のなかで、加藤周一がもっとも幸せな時期を過ごした小学生時代、その小学校までの行き帰りに通った「桜横町」の記述は、セピア色の暮れなずむひとときが、永遠の相のなかに見事に捉えられています。

「八幡宮から学校までの道には、両側に桜が植えられていた。その桜は老木で、春には素晴らしい花をつけた。桜横町とよばれたその道には、住宅の間にまじって、いくつかの商店もあり、そこで子供たちは、鉛筆や雑記帳を買い、学校の早く終った時には、戯れながら暇をつぶしていた。からたちの空地のように町から離れてもいず、八幡宮の境内のように男の子だけの遊び場でもなく、桜横町には、男の子も、女の子も、文房具屋のおかみさんも、自転車で通るそば屋の小僧も、郵便配達もいたのである。学校に近かったから、道玄坂などとはちがって、半ば校庭の延長のようでもあり、しかし校庭とはちがって、町の生活ともつながっていた。私は二つの世界が交り、子供と大人が同居し、未知なるものが身近かなるものに適度の刺戟をあたえるその桜横町のひとときを好んでいた。」(「羊の歌」65ページ)


なお、上記の「桜横町」「加藤医院」がマークされた地図は、昭和3年10月9日発行のものだそうです。この地図では、下記の「羊の歌」の記述に以前、このブログで抱いた謎も解けました。

「また学校の近くには、八幡神社があった。(中略)私は学校の行き帰りにその境内を通り抜けたけれども、その(同じ小学校の遊び)仲間に加わったことはない」(「羊の歌」62ページ)

わたしの疑問は、

「位置的な関係で見ると、学校の行き帰りに八幡神社を通り抜けた、という記述はおかしい。この地図の「東福寺」を横切る道のことかもしれない」

というものでした。しかし、

常盤松小学校の正門を出て、桜横町を抜けると、その先に、青木洋服店と大島や米店のあいだに「細い路地」があり、八幡神社への通り抜けができたんですね。大正14年の地図にはこの路地が描かれていなかったので、疑問に思ったわけです。

で、細い路地を通って、八幡神社の境内に入り、学友の遊びには加わらずに、境内外へそのまま出ると、右手に曲がって、当時、フィンランド領事館がおかれていた長井邸の金網に沿って地図左手へと歩みを進め、その先の十字路左手に位置する自宅の加藤医院にまで帰宅していたのでしょう。これで間違いなし! 「羊の歌」の記述とぴたりと一致します。



この項ここまで。

追記
道の両側にあった桜は、幕末の頃このあたりに薩摩藩島津侯の屋敷があり、そこへの通り道だったため植えられたのではないかとも言われています。いずれにせよ、この桜の木々は、戦災により焼失してしまいました。
出典:シブヤ散歩新聞 No. 10 「桜横町」と「さくら横ちょう」
http://shibuyasanpokaigi.jp/shinbun/index.php/2017/05/01/hill10-sakurayokotyo/
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10-2 加藤周一自叙伝「羊の歌」のタイトル再考。「鷲巣さん的頓珍漢な深読み」をぼくもまた犯していたのではないか?

10-2 加藤周一自叙伝「羊の歌」のタイトル再考。「鷲巣さん的頓珍漢な深読み」をぼくもまた犯していたのではないか?

サテュロス
サテュロスの仮面。加藤周一はディオニュソスを、社会の外にある神=「運命」と捉えた。


「今日ではギリシア悲劇と称される古代ギリシアの演劇では、俳優はマスクをつけて演技をしたが、素焼きの土で作られたこのサテュロスの仮面が実際に使用されたかは定かでない。サテュロスは、羊飼い・山羊飼いの神で山羊に似た容貌をしていたと伝えられるパンの子孫ともいわれ、自身も山羊の足と角を持った半神半獣。ディオニュソスの従者として「ディオニュソスの秘儀(バッカスの祭り)」では山野を乱舞する姿で登場する。ゼウスやアテナに代表されるオリュンポス系列の神々とは別系統の半神で、ギリシア精神世界の重層性を我々に示してくれる」
以上の写真と文章の出典と引用は以下。
ルーブル美術館〜古代ギリシャ芸術・神々の遺産〜
http://ruby.fool.jp/data/louvre/9.html


「羊の歌」というタイトル名は、加藤周一じしんの公的説明では「自分が羊年に生まれ、羊同様おだやかな性格だから」ということになっています。

が、多くの識者が、同じ羊年生まれの詩人、中原中也の処女詩集「山羊の歌」に収録された「羊の歌」の詩を意識しているのだ、加藤周一は中原中也の詩を好んだから、と指摘しています。

が、オマージュ、メモリアルとしても、私愛した詩人の詩の題名を戴く、というのは、その天にまで届くような、日本人の誰よりも高いプライド、良家の御曹司としての気位気品、大秀才の矜持を誇る、あの加藤周一らしくない。いや、加藤周一に限らず、独創性の女神に惑わされる作家ならば、みな、「避けたい」と思うのが、通常の感覚でしょう。

鷲巣さんは、このタイトルに、彼なりの面白い疑問を抱き、彼なりの解答を導き出しています。

「なぜ『歌』なのか。中也の『羊の歌』は詩であり『歌』と表現するのは当然である。加藤周一の『羊の歌』は半世記であり散文である。『歌』という必要は必ずしもない。にもかかわらず『歌』と謳った。その理由は何だろうか」(「加藤周一という生き方」 筑摩書房 107〜108ページ)

う〜〜ん、鷲巣さん、107ページの12〜13行目で「中原中也の『羊の歌』を意識していたからでもあるだろう。加藤は学生時代から中也の詩を好み、中也の詩を筆写していたほどだった」と書かれていますが、その鷲巣さん的コナンくん的推理の流れでいくなら、上記と矛盾しますが、そこまで耽溺していたからこそ、どうしても丸ごとパクってしまいたくなった、あの誇り高き加藤周一が、と考えてもそれほど不思議ではないと思いますが・・・。

ただ、大変面白い疑問だとは思います。で、その謎解きの回答として、名探偵「ホームズ・鷲巣」は、あるとき、はたと気づくのです。

「『羊の歌』にはいくつもの意図・主題が撚りあわされて編み上げられている。その意図のひとつに、『羊の歌』のなかには何人かの女性が登場するが、彼女たちに対する『女性賛歌』としての意図があったのではないか」(108ページ7〜8行目)

「加藤周一の人生を彩った愛した女性たちへの賛歌」だから「歌」といったのだ、という推論ですよね。

う〜〜ん、唐変木、じゃない失礼、またしても頓珍漢なハズレでしょう。仮に「女性賛歌」の意図があるなら、いくら言葉のセレクションにダサダサの加藤周一でも、違うタイトルにしたでしょう。

ぼくは、鷲巣さんの上記の解釈を読んだとき、大変失礼ながら、「どうすれば、ここまで頓珍漢な解釈ができるのか、むしろそのほうが深い謎だ」と、鷲巣さんにたいして身の程知らずな感想を抱いてしまいました。

加藤周一なんぞより、はるかに名文家であり、本邦随一の白眉なエディターでもある鷲巣さんが、こと加藤周一のことになると、なぜかくも頓珍漢になってしまうのか、唐変木(加藤周一)と頓珍漢(鷲巣力)は語呂がいいから、名コンビとしてその線を秘密裏に狙っているのではないか、などと頓変漢なことを考えてしまいます。

正解は、まず間違いなく、某巨大匿名掲示板にアノニマスで書き込まれていた、以下の指摘だと思います。

「『羊の歌』は、ギリシア語の悲劇 tragoidia(山羊の歌)を意識している。 加藤周一氏は、自分が羊年に生まれたから云々と説明しているけど、もちろん韜晦ね。」

なるほど!

「現在のヨーロッパ諸言語で悲劇を指す語は、古代ギリシア語において悲劇を指す語「トラゴイディア」(tragoidia)から発展したものである。トラゴイディアの原義は「ヤギの歌」であるが、なぜこの劇形式がそのように呼ばれるかについては諸説ある。その説の一つとしては、劇の背景や状況などを歌い上げる合唱隊コロスが、牧羊神の衣装を着ていたからというものがある。この説は有力なものとされているが、研究者間で意見の一致をみているわけではない」(ウィキペディア「悲劇」の項より引用)

この理由(韜晦)が加藤周一にはふさわしいし、ビンゴでしょう。「ギリシャ語、ラテン語もわかるんだぜ」という隠蔽された自慢と自己満足。

で、問題は、韜晦にせよ、加藤周一がなぜ自分の人生を、「悲劇」なのだと、気取って、あるいは悲しみに打ち震えながら、考えていたのか、ということになってきます。

前回、ぼくは、その理由を以下のように指摘しました。



加藤周一が、三人の「妻」を冷酷無残に捨て去ることができたのは、彼のマザコンとインセストラブのなせる技でした。それらは、加藤周一を最晩年まで「美貌の大知識人」として輝かせることに成功しましたが、伴侶となって仕えた三人の女性にとっては、「マザコン男とは結婚するな」という俗世間のことわざを、身を持って、ホラー映画のように体験するあまりに辛い、「悲劇的な出来事」となりました。

加藤周一の人生、まさしくそれは、ギリシャ語で言う「tragoidia=悲劇=山羊の歌」として、彼に仕えた三人の女性の悲劇的な死を踏み台にし、1968年刊行のこのタイトルに密かに埋め込まれた予言通りに、つまり、「予言の自己成就」をあますところなくなしとげて、「羊の歌あるいは悲劇」として、かくも見事に完結されたのです。



しかし、上記のぼくの解釈は、「鷲巣さん的頓珍漢」と同じ陥穽にはまっているのではないか、と考えを改めました。

というのも、「加藤周一対話集」(かもがわ出版)などを読んでいると、加藤周一が、その昔の一時期、いろんな大御所相手に、「ギリシャ悲劇」についてしきりに語っていた、という事実があるからです。

たとえば、4巻の「ことばと芸術」(1951年)では、小林秀雄相手に、

「自分の道を進むということは、悲劇になる。自己完成を求める人間は、その事自体がクロォデルの意味では『罪』だ」(177ページ)

「現世的な自分自身を完成するというエネルギッシュな人間の意志を『罪』と言いながらも・・・」(177〜178ページ)

「人間が人間以上のものに押しつぶされている。そういう人間の姿が古典悲劇的だというわけです。(中略)人間は運命に引きずられて行く。一人の人間の努力とか策略とかを超えたものに押しつけられ、潰されている」(180ページ)


また、同じ4巻の「悲劇の言葉ー『運命』について」(1978年)では、木下順二相手に、

「ギリシャ悲劇のおもしろいところについては、ぼくはまさに木下さんの言われたとおりだと思いますが、要するに人間の問題は、登場人物の性格と、その周辺の人物との相互の関係、状況の変化ということだけでは解決できない。それだけで運命が決まらないで、もっと上で、そういうことを超越するものが、人間を巻き込んじゃうということですね」(202ページ)

「近代劇では一人の人間と別の人間とのあいだに葛藤が起るが、ギリシャ(悲)劇では運命と人との間に緊張が起きる。その場合には、本来、主人公は一人で、その主人公がどう変わってゆくかということが中心になる。そういう意味でメタモルフォシスの劇だというふうに考えると・・・」(212ページ)


加藤周一には「運命」(1956年)というタイトルの著作もあるし、以上の発言だけからでも、自叙伝を「tragoidia=ギリシャ悲劇=(山)羊の歌」と命名したのが、ごくごく自然に肯首できちゃいます。

逆に、マザーコンプレックスやインセストタブーまで加藤周一が考えていたかどうかは、むしろどうでもよいことになります。いや、さらに蛇足すれば、そこだけを取り上げて「悲劇」と呼ぶのは誤読になってしまいます。加藤周一の考え方でいくと、誰の人生も、煎じ詰めれば、運命と個人のあいだに緊張が起きることによって、変貌と脱皮をくり返し、自己完成を成し遂げる「ギリシャ悲劇」そのもの、といえるのですから。

鷲巣さんのお考えが聞いてみたいです。



追記
羊の歌 中原中也

安原喜弘に

I 祈り
死の時には私が仰向(あふむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

II
思惑よ、汝 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚のほかを希(ねが)はず。

交際よ、汝陰鬱なる汚濁(をぢよく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は既に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑ひとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず

III
我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
其処此処(そこここ)に時々陽の光も落ちたとはいへ。
ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有(いう)であるやうに
またそれは、凭(よ)つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。

私は炬燵(こたつ)にあたつてゐました
彼女は畳に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室(へや)には、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは) 陽に透きました。

私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は蜜柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(ぐわんみ)しました。

IIII
さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜な夜なは、下宿の室(へや)に独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 単調の
つまし心の連弾よ……

汽車の笛聞こえもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思ひなき、おもひを思ふわが胸は
閉ざされて、醺(かび)生(は)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐へもする
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……


以上の引用は:无型 −文学とその朗読
http://mukei-r.net/poem-chuuya/yagi-42.htm
より。



この項ここまで。
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金王八幡宮の場所は当時から不変だとすると、「加藤医院」のあった場所は、現在は、「すごい煮干ラーメン凪渋谷東口店」か「医学部予備校アイメディカ」のどちらかだ。東大医学部医学科卒の医者を2名も輩出した、超名門「加藤医院」だけに、縁起を担いだお金持ちが、その土地を購入、「医学部予備校アイメディカ」を開校したと見た。個人的には、これを書いているうちに「すごい煮干ラーメン凪渋谷東口店」に行って、どんな味のラーメンか是非とも食べたくなってしまったが、我らのスーパースター、加藤周一に、ラーメン屋は似合わない。


加藤医院2
大正14年 出典:渋谷区立図書館 『渋谷町商工地図』大正14年地図
https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/?page_id=377

金王町の家2017
2017年8月 出典:Google map


この項ここまで
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「氷川神社」は、おそらく、「御嶽神社」の覚え間違いだろう(常盤松小学校のすぐ右手に氷川神社がある)。加藤周一が一中に入学したのは、1931年(昭和6年)のことで、この地図の制作当時より約6年後。ほとんど変化はないはずだ。とすれば、下記の「羊の歌」の記述から、32 24 25 と書かれた斜線部の区画だろうか・・・。


美竹町の家2
「私が中学校へ入った頃、一家は宮益坂をのぼって坂の右側から左側へ引越しをした。(中略)土地は、祖父の屋敷よりも一段と高い崖の上にあり、反対側は氷川神社の垣に接していて、もと私用の庭球場になっていた」(「羊の歌」92ページ)


地図をクリックすると拡大して見ることができます。

出典は渋谷区立図書館 『渋谷町商工地図』大正14年地図
https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/?page_id=377



この項ここまで。
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金王八幡
「また学校の近くには、八幡神社があった。(中略)私は学校の行き帰りにその境内を通り抜けたけれども、その(同じ小学校の遊び)仲間に加わったことはない」(「羊の歌」62ページ)


地図をクリックすると拡大して見ることができます。

出典は渋谷区立図書館 『渋谷町商工地図』大正14年地図
https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/?page_id=377



この項ここまで
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常盤松小周辺
「國學院大學は、(自分が通っていた常盤松)小学校からかなり離れていたが・・・」(「羊の歌」61ページ)


地図をクリックすると拡大して見ることができます。

出典は渋谷区立図書館 『渋谷町商工地図』大正14年地図
https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/?page_id=377



この項ここまで
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増田熊六
「美竹」の名前の由来になった、御嶽神社の下。ブルーに塗られている家。「増田熊六」という文字が読み取れます。ここから渋谷駅に下って至るまで、宮益坂の左手の商店は、全部、増田祖父の地所であり、莫大な賃貸収入を得ていた。凄い。
※地図をクリックすると拡大して見ることができます。

「(宮増坂の祖父の地所を借りている)長屋の人びとと私たちの間には関係がなかったのではなく、祖父の差配が毎月家賃をとりたてて廻るたびに、直接の関係があったのである。ただ、私は、その関係の内容を詳しく知らなかったし、その意味するところを知らなかったにすぎない。深い関係があって、しかも全く関係のない人々の存在は、私の解釈することのできないものであり、総じて明るく澄んだ私の空にのこされた大きな暗点であったといえるだろう。祖父の家へ行く度に、長屋の人々をなるべく見ないようにする習性を、私はいつのまにか身につけていた」(「羊の歌」14ページ)

「なぜ、ブルジョア階級出身の、金持ちの子弟が、マルクス主義や左翼思想に傾倒するのか」、について、かつてこんな文章を読んだ記憶がある。

「ブルジョア階級の子弟は、金持ちに生まれたことに、かならずといっていほど『罪悪感』を持つ。この『罪悪感』が、彼らを、マルクス主義や、左翼思想へと導く最大の契機になっている」

中産階級の平凡な家に生まれたぼくには、この「罪悪感」は、頭で理解できても、実感が伴うことは皆無だった。浅田彰のように「ぼくはブルジョアの家庭に生まれたことに『罪悪感』を持ったことはない」と、開き直ってしまえば、面白い独自性のある「自己展開」ができると思うのだけど、この「罪悪感」こそ、日本の近・現代史において東大ブルジョア家庭の自虐的思想が燎原の火のごとく拡がった最大の理由といえるだろう。それは「良心」とは、また、異なった感情である。

地図の出典は渋谷区立図書館 『渋谷町商工地図』大正14年地図
https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/?page_id=377



この項ここまで。
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番外 大正一四年の渋谷の地図に「加藤医院」を発見! 加藤周一が当時住んでいた金王町の家は、ここで間違いなし!

番外 大正一四年の渋谷の地図に「加藤医院」を発見! 加藤周一が当時住んでいた金王町の家は、ここで間違いなし!

「長井邸」の左手の交差点の一角に「加藤医院」の文字がクリアーに読み取れる。地図の下に、切れているが、渋谷駅がある。左上には、増田祖父が邸宅を構えていた宮益坂の一部が見える。


加藤医院2
「桜横町を通り、八幡の境内を抜けると、その頃の私は金王町の家のすぐ近くまで長井邸の金網に沿って歩いた」(「羊の歌」65ページ)

「実践女学校は(小学校の)隣りにあって、二階の廊下の窓から、雨天体操場のなかで女学生たちが長刀の練習をしているのがよくみえた」(「羊の歌」61ページ)→この地図の一番右端に「実践女学校」の文字が読み取れます。


地図をクリックすると拡大して見ることができます。

出典は渋谷区立図書館 『渋谷町商工地図』大正14年地図
https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/?page_id=377
※大正14年=加藤周一は6歳



この項ここまで
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12-4  加藤周一神話を解体する 小林秀雄が存命中、加藤周一が小林秀雄にだけは「恭しい態度」をとった「謎」を解く その2

12-4  加藤周一神話を解体する 小林秀雄が存命中、加藤周一が小林秀雄にだけは「恭しい態度」をとった「謎」を解く 

小林秀雄2
出典:京都案内人のブログ
https://ameblo.jp/2633ganko-jiji/image-12156788671-13635607123.html


この項では、海老坂武が「加藤周一」(92ページ)で自己と読者に投げかけた謎、


「小林秀雄が存命中、加藤周一が小林秀雄にだけは『恭しい態度』をとった理由」


を、まずは、多くの識者の卓見の引用を母体に、考えてみたいと思います。とはいえ、このテーマは、加藤周一の人生の謎解きをするうえで、スリリングで興味の尽きない屈指のディープなテーマ。つまり、ぼくのような浅学非才には超難問。識者のご教示をいただければ幸いです。


⭐️


加藤周一が、「私にとっての20世紀」(岩波書店)で小林を批判的に書いているのが目に留まった。なるほどと思われたところを抜粋してみる。

「本居宣長」は(小林の)最後の大作だけれども、あそこで逃げていることが二つある。一つは、宣長の大学者としての面と、極端なナショナリストでデマに近いことを口走っていることの矛盾を採りあげて説明しようとしていないこと。もう一つはお墓です。宣長が遺言してつくらせた墓は、一つは仏教寺院に、もう一つは神道式の墓がある。あれだけ神道を称揚し、仏教、儒教を排していた宣長が、なぜ仏教のお寺に祀られて、同時に神道の墓を別につくっているのか。小林さんはそれを両墓制を用いて説明している。しかし、それは間違っている。両墓制というのは、沖縄などにある古代神道の墓で、二段になっているもの。しばらく死者が留まるところと永久に行くところの二つの墓がある。両墓制というのは神道の中での二つの墓のシステムである。だから両墓制で説明することは全々意味をなさない。

(中略)小林さんの主観主義の結論の一つは一流主義です。例えば、宣長は一流の歴史家だという。小林さんはマルクス主義が嫌いだったから、マルクス主義の歴史家が書いたものについては「あんなものは歴史ではない」となる。では、新井白石はどうなのか、あるいは、「神皇正統記」の北畠親房、「愚管抄」の慈円はどうなのかとなると、みんな歴史家です。人からもらった議論をあてはめて、利口そうなことを書くような疑似歴史家とは全然違うと、小林さんはいう。それはそうだ。だけど白石と宣長とどこがどう違うかということは、小林さんの言説からは出てこない。
出典:世の中おもしろい・凡人の記録 小林秀雄のこと
http://rakuseijin.exblog.jp/16314936/


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小林秀雄は、自己周辺のマルクス主義者たちを、理論と人間との結びつきという一点において、攻撃した。その結びつきは、浅い。理論は借りものであり、次々に外国から輸入される流行であって、要するに「様々なる意匠」(一九二九)の一つにすぎない。この考え方は、小林自身が渦中にあった両大戦間の日本の文化的状況を、――少なくともその一面において、深く洞察していた。果して多くのマルクス主義者は、軍国主義の時代が来ると軍国主義に同調し、敗戦後には平和主義者になったのである。しかし小林は、単に周囲の大勢順応主義を批判したのではなく、生活と思想との密接な結びつきを強調しながら、また独特の美学を作りあげた。
出典:日本文学史序説(下)
引用サイトは、https://okwave.jp/qa/q3815004.html


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従軍した経験をもちなおかつそれについて記し多くの読者の心を打った小林に対して、柄谷行 人が戦争中に「徴兵で行かされた連中の立場に立とう」としたことをいったんは評価している。

「大東亜共栄圏なんてイデオロギーを信じていなくても、彼は、戦争に引っ張られていく人間を肯定したわけですよ。彼は、彼らに対して、さかしげな批判はけっしてしなかった。ぼくは、そのことはいいと思う」と。「しかし」と柄谷は続けている。「それひとつの「型」であり、むしろ、 宗教的な構図のように見えてきた」と漏らしている。
出典:小林秀雄におけるメディア理解について (特集 折り重な るメディア)(Kobayashi Hideo's Concept ion of Media and Medium)Aut hor(s)北野圭介 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81006987.pdf


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(大江健三郎さんが)井上ひさしさん、加藤周一さん等の思いでをからめて面白い話をされた。仏文科の学生の仲間で天才について、小林秀雄の天才が話題になったおり、(大江)氏が加藤周一さんの才こそ相応しいといわれたそうだ。仲間は、お前は田舎の山猿かと怪訝な顔をされたとのこと。いかにも大江さんの人となりを教えていた。
九条の会発足10周年講演会 2014年6月10日 渋谷公会堂
http://joyous-g.co.jp/1-0-1a9jyou.html


⭐️ここから下は追加したもの


「小林がもしも単なる『機会主義者』でなかったとするなら、軍国主義の『静かな支持者』であった日本の大衆の心情と論理を明らかにするためにも、(加藤周一は)小林批判をもっと展開してもよかったはずだ。しかしそれはなされなかった。その理由は明らかではないが、文壇における彼の『権威』を怖れたからとは思いたくない。小林とは『人間』の座談会で顔を合わせ、『群像』では対談までしている顔見知りだったからか。しかも彼は小林の本について少なくとも一度は好意的な書評を書いている。加藤のこの『恭しい態度』と見えるものは私にとっては謎である。(後に小林の『本居宣長』について厳しいコメントをしているが(『私にとっての二〇世紀』)それは小林の死後のことである。)

小林秀雄と加藤周一の微妙な関係について、書籍やネット上の識者の見解を読んでみることにします。小林秀雄と加藤周一の関係については、海老坂武以外にも、「不思議」「奇妙」という感触を持っている人が多いようです。加藤周一の論評の背後には、名前こそ出していないけれど、「小林秀雄の影」がつきまとっていた、といってもいいでしょう。

※なお、以下、覚えのメモとして引用させて頂いた部分もありますので、長文の引用が多いですが、後日、簡潔にまとめますので、御容赦ください。


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横光利一のばあいと並んで、小林秀雄の戦時と戦後に思いをめぐらさないわけにはいきません。「小林秀雄問題」ともいうべき戦時のくぐり抜け方を(戦後において)どのように解したらよいかは大きな問題です。加藤も、小林秀雄の言動をじっとみていたはずです。しかし、加藤は、この時期(1950年代冒頭)には、小林秀雄については沈黙を保っています。
出典:「加藤周一を記憶する」成田隆一 85ページ


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加藤は軍隊に取られなかった。戦中からフランス文学に傾倒した。戦後つぎつぎにフランス文学論を発表する。また海老坂は、戦後の小林秀雄を囲んでの「近代文学」同人の座談会での小林秀雄の有名な発言「僕は無知だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」を引いて、加藤は小林に無関心ではあり得なかったはずだと書く。

早い時期の加藤の作品である「金槐集に就いて」は、まさしく小林の「実朝」にたいする返答として読むことができる。後に1959年の「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの「精神」」を「同時代ライブラリー」に収めたとき、その「追記」で加藤は、この文章が小林秀雄を意識したものであることを明らかにしているが、戦後のこの時期に加藤の書いた多くの文章にも、小林の存在は影を落としている。
出典引用:海老坂武『加藤周一』が秀逸 - mmpoloの日記 
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20130429/1367218435 


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小さなこの本(海老坂武『加藤周一』)を要約することにほとんど意義はないので、この中で疑問とされていることを3点挙げて、それについて僕の推測を書いて置くことにする。丸で囲んだ数字が僕(=野田浩夫氏)の意見である。

1:加藤さんは小林秀雄の生前になぜ明確に彼の戦争協力批判を展開しなかったのか。小林に似た立場に居たドイツのゴットフリート・ベンの批判でお茶を濁したのはなぜか。92ページ

①加藤さんの尊敬する渡辺一夫と小林秀雄はわずか一歳違いの兄弟弟子で、批判しにくい大先輩だった。その姿勢は大江健三郎氏にも共通する。これは文壇の権威だから遠慮するということとは無関係な、仲間うちにのみ通じる儒教的美徳である。

②小林秀雄の戦争協力は消極的で批判するに及ばないものだった。唯物論研究会の戸坂潤を支援するなどという行動も小林にはあった。

③小林秀雄は、娯楽的な文章運びの伝染性が強いだけで、思想的にはほとんど影響力のない人物だったので、批判の必要がなかった。坂口安吾も批判していたように「美しい『花』がある。『花』の美しさというものはない」などという愚かな文章を積み重ねていただけの人物だからである。

(中略)

けっきょく、謎の謎解きは、加藤さんが、先輩や友人の情に左右される人だということである。それは、それ以外のことで示される合理性と対照的で面白い。
出典:静かな日 医療構造改革に抗して 野田浩夫
http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2013/04/post-370f.html


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注目したいのは小林秀雄について語った次の一節だ。

「かくして小林はマルクス主義の客観的歴史主義に対し、主観的で超歴史的な『心』の内的経験を対立させた。彼のそういう立場は、モーツァルトについて、美しく正確に語ることを可能にしたと同時に、日本の中国侵略戦争について、冷静に客観的に語ることを不可能にした」

また次のような一節もある。

「小林秀雄の文章は、おそらく芸術的創造の機微に触れて正確に語ることのできた最初の日本語の散文である。その意味で批評を文学作品にしたのは、小林である。しかしそれほどの画期的な事業は、代償なしには行われない。代償とは、人間の内面性に超越するところの外在的世界——自然的および社会的な世界——の秩序を認識するために、有効で精密な方法の断念である」

こうした小林秀雄の徹底した非歴史主義、一種の非合理性の指摘は、マルクス主義文学者たちの姿と対比的に書かれている。

「『ファシズム』が上から迫ってきたときに、彼ら(武者小路実篤や斎藤茂吉)はいわば無防備であったといえよう。宮本(百合子)や中野(重治)には、マルクス主義があり、日本共同体の境界を超越する知的道具があった」

ところが、戦争中の小林秀雄について『日本文学史序説』は明確な批判をしていない。「小林秀雄は戦時中に戦争批判の言葉を書かなかった」、それだけでなく「『戦ひは勝たねばならぬ』(「戦争について」、一九三七)。その戦いが水辺に楊柳のある村の子供に対するものであってもということになる」と指摘しているだけだ。

さらに、「しかし小林は軍国主義の思想動員にも決して便乗しなかった」として、戦争中、小林が日本の古典文学について優れた文章を書いていたことを紹介する。

小林秀雄の戦争協力について、この両論併記的な書き方には煮え切らないものを感じる。というのは、加藤周一は、小林秀雄の戦争協力への批判をずっと抱いていたことを後に書いているからだ。

それは『現代ヨーロッパの精神』の同時代ライブラリー版(岩波書店、一九九二年)の追記である。そこで加藤は、一九五七年に書いた文章「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの『精神』」について、この文章で「同時に考えていたのは、小林秀雄の場合である」と初めて明らかにした。

「ベンも小林も機会主義者ではなかった。彼らの芸術至上主義は、なぜナチの、あるいは日本軍国主義の、国家との『アイデンティティ』へ彼らを導いたのか。そこに働いていた内的論理は、どういうものであったか。それが私の『問題意識』であり、読者もまたベンに小林を、ドイツに日本を、重ねて読んでいただければ、幸である」と。

小林秀雄が亡くなったのは一九八三年だから、『日本文学史序説』のこの章を発表した一九八○年にまだ小林は存命だった。小林秀雄が亡くなるまでは名指しの批判を控えていたということだろうか。海老坂武『加藤周一』(岩波新書)も、この点について次のように疑問を呈している。

「小林の戦争中の言動からして、加藤は当然小林にたいして多大な批判を持っていたはずだ。(中略)小林批判をもっと展開しても良かったはずだ。しかしそれはなされなかった。その理由はあきらかではないが、文壇における彼の『権威』を怖れたからとは思いたくない。(中略)加藤のこの『恭しい態度』と見えるものは私にとって謎である」

私にもこれ以上のことはわからない。もしかしたら、川端康成について、直接の好印象と読者としての愛着も語っていたように、小林秀雄にも個人的な好感を持っていて、名指しで批判したくない気持ちがあったのかもしれない。

しかし、本当にそうだろうか。加藤周一は自身の文学論のすべてをつぎ込んだ『日本文学史序説』で、見かけとは逆に、小林秀雄についても書くべきことはすべて書いたのではないか。私はここまで書いてきて、そう思えてきた。

先に引用した両論併記のなかに、小林秀雄の戦争中の態度は簡潔に書かれている。機会主義者ではなかったが、戦争を批判しないことで戦争に協力したという加藤周一の見解は十分書かれているのだ。小林秀雄のそういう態度の「内的論理」が、「主観的で超歴史的な『心』の内的経験」を「客観的歴史主義」に対立させ、絶対化した点にあることも解き明かした。つまり、一九九二年の「追記」で書かれた加藤周一の「問題意識」に、『日本文学史序説』は十分答えを出している。

それを「戦争協力者」と呼ぶか呼ばないかは大きな問題ではないと加藤は考えたのではないか。あるいは、「戦争協力者」と呼ぶことで一種の思考停止に陥ることを危倶したのではないだろうか。『著作集』に「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの『精神』」を収録した際の「追記」(一九七九年)で、次のような疑問を呈していることも、私の考えを裏付けてくれるように思う。

「その頃、五○年代の末から、私は東京で読む『ファシズム』と戦争協力者の批判に、しだいに懐疑的になっていた。批判が敵か味方か、黒か白かの立場に終始しているうちに、かつて『ファシズム』を支え、戦争協力を可能にした考え方の隠れた中心部が、そのまま生きのびて、静かにその影響の範囲を拡大してゆくことが、あり得るだろう」
出典:北村隆志 加藤周一私記 より
http://bungeikan.jp/domestic/detail/1009/


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小林秀雄は、先の戦争の「戦争責任」に関して、「僕は無知だから反省などしない。利巧な者は大いに反省すればよい」と言っている。この開き直りの真意は何なのか。小林の作品を読んでいるとは言えない、したがって世間で文芸批評の大家と言われている小林という人間を理解しているわけではないが、そういう大家と言われる小林の発言であるので引っかかるところがあった。

別稿でとりあげた加藤周一の「私にとっての20世紀」(岩波書店)にそのヒントが書かれている。以下引用:

「歴史は個人がどういう体験をしようと、それを超えて進展するのです。そういう理解は小林さんにはない。だから、戦争のときにどっちでもいいということになってしまう。日中戦争が中国侵略戦争であるかないかということに彼は興味がない。興味があるのは、例えば自分を捨てて国に尽くすとか、その勇気とか決断力です。決断してどこに行くか、決断がいったい何を社会に、歴史に及ぼすかということにはあまり関心がない。決断そのものを評価する。それは、一種の美学だと思うけれど、小林さんの限界です。
(中略)
戦争と言うものを与えられた条件として受け取る。その意味では天災と同じです。そこで個人がどう対処するか、ことに私がどう対処するかという問題になる。しかし、戦争は天災ではありません。それは、ある歴史的な過程なのであって、日本の社会全体が戦争をつくり出しているわけですから、日本政府の行動に対して日本国民としての責任がある」

要するに小林は、「文芸バカ」、すなわち文芸批評家としては秀でているが、思想的にはプアーであるということなのだろうか。文学は思想と無縁であるはずはないのだが。
出典:小林秀雄のこと(2)
http://rakuseijin.exblog.jp/16350554/


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小林秀雄は別の意味で「知の巨人」であるが、私はどうも小林が好きになれない。私の稚拙な分析でははっきりとなぜ嫌いなのかを説明できないのだが、どこかなにか信用できないところがあるのだ。

加藤周一は小林秀雄の弱点を指摘しているし、彼や武者小路実篤を戦争を賛美した人間ととらえているのだが、うん、こんなところが私の鼻にも匂うのだろうか。
出典:ハッチのライブラリーⅡ
http://kitanomori-hacci.seesaa.net/article/262175654.html


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加藤(周一)の本で一番最後に読んだのは、「私にとっての二〇世紀—付 最後のメッセージ」だったと思う。冷戦後の世界や日本の情勢や問題点について、自分の経験によりながら所感を述べているのだが、どれも常識的な意見で、とりたてて感心した記憶がない。

日本人は戦後どれだけ変わったのかということに疑問を呈した後、「言葉・ナショナリズム」の章で、小林秀雄の「本居宣長」を厳しく批判していたことが、強く印象に残っている。小林への言いがかりのような、あまり内容のない議論だったが、加藤が、戦後間もない頃に「天皇制を論ず」を発表してから、全く考え方を変えていないのは、ある意味で立派だと思った。
出典:バイオリンクの片隅から 加藤周一(1)
http://nojieast.exblog.jp/tags/加藤周一


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彼(小林秀雄)は、戦争に対してはっきりした態度をとっていない。むしろ、肯定的な発言をしていた。ただ、あれだけの人ですから、もちろん「聖戦」ということばに浮かされたり、軍国主義の片棒を担いで、他の文学者を攻撃して官憲の手先になった軽薄な連中とはちがう。つまり、彼の肯定的発言は、日本が戦争ムードだから、それに便乗した大勢順応じゃなくて、彼の思考システムから内発的に出てこざるをえなかったものでしょう。

ただ、私は、知識人というからには、どういう形であれ、戦争を支持するのは欠陥だと思う。戦争の悲劇は大きいから、どういう理屈をつけようと、肯定的な態度をとることは誤りであるという考え方です。したがって、小林秀雄のとった態度は誤りだと思うわけですが、小林の場合は、ゴットフリート・ベンと同じように、細かく内在的に理解したいと思った。そこには彼の思想的根拠があるからです。どういう考え方や、立場に立つとああいう戦争の見方になるのか、それを充分に理解したいと思った。

もちろん、ベンはドイツ人で、小林とはちがうけれども、ベンのナチ支持は、芸術的体験からきています。芸術を絶対化して歴史を拒否する。そして、その芸術と人種(アーリア民族)がつながってくる。小林の場合も、芸術的・美的体験が深くて、歴史的時間を超えようとする。非歴史的な、美的体験に関心が強いわけです。

たとえば、戦争で相手が強くてかなわないとわかっていても、そこから逃げないで、きっぱりと引き受ける。そのすぱっと引き受ける精神に、一種の美しさがあるという考え方です。それは、チャンバラでも同じで、真剣を抜いて闘うときに、その切っ先に迷いがなくて、相手を斬る決断力に富んでいる行動を美しいとするのです。

小林のその考えがいちばん典型的に出ているのが、オリンピックの見方ですね。彼には有名な「オリムピア」(40年)というエッセイがあって、それは、レニ・リーフェンシュタール Leni Riefenstahl の映画『民族の祭典』(1938)とか『美の祭典』(1938)をみた感想です。この映画の題材はベルリン・オリンピックで、記録映画といわれているけれども、実際は、実写とこしらえた映像をまぜたもので、ヒトラーはチラッとしか出てこないけれども、ドイツ民族を賛美して、ナチに協力した映画です。けれども、小林にとっては、その映像が、ナチに協力したものかどうかという政治的意味は関係ない。美しければよかった。
出典:オリンピックと戦争(『「戦争と知識人」を読む—戦後日本思想の原点』加藤周一・凡人会)
http://billyjoel1771.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html


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小林秀雄は、自己周辺のマルクス主義者たちを、理論と人間との結びつきという一点において、攻撃した。その結びつきは、浅い。理論は借りものであり、次々に外国から輸入される流行であって、要するに「様々なる意匠」(一九二九)の一つにすぎない。この考え方は、小林自身が渦中にあった両大戦間の日本の文化的状況を、——少なくともその一面において、深く洞察していた。果して多くのマルクス主義者は、軍国主義の時代が来ると軍国主義に同調し、敗戦後には平和主義者になったのである。しかし小林は、単に周囲の大勢順応主義を批判したのではなく、生活と思想との密接な結びつきを強調しながら、また独特の美学を作りあげた。
出典:「日本文学史序説(下)」493ページ


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小林秀雄はひどいやつだね。

大家意識丸出しで加藤周一を格下扱いしているのが、なんとも。「〜〜はどうですか」と話を振るのはきまって加藤周一のほう。 それを小林秀雄ときたらこう返す。「僕はそれを読んだことがないからちょっと説明してくれないかな」 懇切丁寧に説明する加藤周一。それを聞き終わって小林秀雄「それは違うと思うな」。理由は言わない。こんな対話が何回も繰り返されるんだから。笑いがとまらなかった。
出典:分け入つても分け入つても本の山 「加藤周一対話集 第4巻 ことばと芸術」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-321.html

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この項のテーマ、謎解きをしていくにあたって、興味が尽きないスリリングな面白さがあるので、まだまだ掘り下げる予定。

★12-3はここに纏めたため、欠番。
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8-3   加藤周一と「離人症(解離性障害)」

8-3    加藤周一と「離人症(解離性障害)」

Kafkaドローイング
カフカ 発病直前のドローイング

「正続羊の歌」「『羊の歌』余聞」その他、加藤周一の書かれた文章を何度も丹念に読み込んでいくと「同じような不思議な記述」があちこちに散在しているのが次第に見えてくる。

「すると、突然、なんの動機も、格別の理由もなく、私にとって、そういうことのすべてが全く無意味だという妙に鮮やかな、否定することのできない考えが、浮かんだ。部屋のなかの人々、その興奮、その言葉、その大騒ぎは、急に無限の距離の彼方に退き、私とは少しも関係ないものになった」(「羊の歌」28ページ)

ここで加藤周一は、「(いつものキザな)傍観者」を気取っているのではない。そうではなくて、こうしたことが、制御不可能で、内発的、解離的、病理学的に彼の身に定期的に起きる現象なのだ、ということが、(少なくとも読者の側には)だんだんと分かってくる。

ぼくは専門家ではないけれど、こうした症状は「離人症(解離性障害)」と呼ばれているものと、ぴたりと一致するのではないか。誰にも、ある程度、こうしたことは起きうるとは思うけれど、加藤周一の場合、それが頻繁で、しかもディープに起きているのがわかる。


では、離人症(解離性障害)とはどんな症状なのだろうか。以下、素人のぼくにもにも分かり易かったサイトを、要約して引用する。


1.時間と空間の変容
解離性の離人症の大きな特徴は、時間感覚と空間感覚が歪むことです。解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、感覚の歪みの例としては、以下のようなものがあります。
◇時間感覚の歪み
■いったい今がいつなのかわからない
■過去と現在が重なっている感じ
◇空間感覚の歪み
■実際に起きていることなのか夢で見たことなのかわからない
■生きている感じがしない
■自分の体に実感がない
■宙に浮いているような感覚がある
■ものが遠のいていったり映画のセットみたいに見えたりする
■自分や他人が操り人形のように感じられる
■人や物が大きくなったり小さくなったりする(不思議の国のアリス症候群)

2.私の二重化
二番目の点は、自分が二重化して感じられることです。

3.離隔
三番目は、世界が遠のく「離隔」です。自分が置かれた状況をドラマや他人事のように見ている。ただ見ているだけというか、映画を見ている感じがする。

4.過敏
四番目は、世界が近くなる「過敏」です。離人症は現実感がなくなる「離隔」を伴うので、「過敏」になるというのはあたかも逆のように思えます。しかし、解離性の離人症は、まず強い過敏状態があり、そこから逃れるために意識を解離させて離人症状が生じるため、一方の私が世界から遠のく「離隔」を感じ、もう一方の私は、かえって世界に異常接近する「過敏」状態になる「私の二重化」が生じてしまうのです。

5.リアルな夢
五番目の点は、日常生活で現実感がなくなっているのとは対象的に、夢の中ではリアルすぎる世界を体験することです。

6.同化
六番目の点は、世界が遠のくのとは対照的に、他人や物に対して引き寄せられ、同化してしまうことです。

7.拡散
七番目の点は、生きている実感がなくなって、溶け出して拡散しているように感じられることです。

長文引用御容赦。以上、出典:いつも空が見えるから
https://susumu-akashi.com/2015/09/depersonalization/



「そして高熱の度に、いつも悪夢に悩まされた・・その恐怖は、大きな車輪のようなものに圧しつぶされようとするときの恐怖と全く同じものだった」(「羊の歌」39ページ〜40ページ)

「私の世界からは、無限の愛情の中心が消えてなくなり、世界はもはやわたしにとってどうなってもよいものにすぎなくなった。毎日見慣れたどぶ川のほとりの景色は、真昼の白い光のなかで急に色を失い、どこか見知らぬ土地の私とは何の関係もない町の景色のように見えた。私の内部には過去があり、それこそは現実であって、外部には夢があるにすぎなかった」(「続羊の歌」46ページ)

「そうしてある秋の日の午後、ある禅寺の庭で、不思議なことが私におこった。・・・」(「続羊の歌」 41ページ)

「私は放心状態で彼女に別れ、二度と会うまいと考えた。もはや相手のことを考えつづける気力もなかった。それは完全に自己中心的な状態である。しかしそういう状態が成立すると同時に、私はそういう自分自身を第三者のように眺めていた。この「自己」とは何だろうか。一人の女から去って、別のもう一人の女へ向う人間の内容は何であろうか。その二人の女との関係を除けば、私のなかには何も残らず、ただ空虚だけが拡がっているように思われた」(「続羊の歌」 191ページ)

「ひとりの友人※が死ぬ。すると私には、周囲の人々が彼の死について何を考えているのか解らなくなった」(「続羊の歌」224ページ)※原田義人

「死の観念は、私を圧倒していた。私は惨めな無力感に捉われ、周囲のもの事に興味を失い、ただ機械的に、人通りの少ない本郷通りを歩いていた」(「続羊の歌」252ページ)

「すると突然、大きく拡がった森の木々の先端を、夕陽が刷くように赤く染め出した・・・私は同時に別れてきたばかりの友人の顔を、あたかも彼女が眼の前にいるかのように鮮やかに思い浮かべた。その瞬間に私は彼女のそばにいた。・・・二度とくり返されない、かけ換えのない瞬間の体験」(『羊の歌余聞』51ページ〜52ページ)

「その空間で、私は過去もなく、未来もなく、自己完結的な現在を経験したことがある。・・・私の知るかぎりの世界の全体はさらに限りなく遠く、その瞬間の、その空間のなかで、私はほとんど永遠の世界を生きていた」(『羊の歌余聞』52ページ)

いま、30分ほど、ざっと手元の本から拾っただけでこれ。丹念に全著作を読見込んでいくと、まだまだ沢山、こうした描写に読者は出会うことになる。その頻繁さからいって、(貶める意図は全くないが)「離人症」「解離性障害」といってさしつかえないのではないか。

加藤周一の人格のコアにそれがあり、そこから彼のあらゆる著述が生まれてくる「豊かな真空地帯」。その謎に迫ってみたい。



追記 2017年8月21日
ついでにいえば、二番目の妻のヒルダ夫人が「周一はわたしを空気のように扱う」と嘆き悲しんでいたのも、ここに原因があるのかもしれない。


追記 2017年8月31日
アマゾンの「羊の歌」のレビューを読んでいたら、加藤周一の「離人症」的部分に、鋭く嗅覚を向けて気づいておられる方の投稿があった。ハイライトの一文のセレクションにも脱帽。

「海の向こうで戦争が始まる」投稿者しゅてんだる2009年6月15日

「単純にテキストとしての完成度や面白みにおいて、この『羊の歌』が卓抜した一冊であることは疑いを容れない。

『私はそもそものはじめから、生きていたのではなく、眺めていたのだ』

この一言こそが本書のハイライト。

極めて滑らかに綴られる文章に漂う気品の裏側で、本テキスト全体を貫き続ける世界と隔絶されたこの感覚」

出典:アマゾンの「羊の歌」レビューより



この項未了。
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12-8  加藤周一「神話」を解体する  嘘つき加トちゃんぺっ!

12-8  加藤周一「神話」を解体する  嘘つき加トちゃんぺっ!

江藤淳遺書
自裁の手法はルキウス・アンナエウス・セネカ流であり、その遺書も格式ある名文だった。


2006年4月20日の朝日の夕刊に掲載された「夕陽妄語」で加藤周一がカタカナ語の多用について苦言を呈している。その一部を以下引用する。

「ゴールデンウイークプラン 夕朝食バイキング」はわかるが、「サンバレーにフォレスト・ヴィラ アクア・ヴィーナスにアネックスツイン」は何のことか私には見当がつかない。これは最近日刊新聞の広告らんに見たものである。すなわちカタカナ語は、実際に日本で義務教育を受けた人間の間のコミュニケーションにビッグなオブスタクル(カタカナ語の名詞には英語とちがって普通複数がない)をつくりだす。日本語で喋ったり、書いたりすれば、誰にも即座にわかる話を、わざわざカタカナ語を多用してわかりにくくするのはなぜだろうか」

いかにも加藤周一らしい文章で、これはこれでいいのだけど、昔、江藤淳が「加藤周一氏」と題して書いたエッセイ★を読んだときには、「加トちゃんの嘘つき!」と思わず叫びたくなってしまった。

時は1959年、加藤周一四十歳、江藤淳は弱冠二七歳。内容は、加藤周一と江藤淳が渋谷の東急ビル7階のグリルで対談したときの会話がネタになっている。加藤周一にとっては、故郷、ホームグラウンドともいえる場所での対談なのだが、それはさておき、以下の加藤周一の「文学センス自慢」は、あまりに青臭くて鼻につく。歳の離れた江藤に、気を許してしまったのだろうか。

以下の文章で、パーレンの中は、原文では、ルビ、になっている。まず間違いないと思うけれど、これは加藤周一が英語で喋った部分を、江藤淳が日本語におきかえ、ルビに加藤が実際に使った言葉を記していると思う(もしこの推測が間違っていたら、いまはあちらにいる、両先生に深くお詫びいたします)

「フォースターっていう作家はいいですね。ぼくにフォースターを教えてくれたのはノーマンだけれど、彼のあのスタイルはとても日本語に訳そうたって訳せない。実に繊細な、実に微妙(サトル)なものでね。あれを道具につかって小説論をやろうとしたってできやしない。そんなさもしい根性で読む本じゃないからね。でもこれはぼくの趣味(ホビイ)で、たまたま話の合う人としゃべってりゃいいことです。英国人ならフォースターやストレイチイの好きな人はざらにいる。米国人にもかなりいる。ところが残念ながら日本であの作家が好きなひとはごく稀ですね。まったく残念ながらね。しかしぼくは英国人の、あの shy なところがきらいじゃありませんね」

ノーマンもフォースターもストレイチイも全員ゲイだった、という、どうでもいいトリビアはさておき、加藤周一は、上記の会話で、「スタイル」「サトル」「ホビイ」「シャイ」と、4つも英単語を使っている。江藤のフォローがなければ、全部、カタカナ語となり、これを「多用」といわずして何というのか、と思う。スタイルは「文体」でいいと思うし、「シャイ」は「恥ずかしがりや」でいいのではないか?

江藤の「加藤周一氏」は、加藤周一への皮肉や嫌味を「ヨイショ」のオブラートで上手く包んだ、江藤淳ならではのもので、そのレトリックには脱帽する。しかもまだ二七歳、若書きで駆け出しの頃なのに。むろん、加藤周一にはとても真似の出来ない芸当だけど、こういう味わい深い文章が書ける人が、いまはもう絶滅してしまった。


★初出:「日本読書新聞」1959年2月16日 「日附のある文章」(筑摩書房)に収録。
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12-7  加藤周一「神話」を解体する くだらぬ提言はくだらぬ意見を誘発する 加藤周一に  吉本隆明 その2

12-7  加藤周一「神話」を解体する くだらぬ提言はくだらぬ意見を誘発する 加藤周一に  吉本隆明 その2



前にも書いたけれど、加藤周一が、ある詩の雑誌に寄稿した「現代詩への提言」について、意見を求められたときの吉本隆明の皮肉ぷりが実に面白い。

加藤周一の提言はこうはじまる。「外国の詩を読まぬこと、殊にそのほんやくをよまぬこと、なかでもT・S・エリオットをよまぬこと(以下略)」

に続く加藤周一の提言を「馬鹿馬鹿しい」と切り捨てる。そりゃ吉本の言うとおりでしょう。ほとんど何も考えていない戯れ言を書いているだけだから。しかし、世間は、あの加藤周一の「提言」ということで真面目に考えてしまう。ぼくは、この点については、吉本隆明に賛成。

……と思っていたら、以下のような文章にぶち当たった。クレジットはないけれど、鷲巣さんが書かれたものかもしれない。

加藤周一文庫
http://www.ritsumei.ac.jp/library/collection/katoshuichi/biog.html/
「思うに憲法第九条はまもらなければならぬ。そして人生の愉しみは、可能な限り愉しまなければならぬ……」(加藤周一『高原好日』)この姿勢こそが「加藤周一」である。

外国の詩を読まぬこと、エリオットの詩を読まぬこと、じゃないけれど、ひょっとしたら、「洒落て」言ったつもりも大いにあり得る加藤周一の「思うに……、ならぬ……」との下らぬ戯言を「これぞ加藤周一の素晴らしいところ」と持ち上げる。まことにもって、「くだらぬ提言はくだらぬ意見を誘発する」が再現された、加藤周一と側近の、唐変木と頓珍漢ぶり。

「思うに湯船での雪見酒は慎まねばならぬ。そして湯上がりのビールは、思いっきり愉しまねばならぬ……」

なんて、いまぼくが10秒で考えた戯言だけど、本当に憲法九条のことを考え抜き、それを命がけで守ろうという「覚悟」のあるひとが、憲法九条をこんな風に対比させるかなぁ、という疑念すら湧いてくる(いや、加藤周一は真剣だったと思いますよ。それは間違いない。すみません)。

ともあれ、加藤周一は、生涯をかけて発表してきた、その膨大な雑文・駄文より、そのいまだ明らかにされていない人生の方が、百倍も面白い。加藤周一が多大な影響を受けたヴァレリーだって、女性、愛人たちこそ、閉ざされた彼の人生の扉を放つ秘密の鍵でした。

就寝前、加藤周一の著した最高傑作と世評の高い「日本文学史序説」を手にとって読みはじめると、数分で睡魔が襲ってくるぼくなんぞは、異端なのでしょうか? 

力作、大作であることは間違いない。しかし、「蠟を噛むごとし」あるいは「砂を噛むような」というのがこれほど当てはまる本も珍しいのでは、と個人的には思っています。



この項ここまで。
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12-3 加藤周一「神話」を解体する 「この辺てどの辺?」

12-3 加藤周一「神話」を解体する 「この辺てどの辺?」


出典:http://www.ndl.go.jp/math/s1/question3.html

と言っても、まずは、そんなに大したことじゃないエピソードから読み解きます。

ぼくにも若年性のアルツハイマーが出てきているので、出典本を思い出せないのだけれど、新聞社か出版社の企画で、加藤周一と某インテリ知識人氏が対談しておったそうな。加藤周一は、いつものように、話に熱中して終了予定時間をはるかにオーバー。しびれを切らした、仕切り役の朝日だか岩波だかの編集担当者が、「では、今日はこの辺で」というと、加藤周一が「この辺て、どの辺?」と不愉快そうに物申したそうな。

みなさん、このエピソードを聞いて、どう思われます? 普通は「加藤周一は話し出したら止まらないタイプだから、もっともっと話したいのに、無礼で配慮に欠ける(と加藤周一には感じられた)編集者に、加藤周一流の「嫌味」でチクリと反撃したと考えるのが、まあ妥当でしょう?

しかし、このエピソードを紹介した人物は「加藤周一がいかに(科学的、論理的な)厳密性を重視していたか」を証明することの証話、として「この辺て、どの辺?」という加藤周一の言葉に感嘆していたのです。

まさか! 身の程知らずの(と加藤周一には感じられた)編集者を、嫌味たっぷりに叱りつけただけでしょ。「加藤周一神話」という言葉が流布しているけれど、いまのぼくが浅田彰の言動を常に善意の視点から解釈・深読みするのと同様、「加藤周一教」カルト信者としての初歩的な誤読でしょう。



この項ここまで。
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7-10 誰が矢島翠を殺したの? それはわたし、と加藤周一が言った

7-10 誰が矢島翠を殺したの? それはわたし、と加藤周一が言った

誰が矢島翠を殺したの? それはわたし、と加藤周一が言った。そして、天上の釣り人たちですら ため息をつき すすり泣きをして 鐘が鳴るのを聞いたのです 可哀想な矢島翠のために。

矢島翠の「ヴェネツィア暮し」(平凡社)のイントロは、次のようなプレリュードによって躊躇いがちに奏でられはじめたかと思うと、たちまちにして読者を中世の幻想的な世界へと誘いこむ。

「ヴェネツィアは、天上の釣り人に釣りあげられて、アドリア海の奥の生簀に、そっと入れられた魚に似ている。(中略)都市国家ヴェネツィアの威光がアドリア海のみならず、地中海一帯にかがやきわたっていた中世には、きっとこの魚は、夜な夜な狭い囲いからぬけ出して、外海もさながら自分の池のように泳ぎまわっていたに違いない」


ヴェネツィア 出典:グーグルマップ

それなりの読書家を誇負するひとなら誰でも、この筆頭を読んだだけで、矢島翠の文才や知性は、夫・加藤周一以上のものだった、と即座に判断ができるでしょう。

この名著に寄せた須賀敦子の「解説」のなかの一文はこうです。

「そしてなによりも、この本には、彼女(矢島翠)が愛し、彼女を愛する人たちへの思いが、貴い香のように行間に焚きこめられていて、それが読者に安らぎとなぐさめをもたらしてくれる」

これまた唸るような名文です。

鷲巣さんは加藤周一の文章について「誰もが美しいという」と書かれているけれど、そして、「羊の歌」を何度も読み返していた高校生だった頃のぼくもそう思っていたけれども、1万冊、2万冊、3万冊・・・と古今東西の作家や詩人、評論家、哲学者の本を乱読したあとでは、向井敏のいうように、

「ほめられた当人があっけにとられるような筋違いの讃辞をつらねる人がいるものだが、その道の大家といえば、まず加藤周一の名をあげなくてはなるまい。いったいこの人は、反体制、反権力でありさえすればやみくもに持ちあげるという偏った性癖の持主で、そのうえ、どこをどう押せばあんなにも無味乾燥な文章が出てくるのか、何か不思議な作文技術を身につけていて、とてもまともにつきあえたものではない。」

上記引用は、古本屋の覚え書き http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20010507/p1 より。原典は『真夜中の喝采』(講談社)

反体制、反権力の部分はさてもおき、「どこをどう押せばあんなにも無味乾燥な文章が出てくるのか、何か不思議な作文技術を身につけていて・・・」

は、いま現在のぼくには全く同感なのです。「不思議な作文技術」というのはむろん皮肉で「文才がない」ということでしょう。

何度も書きますが、「知識の量と幅」はともかく、こと文章に関しては、鷲巣さんのほうが加藤周一なんぞより、よほど文才があります。矢島翠に至っては、嚆矢部分のような、読む者を陶酔させるような箇所が「ヴェネツィア暮し」のあちらこちらに燦然と散りばめられています。この本に出てくる「伴侶」とは、むろん加藤周一のことですが、矢島翠さんには、加藤周一なんぞとは、とっとと別れ、もっともっとたくさん本を書いて欲しかった。

加藤周一の文章がつまらないのは、読者を蠱惑させるような、たとえば、オパールのように、虹色にきらめくような遊色効果が皆無なことが一つ、スリリングな思考の飛躍が皆無なこと、その他無数にあげられるでしょう。何度も繰り返して恐縮だけど、ひとことで言えば「絶望的なまでに文才がない」ということに尽きると思います。

戦後の「名文家」としては、やはり三島由紀夫がずば抜けていて、次に、「よし、俺の名文を見せてやる」と気迫のこもったときの開高健、詩人としては、初期の西脇順三郎、同じく初期の谷川俊太郎が傑出していると思います。あとは清岡卓行の数編。

もちろん、三島にも駄文は多い。しかし、多作だった、紛れようもない天才音楽家のバッハですら、「名曲」といえるのは、たかだか30曲くらいではないでしょうか。しかし、バッハの多数の駄作は、1000年は受け継がれるだろう名曲を創出するのが、稀代の天才ですら、いかに困難であるかを教えてくれているわけです。しかし、同時に、ミレニアム単位で継承されるであろう彼の、その数少ない名曲こそが、バッハを曠世の才たらしめているのです。

「現存の物書き」では、思想的には加藤周一と対極にある、保守派の評論家、西部邁が上手いと思います。たとえば、「清浄な魂ー田中美知太郎論」を見てみましょう。


「京都そして軽井沢で、田中先生はいわば静かな情熱というものの由来と行方を示され、私は、もし可能ならば、そうした精神の系譜に立つことによって、自分の保守思想になにほどかの光沢を与えてみたいと思わないわけにはいかなかった。(中略) この吸引と反撥とが錯綜するところに、田中先生のオデッセウスがはじまる。少年オデッセウスは新人会や北風会のあたりを彷徨した。哲学者オデッセウスはプラトンとベルグソンのあいだを、そして古代ギリシャと現代日本のあいだを往復した。つまり、御自身のことを『複眼的』あるいは『ながら族』とよばれているように、田中先生は書斎の専門家にとどまることなく、風のように時空を泳いだといえる。そういえば、日記によると、田中先生が真剣に思索しておられるとき、外に風雨が激しいということが多いようである。論文執筆は『彫刻でもしているような気分』でなされていたのだが、そんな折にでも、田中先生の想念は風に舞っていたのではないか。田中先生の前に坐すとき、私のうけるのはいうまでもなく『不動のイメージ』であるが、眼を凝らすと、それは『風のイメージ』によって包まれている」


これぞ「名文」と、といまのぼくは思います。上手い。

「そういえば、日記によると、田中先生が真剣に思索しておられるとき、外に風雨が激しいということが多いようである」

これは、「駒場の意地悪ウサギ」こと、西部邁一流のホラかもしれません。ホラかもしれないけれど、こういう対蹠が、文章を名文たらしめる、欠くことのできない要素なのですが、加藤周一の全著作を読んでも、こんな見事なメタフォールはどこにもありません。

ぼくが完全にノックダウンさせられたビジュアルメタファーをもう一つ。清岡卓行です。



音楽会で

地球の裏がわから来た

老指揮者の振るバッハに

幼い子はうとうとした

風に揺らぐ花のように。



父は腕を添え木にした。

そして夢の中のように

甘い死の願いを聞いた

鳩と藻のパッサカリアに。



幼い子が眼ざめるとき

この世はどんなに騒めき

神秘になつかしく浮かぶ?


ああそんな記憶の庭が

父にも遠くで煙るが

フーガは明日の犀を呼ぶ。


引用は、清岡卓行公式サイト http://www.k5.dion.ne.jp/~kiyooka/citation.html 原典は、「四季のスイッチ」


パッサカリアにおいては、低音が一定の旋律を繰り返し、その上で高音の旋律が変化していくのですが、清岡卓行は、たぶん、低音部を鳩の鳴き声に、高音部を水中でゆらぐ藻に喩えているのでしょう。こんな共感覚を呼び覚ますようなビジュアルイメージの喚起なぞ、並みの詩人や物書きには、100年考え続けたって、絶対に出てきません。清岡卓行だって、後世に残るの詩は、せいぜい数編だと思いますが、この一作だけで、彼を天才詩人と呼ぶことができるでしょう。

また、詩人の西脇順三郎について、ある評論家(名前は失念)が、「西脇順三郎がどれほどまでに曠世の才の持ち主なのか。『Ambarvalia』(1933年)の一作を出した直後に夭折していても、日本文学史上に永遠に名前を残したであろうというくらいに天才だ」と評価していていましたが、全く同感です。

西脇の最高傑作は(ぼくの好みですが)初期の「眼」です。




白い波が頭へとびかゝつてくる七月に
南方の奇麗な町をすぎる。
静かな庭が旅人のために眠つてゐる。
薔薇に砂に水
薔薇に霞む心
石に刻まれた髪
石に刻まれた音
石に刻まれた眼は永遠に開く。



加藤周一の文章を三島由紀夫や開高健と、加藤周一の詩を、西脇順三郎や谷川俊太郎、清岡卓行などと比べるのは、いくらなんでも可哀想、とも思いますが、鷲巣さんが、自著で、「加藤周一の文章は誰もが美しいという」とか「名文家」などと、そこをしきりに強調されるので、「鷲巣さん、それ、本気で言ってます?」ということで、以上、駄文を書き連ねさせていただきました。


この項続く。
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加藤周一17
加藤周一
出典:加藤周一/その青春と 戦争 NHK・ETV特集 2016-08-14


もちろん!

並の女優などはるかに凌ぐ、明眸皓歯で艶やかな母と、仲代達也にも似た彫りの深いマスクの父、その両者のDNAを受け継いだ「知的な三船敏郎」ともいうべき、彼の伝説的な知的イケ面ぶり。あたかもユングのいう「老賢人」のアーキタイプのような、中年以降の彼のマスク。

加藤周一と対談した吉永小百合が「その美しい横顔をいつまでも見つめていたい」と感嘆していたほどの色男ぶり。

一部の女性を(裏では)奴隷のようにも扱っていた加藤周一なのに、対談に呼ばれると、顔を赤らめつつ大喜びで駆けつけた、上野千鶴子東大教授。美は理を凌ぐ。

吉本隆明が、「加藤周一は、二枚目でモテモテだから、書くものがダメになるのだ」と語っていたのは当たらずとも遠からずであること。

加藤周一の人生を貫いているのは、鷲巣さん言うところの「二枚腰の思想と行動」などではなく「二枚目の思想と行動」なのだ。

吉田秀和が「加藤周一がこどものころから今日に至るまで、ずっと一貫して美しく凛々しい容貌の人間だったということを確認できるのは、ひどくうれしい。なんと美しい心と姿の人であるか。彼の写真はそれを文章から読みとるための手がかりとなるだろう」と言えたのは、吉本と違って、吉田秀和も、晩年に至るまで、加藤周一に匹敵する稀代の美男子だったからだ。

丸山真男が「加藤くんはハンサムだからなぁ」と、頭脳や知性では絶対に負けないが、ルックスでは加藤周一には到底敵わないという劣等感をあからさまに公言・自覚していたこと。丸山の文章は今日でも冴え渡り圧倒的だ。書いた文章によって、その人の知的レベルはおおよそわかるものだが、大学の入試問題(国語)で、加藤周一が一位を保ち続けたのは、そこらの田舎の高校生には、程よい程度のものだったからだ。

一定以上の煌びやかな文才(例えば三島由紀夫や開高健や矢島翠のような)とは、詰まるところ、努力によってもたらされるのではなく、生まれながらの資質による。ちょうど、加藤周一の美しい容姿が、生まれた瞬間、遡っては、受精の瞬間に、天から賦与されたものだったように。

で、加藤周一は自分が「人並み外れたハンサム」であると自覚していたのか。もちろん、していたこと。「鉄の鎧」に覆われた加藤周一のそのナルシシズムが、透徹視すれば、彼の文章の随所に見て取れること。

「羊の歌」で「私はそれまで(東大附属病院所属の医師となる頃まで)若い女が私に好意を持つはずがないと確信していた。またその確信を支えるに、容貌風姿が見栄えせず、態度がいかにも無愛想で、みずから婦人の注意をひくに足りる何らの長所がないというにがにがしい反省もしていた」と書く加藤周一の、表裏反覆したシューペリオリティ・コンプレックス。

女性に対して、おそらく「無愛想」ではあったでしょう、しかし「容貌風姿が見栄えしない」と本当に思っていたわけがない。周りの女性がほっておかない幼児期からの美貌の持ち主なんだから。このような「いやらしさ」こそ加藤周一の「持ち味」だ。今は亡きフランスの詩人は「ダンディとは常に鏡の前で生きること」といったけど、これぞ、ザ・加藤周一そのものでしょう。

加藤周一が、人生後半のほとんどを、海外と追分で過ごしていた、その理由。追分は加藤家の別荘があるけれど、大学で教えるのに、なぜ国内の大学ではなく、海外の大学を意図的に選び、それも多くが「客員教授」のポジションだったのか。加藤周一じしんが述べてますけど、国内にいると、鬱陶しい人間関係や学内行政に巻き込まれるのがイヤだった、というのが最大の理由でしょう。でも、森有正みたいになりたくはないので、ちょこちょこ帰国して、国内での「影響力」も保っておく、ということでしょう。

あと、国内では目立ちすぎるから、っていうのも5%くらいはあるでしょう。加藤周一の美貌と、ぶっ飛んだそのモノホンの狂人にも似たファッションセンス。なにしろ、加藤周一からは、独特のオーラが放たれていた、というひともたくさんいる、神がかり的美貌なんですから。

加藤周一じしん、「海外にいくと、自分はただの、ムッシュカトー」となり、気楽になれる」、と言っています。逆にいうと、国内では人間関係の渦に巻き込まれ、不愉快なことに遭遇しやすい、ということになります。

加藤周一は、自分を「平均的な日本人」といつも呼称していたが、それについて、佐高信が「自分が平均的日本人とは余りにも加藤周一は鈍感」と批判するのは妥当じゃありません。東大生の母が息子の大学名を聞かれて「お恥ずかしいんですけど東大です」と答えるようなものなこと。浅田彰のように「自分は知的ブルジョア階級出自のインテリ左翼」と堂々と公言しなかっただけのこと。

評論家の佐高信は、いろんな媒体で、「目黒のサンマ」的な加藤周一を貶しています。

でもね、佐高さん、それは、古くからの京都人から「佐高さん、是非遊びにおいでなさい」と言われ、佐高氏が本当にその家を訪問するようなものなんです。

自叙伝「羊の歌」は、天下の秀才でスーパーエリートでブルジョアで比類なき美男子で、晩年まで若い女性にモテモテだった加藤周一が、この種のイヤラシイ謙譲を、意識的・無意識的に、いろんなところでしまくっているのをツッコミながら読むのが正解なのであり、「ヨーロッパの上流階級でわたしの名前はよく知られています・・・」だったかで始まる、故ミナコ・サイトウの本を林真理子が大喜びして読破したのと同じノリで味わいたいもの。

ブルジョアの自覚、自身のルックスのあまりの美しさ、父の学歴、自身の学歴が、「平均的な日本人」どころではないとわかっているからこその、倒錯した物言いです。ブルジョア家庭出自の東大卒のエリートには、よくある話ですよ、佐高さん。東大は、今も昔も、慶應とは違うんです。

かつて渋谷の宮益坂の道脇の土地が皆、祖父の所有する地所であり、宮益坂の途中あたりにあった、使用人を多数抱える祖父の「大豪邸」が身近にし、自身も渋谷の「大邸宅」で育った大金持ちのお坊っちゃまくんであったが為、唐変木で組織に合わない(なぜならプライドがあまりに高すぎるから)ことを自覚していた加藤は、東大に残り、媚び諂いが欠かせない学内政治に吐き気がするタイプだったし、海外でも、縛りの少ない「客員教授」であることが多かった。

平凡社の百科事典の編集長・監修者を受ける際、書き手と自分の意見が違う原稿の場合、最終的に「ボツ」にする権限を持つのは編集長・監修者としては当然のことなのに、あえてそうする権利があることの「明文化」にしつこく拘り、その確約を取りつけるのが、引き受けるさいの唯一の条件だったという「倒錯した権力者」の裏顔。

権力者なんてクソくらえという人物は、たいていは「自分が一番偉い」と常に考えている「裏返しマインド」の典型的人物であったこと。

さらにツッコミますが、鷲巣さんや海老坂さんが言うように「羊の歌」は本当に名文なのでしょうか。「加藤周一の文章は天下一品」と言われると、齟齬する感覚がぼくにはあります。ぼくは、加藤周一文体の強い影響を受けてはいるけれど、洗練さや構成力、ネタの取捨選択など、全てにおいて、鷲巣さんや海老坂さんの方が加藤周一よりよほど文才があると思います。そして矢島翠さんは、それらの人たちとは比較できないほどの卓越した文才の持ち主であった。

鷲巣さんや海老坂さんはいくらなんでも当てはまらないだろうけれど、「羊の歌」は名文、加藤周一は名文家、っていう人は、読書量が少ないのでは? という気がします。古今東西の本を数万冊も乱読すれば、「加藤周一は名文家」だなんて、到底思えなくなります。ぼく自身がそうでした。

加藤周一の文章って、荒っぽくいえば、すべてが、1+2=2+1、のバリーエーションのレトリックなんです。レトリックは、読者に、なにがしか、「やられた!」と思わせるものが必要なのに、そういう「魔術師のトリック」が文中のどこにもない。ひたすら語句を並べるだけ。

たとえば、「薔薇、ノートルダム寺院、セーヌの流れ、雨に濡れた石畳の道を歩く美しい女の横顔・・・・・・わたしはそれらに陶然とした」という、美しいと感じるものをひたすら並べていく文章、あるいは、「1でなければ2であるだろう、しかし、2でないものが、1であり得るだろうか?」と理屈ぽい文章、そのふたつくらいしか「持ち玉」しかない。

歌曲に喩えると、通常は、「イントロ、Aメロ、Bメロ、Cメロ、サビ、アウトロ」という構成ですが、加藤周一の文章は、「イントロ、Aメロ、Bメロ、Aメロ、Bメロ、アウトロ」という構成で、どこにも「サビ」がない。

サビがないのは文才がないということ。ひとことで言えば、「素人っぽい文章」というのが、いまのぼくが、加藤周一の散文から受ける感覚、印象です。

ただし、ルックスだけは、三島や開高の両者よりも加藤周一の方が断然上。付け加えれば、美男子の誉れが高かった(あるいは高い)、白州次郎、辻邦生、水上勉、柄谷行人、小川国夫、吉行淳之介、島田雅彦、五木寛之らよりも上。ラインはまるで違うけれど、晩年の漱石と互角の勝負、現代では、藤原帰一東大教授と互角。

以下は、ぼくがその著作の愛読者でもある、小谷野敦さんのアマゾン「続羊の歌」のレビュー。「美男子であり」とストレートに書かれているところが、小谷野敦さんらしくて好感が持てます。


「美男子で、しかし高潔な」投稿者小谷野敦 2008年8月12日

東京の裕福な家庭に生まれ、古典的な教養を幼い頃から身につけ、東大医学部卒の医師であり、美男子でありまた才能豊かな加藤周一の、成年以後の自伝である。そこには、表題からは意外なまでに、女性関係の話が出てくる。京都にいる女と恋をしていた加藤青年は、イタリアで出会ったオーストリア人女性と恋におち、遂には京都の女に別れを告げる。しかもこれを綴る文章は、時おり西洋語的なジョークの口調を混じえ、高尚な教養を滲ませ、気障ととられても仕方がないのに、全体が静かな響きをもって、厭味である、として本書を一蹴させることがない。それは今日に至るまで、国家的褒賞を一切受けない加藤の高潔な魂が本書に流露しているからであろう。
出典:アマゾンの「続羊の歌」レビューより 「美男子で、しかし高潔な」投稿者小谷野敦 2008年8月12日




藤原帰一東大教授。「やっぱ、東大教授ってイケメンじゃないとなれないのか・・・」とは、藤原帰一東大教授をテレビで見たある男子学生の感想。そんなまさか! 姜尚中元東大教授に失礼でしょ!

五木寛之
五木寛之


村上龍、じゃなくて、辻邦生 1925〜1999

高畠通敏
高畠通敏(たかばたけ みちとし)立教大学教授 駿河台大学教授 1933〜2004


夏目漱石


小泉信吉(小泉信三の父)

谷川徹三2
谷川徹三

吉田秀和2
吉田秀和 1913〜2012

柄谷行人2
中村雅俊、じゃなくって、柄谷行人


千葉雅也


佐野元春

白州次郎
白州次郎




この項続く。
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13−1 Kの生涯 そのあまりにも多い謎(さまざまな未解決の保留テーマはこの章に)

13−1 Kの生涯 そのあまりにも多い謎(さまざまな未解決の保留テーマはこの章に)

加藤周一の謎


この辺りまでの、僕が抱いた加藤周一の人生の「謎」を、以下、時系列等ランダムに、箇条書きしておきます。できるだけ、今後、地道に調べて行きたいと思っています。


なぜ加藤周一の母は、加藤周一の綾子さんとの結婚をプッシュしたのか? 綾子夫人は前夫の仏教学者(誰?)と別れた後、Kとは再婚で、子持ちだった。加藤周一にとって「良い条件の相手」とはいえないだろう。

綾子夫人の父が経営していた京都の医院とは。

加藤周一と別れたのちの、綾子夫人のその後。

綾子さんには、初婚の仏教学者との間に、子どもがあったが、加藤周一と綾子さんの間にも、男児を授かったという(巷の噂)は本当か?

もし、それが本当なら、その子供(65歳前後)は今どこで何をしてるのか。

加藤周一が使った「藤澤正」ペンネームの由来。

妹さんは加藤周一にプラトニックな恋愛感情を持っていただろうか。

なぜ加藤周一の死去後の版権継承者が、まず矢島翠夫人、矢島夫人亡き後は、矢島夫人の子供たち、となっていないのか。

加藤周一が妹夫婦との二世帯住宅を求めたのは何故?

二番目の妻、ヒルダ夫人と別れ、彼女が海外逃亡した後の、ヒルダ夫人の人生。

代議士から県知事になった伯父(母の姉の夫)とは誰か?

従兄弟たちのその後。外交官(母の姉の子供)、大学教授(母の妹の子供)とは誰?

加藤周一の一中時代に受けた凄まじい、いじめとそれに由来する乖離体験。

加藤周一は離人症だったのではないか?

母方の祖父の増田熊六の父(富豪)の名前は? 熊六の留学先は何故イタリアだったのか?

「羊の歌」「続 羊の歌」の初版内容と、その後、加藤周一が存命中、刷版を改める際、彼が訂正した箇所は、どこ? そして何故?

燃料会社の副社長(東大卒、祖母の兄)とは誰?

何故、国内の大学で、助教授、教授として、日本文学専攻のキャリアを求めなかったのか。加藤周一の人生は、まるで、「海外逃亡」に明け暮れたように見える。

熊谷の加藤家のルーツを探る。また、現在淡路町に固まって住む加藤本家の人たち。

何故、加藤周一の文章を「名文」「美しい」という人が後を立たないのか。

加藤周一の父は典型的なアスペルガーだったのではないか? 加藤周一もその影響を受けているのではないか。

ヲリ子の他界後、信一はどこで暮らしていたのか?

加藤一家の経済的推移。

加藤周一のお墓はどこにある?

加藤周一の性の目覚めはいつ、どこで、何に対して?

加藤周一の初体験の相手は?

加藤周一の母方の祖母は、「佐賀県県令の芸者腹の娘」であることに深いコンプレックスを抱いていたが、その血を受け継いでいる母、そして加藤周一には、そうした思いはあったか、なかったのたか。

加藤周一は妹に対して、「男女関係としてのインセストな恋愛感情」を全く隠さなかった。それは何ゆえに?

加藤周一は、文学の研究者、大学教授、知識人らに対して、清水真木の言う「俗物判定マシーン」だったが、なぜ、加藤周一はそうでありえたのか?

加藤周一は、世間で言われているほどの物知りで、また、本当にずば抜けて頭が良かったのか。

加藤周一はフランス語が流暢ではなく、読解能力もいまひとつだったのでは?

晩年、あからさまに公言していた「老人性の性欲の亢進」の処理は?

加藤周一は当時の秀才の証明でもあった飛び級を、小学高から府立一中に入学する際には、1度なしえているが、府立一中4年から一高にはいるさいと、東京帝国大学医学部にはいるさいに、それぞれ1回、計2回、「落第」している(二十歳の三月で一高卒、二十一歳の4月に東京帝国大学医学部に入学)このことが「天下の大秀才」を自認していた加藤周一に及ぼした影響は?

1951年の戦後第2回目のフランス政府留学生試験で、加藤周一は「半給費生」となったが、この時、一番で合格した「全額給費生」は誰だったのか?

矢島翠の死因(オフィシャルには「呼吸不全」)。

矢島翠の家系。

増田祖父は、なぜ、加藤周一の母(三人姉妹の真ん中)の言うことだけには、素直に従ったのか?

「羊の歌」で加藤周一が「フィクション」にした箇所はどこ?

加藤周一は自分が並外れた美男子であることを自覚していたか。

加藤周一と三井財閥の接点は?

父の患者の一人として出てくる大邸宅に住む男性は、三井財閥の親族ではないか。

加藤周一とデートした内房出身の看護婦の名前は?

加藤周一の若い頃のファッションセンスは、どちらかといえばダサイものだったが、50歳前後から、その彫りの深い芸術品のようなマスクによく似合った、お洒落なものになっていく。その背後には、矢島翠夫人のコーディネートがあったのではないか。

「加藤周一論」はなぜこんなにも少ないのか?



この項続く。
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12-2 K神話を解体する 丸山真男周辺や同時代インテリからの加藤周一批判

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讃美と同時に、批判されることも多いのが加藤周一という大知識人でした。毀誉褒貶の大物知識人。それらの批判を大きく分類すると、

1 左翼、憲法九条、反天皇制、ヨーロッパ(特にフランス)文化礼賛、ソ連や中国のシンパ・・・・といった主に「イデオロギー」に関するもの。

2 「世界史的知性」「大知識人」「知の巨匠」・・などと言われているが、意外にものを知らないし、頭もそれほどよくないし、外国語も実は下手くそ、といった「過大評価」への反発。

3 文章が上手いなんてとんでもない、素人の域を出ず、内容もつまらない、という「文才批判」。

4 ブルジョア育ちゆえ、庶民の下世話に通じていない世間しらず、「目黒のサンマ」的人物、といった「お殿様知識人批判」。ただ、世界的な大物知識人なんて、古今東西、出自は名門で、家は富豪、と相場は決まっていると個人的には思いますが。

5 その人柄の「冷酷さ」に関するもの。

6 最晩年の振る舞い(カソリックの洗礼など)に関する批判。

7 その他。

具体的には、


匿名氏
痴の虚人。知識が多いだけの馬鹿。

匿名氏
数学者で言えばヒルベルトを思わせる。負けん気の強さ。悪く言えば意地っ張り。

匿名氏
加藤の本質的仕事(役割)は60歳ぐらいで終わった。

匿名氏
加藤の絶頂期は明らかに50代だな。この時期に書かれた文章はどれも読みがいがある。

匿名氏
今日の妄語は「愛国心」。斜め読みしたが、相変わらず内容空っぽ。最悪のニヒリスト健在なり。まぁ愛国心もある意味ニヒリズムなんだろうけど。

匿名氏
「羊の歌」は、ギリシア語の悲劇 tragoidia(山羊の歌)を意識している。 加藤氏は、自分が未年に生まれたから云々と説明しているけど、もちろん韜晦ね。

反日腐れサヨクのボスだったね。久野収と同じく、出版社を支配していて、だれに記事を書かせて載せるかの権限を持っていたから、みんなは言うことを聞いたんだよ。今からふり返れば、社会主義礼賛の愚かな思想家だったね。死ぬまで、社会主義を信じていたのが加藤周一。
出典:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1181486071

匿名氏
加藤の過ちは、自分の専門分野でないことについて、あたかもその道について高い見識を持っているかのように自惚れ、 トンチンカンな言説を発表し続けたこと。

匿名氏
彼は政治や経済について専門的に学んだことがないくせに、高い見識を持っているかのように尊大に振る舞った。非常に大きな汚点だ。

匿名氏
晩年は頭ボケすぎてあわれだったな。

匿名氏
ぼけがはじまってたな。公開討論かなんかで,食欲と性欲が昂進して困るんだとかマイクが切れてると思って隣の司会者にはなしてたの思い出すよ 。

匿名氏
文芸評論家としては二流だと思う。近世古典語の解釈の間違いを,小西甚一(東京教育大教授,スタンフォード大教授)から指摘されて以後は,書けなくなっていた。

【山野博史】ふつう、国際的視野とかいうと、なにかバタ臭い、モダニズム調が胸くそわるく幅をきかせるでしょう。加藤周一の『日本文学史序説』みたいに。しかし、あの種の臭みは全然ないですね。
【谷沢永一】『日本文学史序説』はマーガリン。バタ臭さをねらっただけ。
【加地伸行】加藤さんは残念ながら漢文学がわかっていない。だから、ステレオタイプのことしか言えなかった。
【谷沢永一】加藤さんはつまらぬ理屈をつけるんです。川端康成の『雪国』がなんで名作なのかといえば、あれは恋愛進行中に書いた作品だからだ、と(笑)。その点、小西さんの視点ははっきりしている。つまり文藝というものは、偉大な個性が出てきたときに光るんだ、というわけです。俳諧が始まって百年たてば、自然に芭蕉が出てくるとうものじゃない、と。引用 また加藤周一 http://blog.goo.ne.jp/wadaura1542/e/dfeb59a4074b276a4e48fbe749b2ae85 より 大元は、「三酔人書国悠遊」(潮出版)

実は、かつてあれだけ憧憬の的であった加藤周一に対する僕の評価が少し下がったのは、数年前に「夕陽妄語」で、北朝鮮による拉致問題を取り上げて、「北朝鮮による拉致はかつて日本が行った朝鮮半島の支配や朝鮮人の強制連行に比べれば大した問題ではない」という趣旨の表現があったことがきっかけである。僕は、この文章を読んで、日本の朝鮮半島に対する支配に対する責任は確かにあるが、だからといって目の前にある拉致問題を軽視してよい理由にはならないと思った。

もちろん、当時はまだ拉致事件は疑惑の段階で、拉致が行われたという確実な証拠が明らかではなかったことも、この文章に影響しているかもしれない。しかし、それでも私は加藤周一のこの文章に、日本の戦争責任を過大視する歴史観と現存社会主義国の問題の軽視という戦後の革新的文化人の弱点を感じたのである。
引用元:http://www.e-takahashi.net/life/life029.html モンロー日記 羊の歌

「(加藤周一は)さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない」吉本隆明「三種の詩器」より


以下はネット上の加藤周一評価。鷲巣さんと丸山真男のコメント(加藤周一著作集についてのダベリ)1980年3月
出典:http://d.hatena.ne.jp/sheepsong55/20170118

鷲巣さんの加藤周一に関するコメント

・加藤への反応として加藤ファンと拒絶反応を示す人の2種類。

・後者の例:世阿弥の「花」概念を観客の反応にかかわる概念としてつかまえた。(岩波日本思想大系24)国文から反応ゼロ。

・日本文学史序説も専門家からの反応がない。

・「ある孤独感を感じる」

・読者からのスター的な反応

・医学論文までいれろ、英仏独まで全部入れろという要望。

・一種の知的ミーハーの人たちではないところで、あっちをかじり、こっちをかじりじゃないかという批判がある。とにかく何についても発言できて、国際的にも活躍できるような人に対する一種の憧れみたいものが学生の間にある。

・花田清輝が生前加藤について話をしたことがあって、一言で「半可通」といわれた。 

・どういうわけか、加藤さんというのは贅沢な暮らしをしていると思われているわけです。大方の人がそう思っている。

・平家物語は石母田正の平家をほとんど下敷き、成島柳北は前田愛、極論すればほとんどそれを超えていない。鴎外は石川淳と中野重治。そういう風に一つ一つそれぞれのところで専門家は見えちゃうという面があり、そういうところから大したこといっていないよ、というふうになってくる。しかし加藤の狙いはひとつひとつではなく全体である。

以下は、丸山真男氏のコメント(加藤周一著作集についてのコメント)

・加藤周一はいかなる問題でもある程度以上の実践的な問題にはコミットしないわけです。ぼくもそうだけれど、ぼく以上にそうだね。彼は。それはもう見事といっていいぐらいコミットしない(笑)そうすると日本的な道徳基準からいうと実にずるいヤツだということになるわけですよ。そういう日本的モラリズムからの評価が一つないだろうかという気もするんです。

・60年はじめに開高健から「丸山さん、加藤周一っていうのは芸術がわかると思いますか」っていわれてたまげた。杉浦民平、「未来」の同人、戦中派安田武の拒絶反応はわかるが。

・木下順二と議論になり、丸山が「ああいう人がいてもいいんじゃないか」といったら「それが加藤君についていいうる最大の評価だ」といっていた。

・加藤君に対する拒絶反応はそういう中野・桑原的な「広さ」に対する批判一般に解消できない何ものかがあるんじゃないかというのが次の問題。

・逆説の使用、これも津田さんにはない面。

・日本でいわれているのと全く逆の辛らつな評価を今は別れちゃったオーストリア人の加藤夫人から聞いたことがある。ウィーンのホテルで一晩ダベッたところ一晩中加藤批判だった。その時の加藤評価は日本でいわれているのと全く逆。彼女が言うには、加藤の役目は、ヨーロッパあるいはヨーロッパ的世界にいてヨーロッパ的世界の目で日本をみて、それを日本や日本人に伝えることにあるのだが、彼には非常なコンプレックスがあるということなんです。つまり、少し外国にいるとあいつはヨーロッパにイカれたんじゃないか、日本人でなくなったんじゃないかと思われそうだというコンプレックスがあって、しょっちゅう日本に帰ってくるが、それが彼にとってはマイナスであるという批判なんです。なんというくだらないコンプレックスであるか。加藤の使命はどこにあるのか。ヨーロッパ文化を内在的に捉えられる人は、日本ではまだ非常に少ないのに、それを自分の使命としないで、1年ぐらいヨーロッパにいるとしょっちゅう日本へ帰る。日本との接触、日本人との接触が失われることを、彼は極度に恐れている。そして日本にもいいところはあるとか、そんなあたりまえのことをいったり書いたりしているという(笑)。辛らつな批判ですね。(中略)もっとヨーロッパにのめり込め、10年帰らなくてもいいではないか、日本人の知友がいなくなってもいいではないか、もっと自分の使命がどこにあるかを考えろというわけです。

・ぼくは絵というのは全然ダメだから、彼と話すのは音楽ですが、彼はバッハから現代音楽まで、すべてわかるわけです。ぼくは逆で、現代音楽はバルトークぐらいまではわかるけれども、後は全然無縁です。また一般的に少しずつわかるようになるので、非常に遅いんです。オクテです。ブルックナーなんか面白くなったのはつい最近です。ベートーベンの弦楽四重奏なんていうのは学生時代には全然わからなかった。あんなのお経みたいもんだと思っていましたよ。

・加藤君は驚くべき感受性で全部わかっちゃうわけです。加藤君が好きなピアニストでミケルアンジェリという人がいます。ぼくも天才だとは思うけれども、どうしても受け入れられないような種類のピアニストですね。芸術家を分類するのは無茶だけれども、非常に知的な演奏をする。非常に変人らしい。確かに天才だとは思うけれども、とてもかなわない。ところが彼はすばらしいという。だからその辺は感受性の構造は違うなとおもうんですけれども、同時に芸術作品のあらゆるジャンルを全部受け入れられる精神というのは何だろうと思ってしまう。それがもう一つぼくにはわからない。驚くべき理解力ですね。文学史から何から全部そうです。強いて疑問といえばそこですね。究極的にいちばん芯のところには何があるだろうというのがわからない。しかし、驚くべき理解力であることは確かで、けっして嘘じゃない。本当に感受しているんです。

・みんな感受しているに違いないんだけれども、その感受するこっち側の鏡というのは非常に等質的で透明だという感じがするんです。いわゆるよくいうところの知的、分析的という意味ではないんですが・・・。

・ミケランジェリを受付ける精神なら後記ロマンティークのある要素はとてもかなわないということになる。どっちかじゃないかと思います。それが両方とも感受できるというのですから、その精神はなんだろうか(笑い)

・お二人(津田左右吉と加藤周一)とも専門分野からは完全に孤立し、無視されている。

・加藤著は通時的的かつ共時的である。

・津田さんが加藤君と似ているところは書誌学的趣味がゼロなんですよ。

・加藤君に僕が感心するところは、非常に簡潔であることと、フランス的志向のいい面で定義が明確であること、これは日本人には足りない面です。



この項、随時追加していきます。
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番外-20  加藤周一は「俗物」判定人

番外-20  加藤周一は「俗物」判定人


これが「教養だ」 加藤周一はホントに教養人? 清水真木 新潮新書

余談ですが、この筆者の清水真木(明治大学商学部教授 専攻はニーチェ)さんという方、母方の曾祖父は、江戸幕府の旗本であり、祖父は著名な学者だった清水幾太郎、清水幾多郎の長女で著名なスピノザ研究者(清水礼子)を母に持つ、という華麗な学者一族のサークルの内部で育ち、ハイカルチャーを浴びるようにして育った方です。その点では加藤周一にたいして劣等感は全くないでしょう。

以下、清水さんの「加藤周一と俗物」のパラグラフからの引用ですが、発刊は、加藤周一の没後の、2010年であることに留意してください。

:加藤周一という人は、やることなすこと、そのすべてが、なぜかとても高く評価されている人でございます。研究者、特に人文科学系の研究者のあいだには、「加藤周一の意見に賛成しないような人間はインテリではない」という鬱陶しい空気すらございます(108ページ)。

→ぼくはアカデミズムのサークル外にいる人間だけど、サークル内にいる清水真木さんのこの意見は妥当なのだろうか? 「大御所」としての、尊敬の念はともかく、特に晩年は、「九条の会」などを除き、人文科学的の学術的な世界からは 「相手にされていない」という印象を受けていたけれど。

:このような加藤の自伝的文章(「羊の歌」)などを読みまして、加藤が生まれ、育った家庭環境に対して憧れを持つようになる人、加藤の「追っかけ」のようになって情報を集めたり、自分でも真似してみたり、というような人が出てまいりました。誰とは申しませんけれども、大学の教師、特に文学の研究を専門にしている教師のなかには、重症の「加藤病」患者が多いような気がいたします。(110ページ)。

→ぼくなんぞ、まさしく、その「筆頭」なわけだけれど、重症の「加藤病」患者って、いまだに多いのだろうか?

:もちろん、反対に、加藤周一に対し過剰な拒絶反応を示す人々もおります。真似したくても真似できず、開き直ってしまうのかも存じません。いずれにしましても、加藤周一を前にしますと、複合感情って言うんですか、あるいはコンプレックスって言うんでしょうか、何やら屈折したものを背後に隠した人々が面白いポーズをとります(110ページ)

→加藤周一の重症の「追っかけ」のひとりであるぼくとしては、加藤周一を巡る清水さんのこのあたりの指摘も、実に興味ある内容なので、「面白いポーズ」の具体的事例を少しでもあげて欲しかった、と思っています。

:しかし、私は、こういう姿を見るにつけ、どうも「俗物」っていうのは、こうした人々、つまり、加藤周一の生まれ育ったような環境に憧れたり、過剰な拒絶反応を示したりするような人間のことを言うんじゃないかと思ってしまうのであります

引用ここまで。

いずれにせよ、上記の清水真木さんのご指摘、「日本のインテリは、加藤周一を前にすると、みな面白い反応を示す」というあたりは、わたくしのような俗物にとっても、「なぜなのかその理由を解明すべき主題」のひとつとしても扱われることになるでしょう。



この項ここまで。

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番外-19 佐高信さん、あなた、加藤周一にホモセクシュアルな感情を抱いてたでしょ?

番外-19 佐高信さん、あなた、加藤周一にホモセクシュアルな感情を抱いてたでしょ?


出典:https://edoflourishing.blogspot.jp/2013/05/meguro.html

ぼくは佐高信さんにお会いしたことはありません。テレビで何度か「今朝道端の犬の糞を踏みつけてしまって不愉快極まりない」といった表情のご尊顔を拝見したことがあるだけです。ぼくは、政治的に右だとか左だとか、そういうことにはあまり興味がないので、佐高さんの述べるご高説は、大変失礼ですが、聞き流しているに過ぎません。

ぼくが興味があるのは、佐高さんが、(活字化された自著や対談において)加藤周一の悪口をあちこちで喋っていたけれど、一体それはなぜ? ということです。

いわゆる「右翼陣営」から生前の加藤周一は激しく罵倒され、一時は、身に迫ったテロの危険もあったとも聞くけれど、それは、「九条」について、政治信条の違いからくるものでした。

しかし、佐高さんは、そういう人たちとはちょっと違った。出自も、学歴も、歩んできたキャリアも、その容貌も、女性のモテ度も、自分とは天と地ほどにも違う加藤周一がそんなにお嫌いなら、無視すればいいだけの話。

「加藤周一には下世話に通じているところがなく『目黒のさんま』的なところがある」って佐高さんは言うけれど、父方も母方も大地主の大金持ちで、豪邸と言って良い大きな屋敷に住み、邸宅内には使用人を多数抱え、江戸時代の大名家に連なる家系で、本邦に置いては知的上流階級に属する一族の出自であり、叔父も、父も東大医学部卒の医師、母も妹も雙葉卒、府立一中飛び級、一高、東京帝国大学医学部卒、医学博士、フランス国費留学生の輝かしい経歴を持ち、英独仏語に堪能で、晩年に至るまで、若くて美人のインテリ女性にモテモテだった加藤周一が、「庶民の下世話」なんぞに通じているわけがないじゃないですか。

その反対に、それこそが、加藤周一のカッコイイところなんじゃないですか! 佐高さん。

バイセクシュアルのぼくが察するに、佐高さんって、いわゆるぼく同様「バイ」で、同性の男の人も好きなんじゃないですか? ぼくは純度95%のバイゲイですが、佐高さんも、加藤周一に同性愛的感情を持っていると見た。

谷沢永一ならともかく、佐高さん曰く「彼(加藤周一)と私(佐高)は同じ陣営に属している」といいつつ、しばしば加藤周一に言及し、チクリチクリと小姑のように加藤周一を批判していたのは、彼の美貌の加藤に片恋慕していたからですよね。わかります。

でも、その批判がまるで的外れなんですよ。

佐高さんはあるところでこんなことを書かれています。

「それで改めて考えてみたいのだが、極端に言えば、加藤周一には偏見がないから好きになれない、ということになる。偏見などないほうがいいに決まっているではないか、と直ちに反論されるかもしれない。しかし、私は偏見にこだわりたい。いわゆる偏見を打ち砕くのも別の偏見だと思うし、第一、偏っていない見方などあるか、と開き直ることもできる。最近、二八年前に私がフリーになった時の「独立記念文集」に山田太一が書いてくれたものを再読して、なおさら、そう思った。山田は当時三七歳だった私を「偏見も適当にあって」、それがライターとしての味つけになるだろうといった意味の励ましをしている」
出典:http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=1267

いえ、佐高さん、加藤周一になかったもの、それは「偏見」なんぞではなく(誰が見たって、加藤周一なんて「偏見」の塊みたいな人ですよ)、サルトルレベルの「知性」と林達夫レベルの「文才」なのです。

同じ文中で佐高さんはこんなことも書かれています。

「江藤淳と対談した時、加藤周一が江藤に、神楽坂の料亭で遊びたいので紹介してくれ、と頼まれたと打ち明けられた。江藤は『野暮天が行くからよろしく』と電話し、後で女将から『やはり野暮天だったわ』と言われたという。あるいは江藤の脚色があるかもしれない。しかし、加藤と同じ陣営に属する私への冷やかしのネタにもなるようなことを、加藤はどうしてしてしまうのか」

あの〜〜〜、佐高さん、この加藤周一の「神楽坂料亭エピソード」が「佐高さんへの冷やかしのネタ」になるなんて、日本中の誰一人として、絶対に思いません。ひょっとして、「誇大妄想」とか「関係妄想」ていう病理現象なのでは?

神楽坂の料亭での遊びを知らなかった加藤周一が、その方面には詳しい江藤に、安心できる知り合いの店を聞き「高みの見物」を一度してきただけの話でしょ。若くて張りのあるデリヘル嬢とSEXを楽しんだ訳でも、13歳の女子中学生に猥褻行為をした訳でもない。

それなのに、「私へのひやかしのネタになる」なんて、加藤周一の近しい親族か、加藤周一と男同士のインティメイトな関係にある(とひとり妄想を膨らませている)人間じゃないと、到底出てこない奇抜な発想です。

佐高さん、思わぬところで、加藤周一への片恋慕がバレちゃいましたね。ま、忍れど色に出るのが「恋の道」ですから。

追記
それと、佐高さん、大変言いにくいけれど、加藤周一は、佐高さんより、江藤淳の方を「仲間」と思っていたでしょう。それは、江藤さんが当時の文壇に占める位置を、加藤周一は当然ながら熟知していたし、江藤の博識や頭のキレ味も天下一品だと感じたでしょう。さらには、日本史にその名を刻む海軍の少将、中将、学者、頭取等を輩出し、ルーツを遡れば、加藤周一と同じく、佐賀藩主鍋島家の家臣であるという、名門士族の出自であり、江藤が自分と同じブルジョア階級に属しているという、くつろげる安心感、そこからくる気心の通じた部分があったに違いないからです。人間、右とか左とかよりも、もうちょっと本能的なところで「仲間」というものは、取捨選択するものだと思います。また、加藤周一は、特にそうした傾向が強い人でもありました。



この項ここまで。
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9-5 第五の女 インセスト我がユートピア  加藤周一が自叙伝を「羊の歌」=tragoidia=悲劇 と名づけた謎の核心を解き明かす

9-5 第五の女 インセスト我がユートピア  加藤周一が自叙伝を「羊の歌」=tragoidia=悲劇 と名づけた謎の核心を解き明かす

アナイスニン
インセスト アナイス・ニンの愛の日記 彩流社

「複雑な彼」と友人から呼ばれていた加藤周一の「裏」の人生を解き明かす「鍵」となるであろう「インセスト、我がユートピア」のテーマについて、このような指摘を読んだのは初めてなので、恐縮ながら引用させていただきました。野田浩夫さん・・・共産党系のお医者さんのようですが、この指摘には気がつきませんでした。

以下引用は、
静かな日 http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2013/04/201-da72.html


「加藤が晩年カソリックに入信しルカという受洗名を与えられたことはよく知られているが、その意味がこの本で初めて明かされている。

それは「カソリックであった母や妹とともに死後の世界にいたい」という動機、主として妹への愛によるもので、カソリック的世界から苦闘の末から逃れ出てきた妻、矢島翠には耐えがたい行為だった。

鷲津さん自身も、加藤さんの実妹への愛に驚いたと書いている。

「読者を裏切るものだ」という矢島翠の激しい抗議も聞き入れられなかった。その結果、矢島翠は回復することのない深い喪失感を抱えたまま約1年後に死亡するのである。

加藤周一の晩年をきわめて陰影深くしているこの事件こそ、鷲津力さんが書きたかったことに違いない。

*今朝、僕はふと本棚のなかで目にとまった菅野昭正編「知の巨匠 加藤周一」岩波書店(2011.3.10刊)を取り出して読みなおしてみた。

驚いたことに、そこにある大江健三郎「いま『日本文学史序説』を再読する」のなかに、上記のことに響きあう部分を発見した。

表面的には「古事記」に残っている古い短歌の美しさを加藤さんが感嘆しているという話である。

それは近親相姦の罪に問われて、大江さんの故郷の松山に流されて心中する皇子と皇女の間に交わされた歌で、もはや歌垣などで集団的にうたわれるものでなく、きわめて個人的な情愛の詩である、という加藤さんの説を大江さんは紹介している。

これはおそらく木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の話だろう。

ここで大江さんが間違っているのは、二人を異母兄妹と説明したことである。そうならば罰せられることはない。二人は同じ母を持つ兄妹だったので流刑にあったということになっている。

僕が気にするのは、加藤さんが日本で初の美しい個人的な情愛の詩としてこの二人の短歌を紹介したときの彼の潜在的な意識ということである。」

再度、以上の出典は、http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2013/04/201-da72.html 静かな日 野田浩夫先生のブログから引用させていただきました。野田先生、素晴らしい着眼ゆえ、長文引用しましたが、どうかお許しあれ。


以下、参考までに、

カルノオホイラツメは、あまりの美しさに肌の色が衣を通して照り輝くほどだっため、衣通と呼ばれたという。カルノミコのほうも、見る者はつい見とれてしまうほど美しい容姿だという美男で、皇位が約束された身だった。この同父同母のふたりが、愛し合ってしまったのである。

出典:日本の「神話」と「古代史」がよくわかる本 PHP研究所日本博学クラブ 島崎晋


絶世の美女と美男子・・・この二人の兄妹は、しっかりと結びついたままで輪廻転生し、20世紀はじめの日本で、兄・加藤周一と妹・加藤久子さんとなって、見事に生まれ変わったのではないか。その愛の絆の強さには、ただただ驚くばかり。


「古事記」に収録されている二人の歌は下記。


あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下問ひに 我が問ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ

笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも

愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 亂れば亂れ さ寝しさ寝てば

大前 小前宿禰が 金門蔭 かく寄り来ね 雨立ち止めむ

宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ

天飛む 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く

天飛む 軽嬢子 したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども

天飛ぶ 鳥も使ひぞ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名問はさね

王を 島に放らば 船餘り い歸り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ

夏草の 阿比泥の浜の 蠣貝に 足踏ますな 明して通れ

君が往き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ

隱国の 泊瀬の山の 大峰には 幡張り立て さ小峰には 幡張り立て 大峰にし 仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 伏やる伏やりも 梓弓 立てり立てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ

隱国の 泊瀬の河の 上つ瀬に 齋杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 齋杙には 鏡を掛け 真杙には 真玉を掛け 真玉如す 吾が思ふ妹 鏡如す 吾が思ふ妻しのありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ

出典:「木梨の軽太子・軽大郎女悲恋歌謡 拾遺」 前田 圓
http://junmaeda.sakura.ne.jp/0803_Madoka_Karu-2.pdf


また、加藤周一は、日本文学史序説 上 の88ページで、あまりにも有名な歌、

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

を「万葉集」随一の歌としていますが、これもまた「禁断の愛」の歌なのであった。


さて、岩波新書の「羊の歌」には、見合いで初婚の綾子さんと別れるにあたって、「愛していると思っていた、あるいは、愛したいと思っていたにすぎないことを、はっきりと理解した」と、当時、連載されていた公の雑誌である「朝日ジャーナル」に加藤周一は書いています。

外国で知り合った金髪19歳女性の、金粉飛び散るピチピチ豊潤クチュクチュベロリの肉体に溺れて、綾子さんへの愛が醒めたのは仕方がない。加藤周一だってそこは、健康な、スペルマ飛び散る普通の男です。しかし、書き方ってものがあるでしょ、いくらなんでもこの言い方は酷すぎる。

また、内容よりも、加藤周一十八番の「対称性」レトリックを重視して(=キザでかっこよく見せるため)いる。加藤周一ファンは、この文章も「レトリカルで美しい」と思うのかしら。

これって、別れた綾子さん本人が目にすれば、十分、彼女を自死に追い込むことのできる「殺し文句」でしょう。

あるいは、加藤周一は、この文章が雑誌に掲載されるとき、綾子さんは、すでに他界されていると知っていたかもしれない(最初の妻の綾子さんについては、可能な限り、今後関係者に取材する予定ですが、現時点では、綾子さんの加藤周一と別れたその後の人生はぼくは不知)。

しかし、仮に他界されていたとしても、綾子さんの親兄弟親族は、必ず誰かが目にする。ぼくには、こどもはいないけれど、自分の娘が、別れたあと、こんな酷い文章を公の雑誌に発表した男がいたら、彼が世界のどこにいようと、モサドのごとく必ずや探し出して、チンポを剪定ばさみで切り落とし、土産の味噌漬けにする天誅を加えてやります。

やがて、綾子さんと離婚する原因となったヒルダさんへも、ヒルダさんと離婚する原因になった矢島翠さんへも「愛していると思っていた、あるいは、愛したいと思っていたにすぎないことを、はっきりと理解した」というクサイセリフと、ほぼ同様の仕打ちを、加藤周一は平気でする。そのくらいなら、最初から、


「ぼくは妹を誰よりも愛している。妹以上に素晴らしい女性はいない。もちろんぼくたちはプラトニックな関係だけれども、究極の愛、至高の愛、それは、わが妹への切ない想いや、情愛のなかにこそあることをぼくは知っている。つまり、あれほどまでに美しくキュートで聡明な妹への愛、しかし、決して成就されることのない、また、されてはならない愛、口づけが、肉体の交わりが、かくも厳しく制約された禁断の愛こそ、つまりは、インセストこそ、我がユートピア(=どこにもない場所あるいは悲劇)なのだ。無事成就された愛などそれに比べたら・・・」


と、知り合った女性にまず滔々と語り、相手を「どん引き」させ、独身を貫くべきでした。矢島さんとは籍は入れていないようですが、二人は、誰が見たって「内縁の妻」以上の間柄でした。

「しかし、それ(加藤周一との同居生活)は矢島翠※が、覚悟をもって主体的に決めたこと、他人があれこれいう問題ではない」と各方面から叱られるかもしれないけど、まさか、死の床にあって、「天国で母と妹と穏やかに暮らしたいから洗礼を受ける」なんて加藤周一が自分に告げるとは、さすがの、矢島翠さんでも思いもつかなかったでしょう。



追記
妹さんと結ばれず、結婚できないことは、加藤周一にとって「人生の悲劇」だったでしょう。

妹さんとの(精神的な)近親相姦的恋愛関係。妹さんは、加藤周一同様、母親譲りの、稀に見る、キュートでおちょぼな美少女であると同時に、非常に聡明な才女でもあり、庶民からすれば、そんな「高嶺の花」が実の妹であったことの影響。

加藤周一の母は並の女優などをはるかに凌ぐ、傾城の美女だったこと。

追分別荘での長く続いた一夏の滞在は、いつも、たいてい、彼と妹さんの二人だけだったこと。

八月末、軽井沢に別荘を持つ「東京ブルジョア階級」のほとんどが帰京した後も、二人とも学生の身分(妹さんは雙葉)だったため、都会人の誰もいなくなった九月の上旬まで、夏は10年の長きにわたって、二人きりで追分の別荘に滞在していたこと。

加藤周一じしん、妹さんとのプラトニックな恋愛関係を一挙に飛び越えて、現実の肉体的近親相姦に陥る危険性を自覚していたこと。その自覚と抑制が、加藤周一にもたらした内心の歓喜。いわば「インセスト、我がユートピア」のようなものだったこと。このテーマは徹底的に掘り下げます。なぜなら彼の人生の中核だから。

九月に、田舎の追分から、大都会東京に帰京すると、都会の猥雑さや、文化・芸術がよりディープに味わえるため、妹さんと二人で都内のあちこちを「デート」していたこと。

新築された上野毛の自宅は妹さん夫婦との二世帯住宅であったこと。

加藤周一が壮年期以降、世界中を旅し、滞在し、世界中の大学で教鞭をとれたのは、戻る場所があったからであり、それは、高級住宅地上野毛に、妹さん夫婦と二人の甥が住む、二世帯住宅があったからに他ならないこと。人間は、確実に戻れる場所があればこそ、遠くまで旅立つことが可能になる。

加藤周一の版権継承者は、京都の実子や養子、矢島翠さんの子どもではなく、妹さん夫婦に出来た子ども(甥)であること。

しかし、そのヒルダ夫人も、1971年前後、加藤周一が矢島翠さんと知り合った頃から「周一はわたしを空気のように扱う」と嘆き悲しんでいた。ここにも加藤周一の離人症の兆候が見て取れる。

まったくの余談ですが、「春画を集めなかった」という加藤周一の、一高の寮生活時代の「想像のズリネタ」はなんだったのか? まさか母や妹さんを思い浮かべながら、じゃないでしょうね。しかし、「凡そ加藤周一ほど複雑な個性はない」(窪田啓作)ですから、ひょっとしたら・・・。

※矢島翠
東京都出身。聖心女子学院小、中、高を経て(聖心では美智子皇后の2年先輩にあたる)、女子に門戸が開かれたばかりの東京大学文学部に入学し、英文学を専攻。1955年卒業。同年共同通信社に入社、外信部、日本女性では初めてのニューヨーク特派員など。単独著書として下記がある。
単著『女性特派員ノート』人文書院, 1978.6
単著『出会いの遠近法』潮出版社, 1979.7
単著『ヴェネツィア暮し』朝日新聞社, 1987.10、のち平凡社ライブラリー68、平凡社, 1994.8
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マザコン
出典:http://profesorbigotini.blogspot.jp/2014/04/platon-y-lo-platonico.html

ひとは成熟するためには、父や母から、精神的にも物質的にも自立しなければなりません。精神的に未熟なマザコン男の特徴に、「女性と付き合う前提条件は『母親の気に入ったひと』」という不文律がありますが、加藤周一の、京都の医家の令嬢、綾子元夫人との初婚は見合いであり、その見合いは、母・ヲリ子が積極的に推し進めたものでした。加藤周一は、愛する母の願いを叶えるために結婚したといってもいいでしょう。

※加藤周一が綾子夫人と離婚したのは1960年。母ヲリ子は、1949年にまだ若くして他界している。

「東大生と結婚するさいの一番のライバルは彼の母親」と巷間いわれていますが、まだ外界の荒波に揉まれていない、大学生くらいまでのマザコンボーイにとっては、母親との密着は、精神的な安定を保ちやすく、結果、持続する精神的安定と努力を必要とする勉学にも秀でる、といった人が多いようです。

かなり以前、東大合格者のインタビューを読んでいたら「ウチの母親はガミガミとウルサイんです。母が八千草薫のようなひとだったら、東大理Ⅲ(医学部医学科)にだって合格できたと思う」という声が掲載されていて、思わず仰け反ってしまいました。

加藤周一が、妹・久子さんに、プラトニックとはいえ、「男女としての迸るような恋愛感情」を持っていたことは間違いなく、いままで散々と述べ、また、検証してきました。

では、母親に対してはどうだったでしょうか。「『羊の歌』余聞」(ちくま文庫)の158ページにはこんな加藤周一の文章があります。

「私が小学生であったとき、母に抱かれて経験した『愛』は、一般的抽象的な概念を媒介して自覚されてはいなかったが、母から私への、私から母への、あたたかく、確かで、自発的な、あふれるような感情であった。それはあまりに深い内面的な心情で、それを外面化し、制度化し、公教育に結びつける可能性を、私は想像もしなかった」


また「羊の歌」の各所には、母を愛慕する文章があちこちに散在しています。

24ページ
「救いに来てくれた母は、『気味が悪かったのね』と優しくいった。その通りに違いなかったが、それは事の一面にすぎない。しかし私にとって百倍も貴重だったのは、母の説明の正確さではなく、その声の優しさであった」

41ページ
「母は子供の冷汗をぬぐいながら『また夢をみたのね、心配することはない、夢だから』といった。その優しい声が、恐怖の世界から、午前の静かな陽ざしのなかで何事もなくそこにある日常の世界への、私の移行を援けてくれた。(中略)私は甘やかされてはいなかったが、世間の風からばかりでなく、家庭のなかでのあらゆる問題から、また子供が自分自身についてもつ問題さえからも、注意深く隔てられていた。(中略)私は、育った、病弱で、しつけよく、人の愛情に敏感で、奇妙な正義感にあふれ、他人とのつき合い方を全く知らず、自尊心が強くて、おそらく可愛気のない子供として、私は出発しようとしていた」

55ページ
「しかし子供は子供の役を演じるほかはない。したがってばかばかしさは、自分自身にも向けられざるをえないだろう。それは自己嫌悪の一歩手前である。----ということを、理解していたのは、むろん当人ではなく、おそらく父でさえもなく、ただひとりの母親だけであった」

ほかにもあちこちに、亡き母を偲ぶ文章が出てきます、もううんざりするくらいに。普通は、40過ぎた男が「母さん、母さん、大好き、好き好き」などとベタベタ書くのは、躊躇いが生じると思うのですが、加藤周一が「筋金入りのマザコン」だったのは、そうした躊躇いが微塵たりとも感じられないことでもよくわかります。

今日写真に映る加藤周一の母、ヲリ子は、並みの女優を軽く凌ぐ絶世の艶人で雙葉卒、そんな母親のあふれるような愛を一身に注がれて成長した加藤周一に、「自分は世に言うマザコンだ。母親離れしないといけない」といった、大方の男が持つ自覚は、自身が死の床に横たわるその日まで、加藤周一にはこれっぽっちもなく、また、思いもしなかったことでしょう。

加藤周一のマザコンに関して、もう一つ、ぼくが気になっていることがあります。それは彼のファッションセンスの変容です。

写真で追う限り、50歳くらいまでの加藤周一は、イケメンの美男子ではあったものの、どちらかといえば「ダサイ」ファッションセンスでした。

しかし、50歳以降から、彼が身に纏い始めた衣服には、抜群のセンスの良さを感じさせるものばかりになってゆきます。

「何が、彼女をそうさせたか」、いや失礼、「何が加藤周一のファッションを変えさせたか」

一つは長年にわたる外国暮らしの影響で、欧米のファッションが身についてきたこと、そうして、もう一つは、1967年、加藤周一48歳のとき、ハワイで矢島翠と出会い、早くも翌年には、ニューヨークで同棲しはじめていますが、翠夫人が、公の場に出るときの、彼のファッションのコーディネーターをしていたのではないかと思うのです。

ファッションセンスなぞ、そんなに簡単に変わりません。ましてや50歳ともなれば、若かりし頃には、綺羅な美男子と謳われた人でも、顔の皺は増え、髪の毛は薄くなり、着ているものも苔の衣となっていくのが定番ですが、加藤周一は、最晩年に至るまで、その「老賢人」のような彫りの深いマスクは、次第に味わいを増していき、身に纏う衣裳も、抜群のセンスを感じさせるものばかり。

彼は翠夫人の「着せ替え人形」だった、などといえば、加藤周一にも、矢島翠夫人にも、失礼千万でしょうけれど、おそらく、加藤周一は、翠夫人に逆らうことなく(お任せして)、「コーディネイトはこうでないと!」と駄洒落をぶちかます翠夫人に、「あ、出た、翠ちゃんのいつものオヤジギャグ! 原稿用紙はA4でえ〜〜よん!」と加藤周一がこれまたオヤジギャグで言い返したかどうかは不明ですが、ともあれ、翠夫人にいわれたままの服を着用していたのではないでしょうか?

加藤周一が、三人の「妻」を冷酷無残に捨て去ることができたのは、彼のマザコンとインセストラブのなせる技でした。それらは、加藤周一を最晩年まで「美貌の大知識人」として輝かせることに成功しましたが、伴侶となって仕えた三人の女性にとっては、「マザコン男とは結婚するな」という俗世間のことわざを、身を持って、ホラー映画のように体験するあまりに辛い出来事となりました。

加藤周一の人生、まさしくそれは、ギリシャ語で言う「tragoidia=悲劇=羊の歌」として、彼に仕えた三人の女性の悲劇的な死を踏み台にし、1968年刊行のタイトルに埋め込まれた予言通りに、つまり、「予言の自己成就」をあますところなくなしとげて、「羊の歌あるいは悲劇」として、かくも見事に完結されたのです。

いま、彼の魂は、母、妹、自己の「三位一体」のアマルガムとして、天上界で、アンジェリック/セラフィックに輝いていることに間違いありません。



この項ここまで。
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番外-18 ぼくが上野毛の加藤周一邸から盗んだもの

番外-18 ぼくが上野毛の加藤周一邸から盗んだもの


Stonborough House 出典:http://d.hatena.ne.jp/ken106/20070122

以下を記すにあたっては、窃盗の刑事上の時効は7年、ということは念のために確認しましたが、民事では微妙です。ぼくのなかではいまでも、高校1年だったあの夏の日に、上野毛の加藤周一邸を訪問したさいの、「恥ずべき衝動的行為」として、罪悪感でぎゅぎゅっと締め上げられ、そのあとしばらく続いたPTSD的な緊張までもが、今日なお鮮明な記憶として残っていますが、加藤周一(あるいは同居されていた妹・久子さんご夫妻)にとっては、なんてことはない、日常のちょっとした異変でしかなく、久子さんの記憶のなかに、その異変が残っているとは到底思えない、あまりに些細なことでしょう。

ぼくは、多くの加藤周一ファン同様、中学時代、書店でたまたま偶然手にとった「羊の歌」で加藤周一にはまり、高校生になるまでには、都内の図書館などで入手できる加藤周一の著作はほぼ全て読破していました。当時のぼくにとって、加藤周一こそ、私淑する、我が「知のスター」、我が「知のアイドル」であり「日本で一番頭のいい人」「日本で一番博識の知識人」「日本が世界に誇る知性」と仰ぎ見る存在でした(いまでは日本で、いや、世界で一番頭が良いのは、間違いなく「浅田彰」と、ころりと宗旨替えしちゃいましたが)。

早熟だった友人の影響で、小林秀雄もかなり読みましたが、当時のぼくにはつまらなかった。なんてことはない、小林秀雄の、逆説や諧謔に満ち満ちた、クセとヒネリのある文章を、当時のぼくが理解できなかっただけの話。

小林秀雄の妹さんが、なにかの雑誌のインタビューに答えて「兄が大学(一高)に落ちたとき、それをわたしがからかったら、わんわんと泣き出しました」という箇所を読んで、「そんな小林秀雄、一度で良いから見てみたい」とばかりにゲラゲラ笑っていた自分が恥ずかしい限り。

小林秀雄と加藤周一は、実に因縁のある関係だったわけですが、そりゃもう、頭の良さに関しては、小林秀雄のほうが格段に上、と、いまではちゃんと正しい理解をしています。

また、当時はぼくも「羊の歌」は名文と思っていました。しかし、大学時代に膨大な本を読んだ後では、「羊の歌」は、ずいぶんと「素人ぽい文章」だなぁ、と感じるようになってしまいました。ぼくが特殊なわけではなく、数万冊のレベルで本を読んできた読書家ならば、誰しも、ぼくと同じような感慨を持つのではないかと思っています。それなりの知識人で、(「羊の歌」に書かれているその内容ではなく)「羊の歌」が(レトリックの観点から)名文だ、なんていうひとは、その人じしんが「文章のセンス」を自分のなかにまるで持ち合わせていない、音痴ならぬ文痴なのでは、とさえ思います。

たとえば、「加藤周一という生き方 鷲巣力 筑摩」の186ページに掲載されている「ジャポングレまたは『フラングレの事」を、ぼくが大学時代に読んだとき抱いた感想は「加藤周一って、なんて言葉のセンスのないひとなんだろう」という落胆の感慨でした。カタカナ語の氾濫を批判するため、自らがカタカナ語ばかりの文章を書いているのだけれど、そこで加藤周一によってセレクトされているカタカナ語のつまらなさ、それらをつなぎ合わせた文章の下手くそぶり。読んでいるこちらが恥ずかしくなるレベルです。

「カタカナ語ばかりだと、こんなにつまらない駄文しか書けませんよ」という「捻った裏の意図」は加藤周一にはなく、「ギャク」として、ある種の「面白み」のある文章を書こうとしている意図が明確に感じられるのだが、ここまで「言葉」のセレクトにおいてセンスがない「物書き」というのも珍しい。

比べるのは加藤周一があまりに可哀想と思うけれど、筒井康隆の、同じくカタカナ語だらけの「バブリング創世記」に感じる言葉のセンス、ギャグの上手さや面白さ。「さすが、筒井康隆、その文才は天下一品」とたちどころに判断がつきます。一方、加藤周一のほうは、気の利いた中学生なら、これより上手に書けるだろう、という超低レベル。朝日新聞の担当者も、こんなものを掲載したら加藤周一もおしまい、くらいの気構えで、周到なでっちあげの理由を編み出して、なんとしてでもボツにすべきだった。

そんなこともあり、いまのぼくは、加藤周一の文章は、どうにも全く面白みに欠け、特に晩年は下らない駄文が多く、その箴言は田舎の高校生レベルで、読んでるこちらが恥ずかしくなるものばかり、書いた詩にいたっては、「加藤周一のキモイ少女趣味をどうにかしてくれ〜鷲巣さん!」と叫びたくなるものばかりで「こんな幼稚な詩ばかりが収録されているものを『詩集』として出してくれる出版社がある、っていうのは、加藤周一というネームバリューがあるからだ。その点は、まったく羨ましい限り」といったところにまで、ぼくのなかでの加藤周一のポジションは堕ちてしまいました。

堕ちました。堕ちてはしまいましたが、こうして加藤周一の「裏」伝記の禿筆を呵そうと決意したのは、文中にたびたびしつこいほど出てきますが、ひと言でいうと「思わず溜息が出る美貌の知識人、晩年に向かって、どんどんと味わい深くなっていく芸術品のようなそのマスク、ユングの定唱した元型のひとつである『老賢人』そのものの面持ち、本当に素晴らしい。こんな女殺しの美丈夫な知識人は、いままでいなかったし、今後も出てこないだろう」と、要は、その外見に惚れ抜いているからです(プロフィールでもカミングアウトしていますが、ぼくはバイです)。この部分だけは、中学生のときから、一貫して、ぼくの加藤周一への想いは変わりません。美しい男性はいいですね。

要は、ジャニーズのおっかけ少女と何も変わりません。加藤周一のおっかけ。そうなると、おっかけの必然的行為というべきか、加藤周一の都内の自宅に行ってみたくて、どうにも仕方がなくなったのも理解していただけるかと思います。その頃のぼくは、加藤周一の完全な「ストーカー」と化していたわけです。ああ怖い。

いまは、自費出版などを除いて、ほとんど見かけなくなりましたが、昔の書籍では、奥付の部分に、著者の自宅住所や自宅電話番号が掲載されていたものがけっこうありました。他の出版社の編集者が当該書籍を読み、「面白い。この人に、今度はウチで書いて貰おう」となった場合などに備えて、のことでしょう。読者からの感想文送付先、という意味もあったかもしれません。

でも、ここ何十年くらいのあいだに、「ファン」と名乗る女性や男性が、作家の自宅を訪れ、室内に上げたら、ブスリと刺されて殺されかけた(あるいは殺された)という事件が幾つも起こり、上記のような古き良き風習は消滅しました。

しかししかし、ずいぶんと昔、まだその風習がかろうじて残っていた良き時代に、カッパブックスから出ていた「読書術」の裏表紙に、加藤周一先生のとっても怖そうなお顔と(三島由紀夫曰く「加藤周一の検事総長のような目」)、都内屈指の高級住宅街である上野毛のとある番地が掲載されていました。いまでも、「古書」でこの本を買い求めれば、掲載されていると思います。

「ここが加藤周一の自宅だな」と思ったぼくは、高一の、夏休みが始まったばかりの7月末、東急の上野毛駅まで行き、地図でその番地を確認し、徒歩で、その番地の場所まで行ってみました。

そこに建っていたのは・・・とても奇妙な建物、異様なまでにシンプルで、あたかもヴィトゲンシュタインが設計したかのような、コンクリートの打ちっ放しの二階建てで、1階と2階を結ぶ赤く錆びた外階段が、家の左右に付設されています。

当時のぼくは、この家が、加藤周一先生と妹さん夫婦との二世帯住宅だ、なんてことは当然知りません。

確かにその家は、本に記載されたとおりの番地に建っているのですが、「これが本当に加藤周一の家だろうか?」と疑問を抱かずにはいられない、何か「廃れた気配」が漂っていました。インターネット上にある「廃墟サイト」が醸し出す、あの寂廃した雰囲気・・・。加藤周一邸が、そんな様相を呈していたのは何故だったのでしょうか。謎です。

※現在は、この番地は3筆に分割されています。

加藤周一先生の家かどうか、さすがに、呼び鈴を鳴らす勇気はなく(今にして思えば、鳴らしてみればよかった)、長いこと、外から、その奇妙な形の家を観ていたのですが、赤く錆びた外階段の下のほうに「加藤」という、その辺のホームセンターで売っていそうな、木の表札があるのを見つけました。

「やはり間違いない! ここが加藤周一の自宅だ」と確信できたのですが、問題が起きたのはそのあとでした。それは、ぼくの人生ではじめての、押さえつけても押さえつけても、とぐろを巻いて沸き上がってくる、錯乱した黒い欲望でしたが、その表札を「訪問記念」としてどうしても持ち帰りたくて仕方がなくなりました。

高校1年生でしたから、それが「窃盗」という立派な犯罪である、という認識はきちんとあり「やってはいけないことだ」という倫理的な抑制はむろん強く働きましたが、高級住宅街ですからあたりに人気はまったくなく、また、「加藤」と書かれたその表札が、どこかにしっかり打ち付けてあって、簡単には取れないようにはしてなくて、赤さびた階段の下の方に無造作に置いてあるだけ、というのが、これまた、なんだか加藤周一先生が「そんなに欲しいなら持っていってもいいですよ。既製品なので、またすぐ買えますから。でも安物ですよ」と語りかけているようで、ついに・・・。

・・・帰途、立派な泥棒くんに変身したぼくは、とんでもない急ぎ足で移動、心臓の鼓動がはっきりと聞こえ、上野毛駅近くの交番前を通るときは、意識を失ないそうになりました。が、なんとか、自宅まで持ち帰ることができました。

その後、受験生のあいだで、一時期、他人の家の表札を盗む、という行為が、諸般の迷信から、合格祈願のひとつとして流行っている、と知りました。

某東大教授が「毎年、受験シーズンになると必ず表札が盗まれるので、安物を買って、持ち帰りやすいように、玄関の外に置いているけど、毎年5つか6つはなくなるね(笑)」というインタビュー記事も読んだのですが、ぼくの場合は、合格祈願ではなく、いわゆる追っかけのストーカー的な要素が強いものでした。ただし、念のためですが、それがぼくの人生で、最初で最後の「窃盗犯罪」となりました。

いま現在も、その「加藤」と書かれた、古びた木の表札は、「国宝級の宝物」として、自宅の本棚に飾られています。

加藤周一先生、ごめんなさい。とっくの昔に時効は過ぎていますが、これはれっきとした犯罪ですよね。時効の問題ではありませんよね。懺悔します。お詫びします。お許しください。なんとしてでもお返ししたいのですが、先生はもう天国ですし、ご存命の妹の本村久子さんや、本村夫妻ご子息の現住所をぼくは知りません。

ですから、この「加藤」の表札は、もうしばらくのあいだ、ぼくに預からせていただけないでしょうか。本村さんから「返して欲しい」という催促があれば、必ず返還いたしますので・・・。それと、あともう一人だけ、京都の戸建てに住む、晩年の先生のことを「あのアルツハイマー」と活字になるとわかっていて呼んでいた、先生とも大変親交の深かったアサダのアキラくんの家の表札を揃え、ぼくの人生を導いてくれた二人の偉大なる知性として、本棚に飾りたいと思っています・・・。



この項ここまで。
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12-12 K神話を解体する  唐変木と頓珍漢の名コンビ

12-12 K神話を解体する  唐変木と頓珍漢の名コンビ


林達夫邸 出典:https://blogs.yahoo.co.jp/fujisawamate/20173505.html

Wさんはご存命で、名誉毀損に抵触しないよう、以下、十分注意していますが、Wさんが「頓珍漢」というのは、Kを「褒めるとき」に限ってそうなる、という、大袈裟にいえば「文学上の論争」みたいなもの(笑 そんなわけねーだろ)ですので、お許しください。ま、Wさんが、こんな寂れたブログを見るわけもないと思いますが。

まず、ぼくの個人的な見解ですが、KよりWさんのほうが遙かに文才があり、達筆です。「『K』という生き方」(筑摩書房)の「まえがき」を読んだだけで、瞬時に、そう判断がつきます。多くの人が同様に感じるのではないでしょうか。

そんな頭脳明晰なWさん(文章からその人の頭の出来はだいたいわかるものです)がKを持ち上げるときだけは、いきなり「頓珍漢」なことを言い出すので、こちらはびっくりします。

Wさんには、戦後を代表する大知識人、Kが、Wさんを、唯一、最も胸襟の開ける、側近中の側近編集者として選んだ、その自負心がおありになると思います。当然でしょう。

で、WさんがKを持ち上げ褒めそやすときに「頓珍漢」になるのは、なんとしてでもKに関しての、世間や知識人からの誤解をとくため、K批判者(「Kを「唐変木」と絶妙な表現をした某知識人を含め)の皆さんが、いまだ知らざるエピソードを紹介して、そうした誤解を正していく「W戦略」を練りに練ったうえで、かどうかは知りませんが、「どうだ! あんたはKをこんな理由で批判するけど、Kはそれに反して、こういう面もあるのだよ。その知られざるエピソードを教えてあげよう」と大見得を切ったつもりが、一般読者が読むと、完全な的外れになってしまっている、しかし、Wさんにはそれがまるでわかっていない、というトホホな理由から、知らず、見事な「頓珍漢」になってしまっている、のがひとつ。

ふたつめは、Wさんは「Kに「寵愛」され、Kのあまりにも近くに、長く居すぎたことによって、Kを距離を置いてきちんと評価する目が曇り、屈曲して見えてしまう、いわば、出目金ちゃん状態。あるいは、金魚鉢のなかの金魚は変形して見えるのに「こんなデカイ出目金がいる!」と驚いちゃうのと全く同様、Kにたいしては「頓珍漢」になってしまっているのでしょう。

いろいろ事例をあげてみましょう。ランダムです。


八〇歳を過ぎてもKは「母親にああしてあげればよかった、こうしてあげればよかった」という話を涙ながらに語った」(実妹・本村久子氏談)(「Kを読む」359ページ)。

W→「情」に篤いKであったことを髣髴とさせる。

ブログ主→違うと思うなぁ。「情」に篤いKというけど、最初の結婚相手であった京都の令嬢に、離婚を告げに行き「人でなし!」と罵られているし、二番目の妻であるHさんには、KがYさんとの不倫愛にのめり込んだあと、「シュウイチは私を空気のように扱う」と、嘆き悲しませている。

これら愛し、やがて愛が醒め、最後には別れた女性たちにも、「(初婚の)A子には、ああしてあげればよかった、(再婚の)Hには、こうしてあげればよかった」と涙ながらに、妹・久子さんに語ったことがあると思います?

父母が他界したあと、たいていの人は「父にこうしてあげればよかった、母にこうしてあげればよかった」と多かれ少なかれ思うものだけど、50年たって、泣きながらこういうことを言うのは、ちと、異常で異様。Kの強烈なマザコンぶりと、明らかに、老人性の「dementiaの兆し」でしょう。

もう一つ、「続Hの歌」では、19歳の金髪オーストリア人女性、Hとの結婚を決意したときこんなことを書いています。(119ページ)

「(日本に残した女性 A子)にたいしては「愛していると思っていたに過ぎないということ、あるいはおそらく愛したいと思っていたにすぎないことを、(わたしは)実にはっきりと理解するようになった」

なんですか、この気取った「言い訳」は。人間、誰にでもあるけど、要は、相手への「愛が醒めた」わけでしょ、K先生。

「愛していると思っていた、あるいは、愛したいと思っていたにすぎないことを、はっきりと理解した」

こんな呆れた言い訳を、文章に書いて発表する、というその神経がよくわからない。ここでも、Kお得意の文章レトリックとして「対称性」が使用されているけど、2つ、対称的な理屈を並べれば、「かっこいい文章になる」という方を内容よりも優先しています。

「Kって、書いている内容なんて、実はどうでもよくて、明日になったら、ころりと正反対のことを平然と語りそうだ」という感覚がいまのぼくにはあるのだけれど、それは上記のような文章があちこちに見られるからなんです。

それと、この文章が最初に「朝日ジャーナル」に発表されたとき、多分、離婚したAさんは存命中で、Kの文章を目にすることが出来たはずです。

「愛していると思っていた、あるいは、愛したいと思っていたにすぎないことを、はっきりと理解した」

金髪19歳女性に溺れて、Aさんへの愛が醒めたのは仕方がない。しかし、書き方ってものがあるでしょ、いくらなんでもこの言い方は酷すぎる。Aさんやその親族がこの文章を読んだときの激痛や絶望、憤怒がわからないのだから、「情」に篤いKであった、なんて到底言えない。人間は、離婚とか、究極の状況にあるときに、そのひとの「本性」があらわになると思いますが、「冷酷無比なK」という言葉がふさわしいと思います。

やがて、Hさんへも、Yさんへも、「愛していると思っていた、あるいは、愛したいと思っていたにすぎないことを、はっきりと理解した」って言葉を、残虐そのもののやり方で実践し、絶望へと追い込むのになんの躊躇もない。

そのくらいなら、最初から「ぼくは※を誰よりも愛している。※以上に素晴らしい女性はいない」と、知り合った女性相手をどん引きさせるようなことを言って、独身を貫くべきでした。

W→Wさんは、Kに対する知識人サークルからの批判、「一刀両断の切れ味はあるがきめ細かさに欠け、冷徹ではあるが温かみに欠け、真面目であるが面白みに欠け、人情の機微が分からず理屈っぽい、という評価が世にあるように思われる」と全てを承知と見得切った上で、「しかし、それもずいぶんと的外れな評価である」と正反対の結論を下します。

そして、その上で、Wさんは、Kがいかに諧謔に富み、風刺が利き、遊び心に満ちていたかの事例として、Kがベルリンに住んでいたころ、住まいの在りかを聞かれて、

「認識論と存在論の交叉するところ」

とKが答えていたことをあげています。「カント通りとライプニッツ通りの交わるあたりに住んでいる」のを、そう表現したわけです(「Kという生き方」 170ページ)

ブログ主→まったく面白みに欠け、冴えた機知など、どこにも感じられない、「くだらない」のそのひとことで誰もが早々に片付ける、センスのない物言いだと思います。大学に入学したての、哲学科の学部生がいうなら、まだわかる。しかし、それですら「青臭くて恥ずかしいこと言うなよ」と回りから突っ込まれるのではないか。

Wさん、この事例紹介はまったく逆効果だと思いますよ。ぼくは本邦知識人サークルの完全な外部にいる人間だけど、「Kって、まるで面白くない、つまらぬことを、気取って話す人だなあ」と、平均的な読書家ならそう感じると思います。

W→「ジャポングレまたは「フラングレ」の事」(K 初出朝日1975年7月25日夕刊)について「Kのカタガナ語の氾濫を憂い、諧謔と風刺と遊び心の精神が発揮された記事」、と、これを高く評価(同上 186ページ)

ブログ主→「カタカナ語ばかりだと、こんなにつまらない駄文しか書けませんよ」という「捻った裏の意図」はKにはなく、「ギャグ」として、ある種の「面白み」のある文章を書こうとしている意図が明確に感じられるのだけど、上記を読めば、「ここまで『言葉』のセンスや才能のない物書きも珍しい」と、一般人でも感じると思います。カタカナ語がどうであろうと、その単語の「セレクト」には文才が必要。それが全くないということです。

W→「Kの文は美しい」と誰もが言う。

ブログ主→書いた詩は、読む側が恥ずかしくなる少女趣味が満載で、絶望的なまでに詩才がないので、退屈至極、散文は型にはまった対称性だけの使い古したレトリックが唯一の持ち玉で、70年以上膨大な文章を書き続けたのに、文章がほとんど上達していない摩訶不思議なひと。美しいというより、「素人にしてはなかなか整った文章を書くね」というレベル。

「Hの歌」の「高原牧歌」の章なんて、絶不調のときのプルーストが書いた文章みたいです。美文を書こうとしているのはわかるのですが、いかんせん文才がないので、素人臭さ満点の出来上がりになってしまっている。「三島のような文才があれば」とはさすがに言いませんが、音楽会の本番前のオケの練習する音と本番の調和したオケの音の比喩なんて、手垢の付いたものだし、挿入する場面も非常に不自然で、「一度あの見事な比喩をどこかで使いたかった」感がじんじんと伝わってきます。

W→「日本のヴァレリーはK」

ブログ主→これは、いくらなんでも、ヴァレリーに失礼。「Kはヴァレリーの影響を強く受けた」で十分。

W→「戦争は、モーツァルトを殺すことになるかもしれないからね」というKのセリフを肯定的に紹介。

ブログ主→典型的な「失言」だと思いますけど・・・。個人的には、メタファーとしてでも非常に不快です。

W→「生涯で四〇〇〇枚しか原稿を書かなかった林(達夫)は、どのようにして暮らしの糧を得ていたのだろうか」(Kという生き方 263ページ)

ブログ主→林達夫の妻、旧姓高瀬芳の生まれた高瀬家が、どういう家だったか、林達夫の担当編集者でもあったWさんが知らないわけがないと思います。

高瀬家の歴史は、日本の近代的知性の歴史といってもさしつかえない、大富豪、大地主、そしてパトロンでした。こういうことを書くのは「下品」とWさんは思っているのかもしれませんが、知や芸術の歴史は大富豪、パトロンからの援助なくしては開花しない、という面をしっかり見ていかないと、表層を掬ったことしかわからないと思います。



この項ここまで。
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10-1 複雑な彼ー封印された多くの謎を解く   Kの自叙伝 「Hの歌」のタイトルに秘かに埋め込まれた謎

10-1 複雑な彼ー封印された多くの謎を解く   Kの自叙伝 「Hの歌」のタイトルに秘かに埋め込まれた謎


出典:http://b.hatena.ne.jp/entry/233889671/comment/suzukidesu23

「Hの歌」というタイトル名は、Kじしんの公的説明では「わたしが、羊年に生まれ、羊同様おだやかな性格だから」ということになっています。

が、多くの人が、同じ羊年生まれの詩人、中原中也の「Hの歌」を意識しているだろう、Kは中原中也の詩を好んだから、と指摘していますが、大好きだった先行詩人の著作と全く同じタイトルにする、というのは、ちょっとKらしくない。プライドを持った物書きなら、尊敬する先行作家の著作と全く同じタイトルの本を出すというのは、著作権の問題もあるだろうけれど、「避けたい」と思うのが普通だと思うのです。

Wさんは、このタイトルに、彼なりの面白い疑問を抱いていました。

「なぜ『歌』なのか。中也の『羊の歌』は詩であり『歌』と表現するのは当然である。Kの『Hの歌』は半世記であり散文である。『歌』という必要は必ずしもない。にもかかわらず『歌』と謳った。その理由は何だろうか」(「Kという生き方」 筑摩書房 107〜108ページ)

大変面白い疑問だと思います。で、その謎解きの回答として、Wさんは「「Hの歌」にはいくつもの意図・主題が撚りあわされて編み上げられている。その意図のひとつに、「Hの歌」のなかには何人かの女性が登場するが、彼女たちに対する「女性賛歌」としての意図があったのではないか」(同上)と読み解いています。

う〜〜ん、唐変木、じゃない失礼、頓珍漢なハズレでしょう。仮に「女性賛歌」の裏の意図があるなら、いくらタイトルにセンスのないKでも違うタイトルにしたでしょう。

むしろ、某匿名掲示板に書き込まれていた、以下の指摘のほうが、いかにもKらしいと思います。

「「羊の歌」は、ギリシア語の悲劇 tragoidia(山羊の歌)を意識している。 K氏は、自分が羊年に生まれたから云々と説明しているけど、もちろん韜晦ね。」(某匿名掲示板)

「現在のヨーロッパ諸言語で悲劇を指す語は、古代ギリシア語において悲劇を指す語「トラゴイディア」(tragoidia)から発展したものである。トラゴイディアの原義は「ヤギの歌」であるが、なぜこの劇形式がそのように呼ばれるかについては諸説ある。その説の一つとしては、劇の背景や状況などを歌い上げる合唱隊コロスが、牧羊神の衣装を着ていたからというものがある。この説は有力なものとされているが、研究者間で意見の一致をみているわけではない」(ウィキペディア「悲劇」の項より引用)

この理由(韜晦)のほうがいかにもKらしいです。「ギリシャ語、ラテン語もわかるんだぜ」という隠蔽された自慢と自己満足。

ぼくは、こちらのほうが正解だと思いますが、Wさん、そのあたりどうですか?

で、問題は、韜晦にせよ、Kがなぜ自分の人生を「悲劇」と秘密裏に考えていたのか、ということになってきます。

この回答こそが、「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」ならぬ、Kの人生を終始一貫して流れていた「その真実の生涯」に他ならないのですが、それはまた別項で。



この項ここまで。

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12-10 加藤周一神話を解体する  「加藤周一はフランス語が下手くそだった?」

12-5 加藤周一神話を解体する  「加藤周一はフランス語が下手くそだった?」

仏語など、ほとんど読めもしなければ、書けもしないぼくが、Kの仏語能力について評価するのは「ちゃんちゃら可笑しいぜ」と自分でも思うのだけれど、幾重にも神話に包まれたKのオーラのひとつに「仏語を完璧に使いこなしていた」「英独仏ラテン語、ギリシャ語、イタリア語、スペイン語、中国語に堪能な語学の天才」という評伝がネット上で流布していて、しかし、その一方で、仏語の専門家は、Kの仏語について「訛りがある」といったコメントをしています。従って、身の程知らずは重々承知の上で、あくまで、「K神話のひとつを解体する」というその一点において、Kの外国語能力の実態を以下考察してみたいと思う次第。

「Kにおける時間と空間」(かもがわ出版)には、「Kがフランス語を完璧に使いこなし・・(27ページ)」というジュリー・ブロックの文章が出てきます。

一般の読者からすれば、「フランス語を完璧に使いこなし」という表現は、Kが、「仏語ネイティブ」と全く変わらないレベルの仏語使いであった、と解釈するのが妥当、であろうと思われます。

ネット上にも、そういう評価はあり、Kの他界後、彼が堪能だった外国語の数は、なんだか、だんだんと増えていっているようにさえ感じます。神話が形成されている訳です。

確かに実際、「十数カ国語に堪能な、ポリリンガルな語学の天才」という人は、ときおり本当に存在して、Kも、そういう人だったのかな、と、ネット上の評価を読むと、そういう「錯覚」に陥ります。

中村元東方研究所 
http://www.toho.or.jp/rekoe.php?co=24 
私の学生時代の先輩でテレビ局で番組制作をされている方から、評論家のKさんが新聞・テレビを問わずジャーナリストを集めて勉強会を開いておられると聞きました。私がその方に(まったく単純な聞き方なのですが)、「Kさんってひとことでいうとどういう知識人なのですか」と伺うと、「K先生は、英語、フランス語、ドイツ語、古代ギリシア語、ラテン語が堪能なのだけれど、ただ話せる、書けるというのではなくて、それぞれの言語の背景にある文化とか思想がおわかりになった上でのできるなんだよね」と言われました。

→中村元は、誰しもが認める「語学の天才」だったけれど、上記では、Kと中村元が、同一レベルの語学の天才、という流れになっていて「いくらなんでも、それはないでしょう」とパソコンの前で一人突っ込んでしまった。

K氏は何ヶ国語に通じているのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320081333
ご承知の通り、彼は世界各国の大学で教壇に立った偉大な方です。ドイツ語、フランス語、イタリア語にも通じていました。特に、ドイツ語は東大医学部で血液学を専攻されていらっしゃり、ほほ完璧だったはず。日本語、英語を足せば、最低でも5ヶ国語は、完璧にマスタ−されていたはずかと♪。

匿名掲示板
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1050090226/
Kは話すのうまかったよ。訛りがない。竹村(健一)さんはアメリカ滞在時はうまかったようだが、今はさほどでもない。 渡部昇一は東北訛りがひどいし。話すのは下手。 そういうのに比べると、(K)は、言葉の選び方も話し方も、むこうのインテリに近かったね。 あれには驚いた。

匿名掲示板
http://n2ch.net/r/7I5-D-4F-09YeT/english/1450527728/1-?guid=ON&rc=955
Kは、英仏独をこなし、さらに(日本語の)古語、古代シナ語も自由に読みこなす。 イタリヤ語とスペイン語もかなり読めたようだ。

上記を読むと「Kはポリリンガルな語学の天才」であった、という「神話」がすでに形成されています。しかし、Kと親交のあった浅田彰のコメントは異なります。Kが他界したさいの浅田彰の追悼発言。

浅田彰
https://www.sotokoto.net/jp/talk/index.php?id=14&page=4 ソトコト
英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳をもって話すんで海外の参加者からも一目置かれる。

浅田彰の仏語能力については、ぼくはいまだにどうしても信じられないのだけれども、浅田彰本人がいろんな所で語っているし、先日、「伯爵夫人」で三島由紀夫賞を受賞した、蓮實重彦御大も自ら書いているので、間違いのない話だとは思うけれど、当時東大駒場のフランス文学科の助教授だった蓮實重彦が訳出した「フーコー そして/あるいはドゥルーズ」(フーコー、ドゥルーズ著 小沢書店 1975年)のなかの「数十箇所に及ぶ誤訳」を指摘する、という途方もない手紙を、当時京都大学1年生だった浅田彰が蓮實に出しています。

のち、東大総長の位人臣まで極めた蓮實重彦助教授は、その当時、40歳前後、最も脂ののっていた新進気鋭の時期であり、過去、何度となく、長期間フランスに留学滞在しています。奥様は、仏語が母国語のベルギー人。当然、家庭でのピロートークでも、フランス語で会話を交わしていたでしょう。


悪口大魔王・意地悪怪獣 ハスミン


きゃわいい! オランウータン

たえず携えているジェラルミンケースにはマシンガンが入っているのだ、と噂され、超高級スーツを身に纏った身の丈190センチあまりのその偉容から、実は彼は香港マフィアなのだ、と駒場の学生に恐れられた蓮實重彦は、つま先から頭の天辺まで、驕慢なプライドの固まりで、父は美学専攻の京大教授・蓮實重康、祖父・蓮實鉄太郎は陸軍中佐、母方の祖父は木戸幸一・内大臣の秘書官を務めた小野八千雄、祖母の父は元海援隊士の関義臣「男爵」、自身は学習院から東大へ、という三島由紀夫と同じコースを辿っています。

とある討論会を傍聴していた学生から「なぜ大学の先生の言葉遣いというのは、こんなに難しいのですか?」という明らかに皮肉を含んだ問いかけに対し、蓮實重彦が「なぜ難しいか。それはあなたがバカだからです」と答えたエピソードはいまだに語り継がれているけれど、そんな蓮實男爵が、弱冠18歳の無名の京大1年生に、自分の翻訳書の数十箇所に及ぶ誤訳の指摘を受けたときの、彼の驚愕は、察して余りあります。

いくらなんでも浅田彰が、京大に入ってから始めて仏語を習い始めたとは思わないけれど(彼は高校時代、夏休みにはヨーロッパを駆け巡る旅行を何度もしている)、現在の浅田彰のフランス語がほとんど完璧であることに間違いはないでしょう(なお、浅田彰は、洛星中学1年の時、今は著名になっている数学者の卵を家庭教師に、古代から現代にまで至る、最先端で難解な数学の概念を教わっていたという。また、フランス語の学習は「アンチ・オイディプス」(1972年)を読むことで始めたというし、市田良彦に半年ほどフランス語の家庭教師をして、市田に仏語を完璧にマスターさせたという話も聞いた。)

むろん、これらも「K伝説」ならぬ「浅田彰伝説」とも呼ぶべき類のものではあるでしょう。

しかし、シンポジウム等でKと同席多数の、浅田彰が、「Kは、英語もフランス語もそんなに流暢ではない」という以上、そうだったのだろう、と推測します。

さらに、Kの身近にいた、仏語の専門家、鈴木信太郎仏文科助教授のご子息である、鈴木道彦(一橋大学教授、フランス文学)が、Kのフランス語の学力を表して、

「外国語が上手な人は、今では掃いて捨てるほどいるだろうが、私はKほど、外国語を手段として駆使できる人を余り他に知らない。作り出すのはフランス語だが、それはフランス人すらも容易に作り出せないフランス語であり、極端に言えば一種のK語であろう」
出典:http://kshu.web.fc2.com/sho.htm  頌 (月報その他)

と評価していますが、半分は褒めて半分は皮肉を込めて、といった風なコメントです。


鈴木道彦

また、Kの仏語の翻訳について、
http://book.asahi.com/booknews/interview/2013062600023.html 
『戦後思想の模索』でKのサルトル翻訳に誤訳が多いと指摘した海老坂の指摘もあり、読解能力のほうも、決して達者という訳ではなかったようです。なんとなくわかるな〜〜。

これらを総合すると、

「Kは、英独仏語に堪能で、それぞれの語で、ネイティブのような流暢さはなく、ブロークンなところはあったが、十二分に各ネィティヴのインテリと意思疎通や討論ができるだけの語学力、あるいは読解力があった。ラテン語、ギリシャ語も、自在というにはほど遠いが、一定の素養があった」

くらいではないでしょうか。間違っても河野与一や中村元レヴェル、つまり「語学の天才」ではなかった、というのが真相だと思います。

ありとあらゆる大物・先達知識人、さらには、年下・若手知識人、ただの東大生や小学生をも伐りまくり、あらゆる手法で罵倒する、上述の悪口大魔王、意地悪怪獣ハスミンですが、そんなにイヤなら、「賞を受けていただけますか?」という出版社からの「内偵・お伺い電話」の時点で、断りやいいのに、という反応が多い、先日の三島由紀夫賞の受賞会見でしたよね。

むべなるべきか、我らがヒーロー、東大医学部卒兼東大仏文科卒(相当)の「先輩」Kも、ハスミンの毒舌にズタズタにやられていたのです! Kのことを「府立一中(K)=日比谷高校(守章)の先輩」と呼び、何度も対談している渡邊守章先生とはそのあたりの品格がまるで違います。

彼が「腰を低くして話す」唯一のお友達、浅田彰がいろんなところで表明・発言している「結局、人間は顔だと思う」という究極の真実を突いた箴言があります。

このエピグラムを深く信奉するぼくとしては、だから、ハスミンが、あらゆるところでKをバカにする発言をしていても、何か裏寒いものを感じてしまうのです。だって、「美しい容姿の男に生まれる」っていうのは、ハスミンのいう、「あいつは馬鹿」なんていう、ある意味ど〜でもいい問題なんぞ軽く超越する、「永遠のアドバンテージ」ですもの。

ま、ま、それはさておき、ぼくの一番好きなハスミンの傑作な悪口は、学習院⇨東大と、同じ経歴の「先輩」三島由紀夫が、市ヶ谷自衛隊本部で自刃を遂げた際のもので、


「平民のくせに切腹なんかしやがって」


と吐き捨てるように言ったとか。長屋住まいの八っつぁん熊さんたちには、思いもつかない「名文句」でしょう。ハスミンの家格は前述のように「士族」であり、一部「華族」の血も入っていますが、三島だって、われわれ凡夫からすれば、「眩いばかりの名門の出自」といっても十分おかしくないのに、です。(※注1)

それにしても、ハスミンのKに関する悪口は、なぜかくも辛辣でかくも多いのか? いや、ほんと、それ自体が謎、という位に多いのです・・・。ま、叩きたくてしょうがなかったんでしょうね。わかります。

「でも愚鈍な近代主義すらないでしょう、Kには。『ある晴れた日に』なんて、村上春樹もびっくりするポストモダンぶりだ。あれは渡辺一夫流のユマニスムから、残酷さだけを受け継がなかった連中で、そもそも近代の何たるかを知らない」✳︎ユマニスム(フランス語)【humanisme】⇒ ヒューマニズム
出典:近代日本の批評

「あれだけの(戦後の)破壊と荒廃を目にしながら、誰も文学だけはなくなったと思っていないことがすごい。Kだってそうでしょう」
出典:同上

ハスミンによる村上春樹の悪口
「村上春樹作品は結婚詐欺だ」
出典:2003年3月号「すばる」

ハスミンによる村上春樹の悪口2
「僕は、はじめから村上春樹は小説家ではないという理由のない確信がある。何をやりたいんでしょうね、あの人は」
出典:「ユリイカ」臨時増刊「総特集 村上龍」青土社 1997年

→村上春樹をどのくらいまで高く評価するかはともかく、少なくとも、小説家として、ハスミンなど、足元にも及ばない才能の格差があることだけは確か。

ハスミンによる小林秀雄の悪口
「ペダンティックなメロドラマ」

ハスミンによる浅田彰の悪口
「浅田(彰)氏は、そのパースペクティヴとしては必ずユングを否定的に使うわけです。パリでの最初の講演のときの曼荼羅批判にしてもそうだけれど、日本を一つのフィクションとしてユング的世界に見たてた上でこれを否定する。ところがその否定の対象に心情的な愛着を示してしまい、ときには顕揚に近い態度が透けてみえてしまう。だから、彼に対する批判というかイヤミとしては『黙れ、隠れユング!』の一言でいいわけです」
出典:「闘争のエチカ」 

一方で、海外の第一級知識人には、ハスミンといえど拮抗できないこともある。以下、長い引用で恐縮ですが、ハスミンが油汗をダラダラと垂らしながら、即妙な切り換えしができず、内心、パニックになっている光景が眼前に浮かんできますので、長文引用お赦しあれ。ま、インタビュー前に、知人を介して、バイセクな彼女に「あなたとSEXしたい」なんていう、品性下劣な手紙を手渡す松岡正剛よりは1000倍もマシですけれど。正剛、お前は「本で出来たお家」ごっこでもやってろ、つーの。本をいかにたくさん読もうと、馬鹿は馬鹿、の現存在証明が、松岡正剛と宮崎哲弥の二大読書バカだ。宮崎哲弥が、「新書なら1日20冊は読める」とか某連載で自慢していたけれど、その辺の読書家の女子高生だって、新書なら20冊ごとき、軽く読める、つーの。文春の連載のつまらないこと、つまらないこと。文春も、あんな「バカの見本」のような連載、よく続けさせてるなぁ。


スーザン・ソンタグ
出典:http://www.susansontag.com


(引用ここから)
実は、意外に知られていないが、伝説の文芸誌『海』の一九七九年七月号で、創刊十周年記念・特別対談として、スーザン・ソンタグと蓮實重彦が対談しているのだ。
 
この「メタフォアの陥穽」というテーマで行われた対談は、今、読んでもめっぽう面白い。というのも、当時、『映画の神話学』『映像の詩学』を上梓したばかりで、まさに、向かうところ敵なしのカリスマ的存在であった蓮實さんが、唯一、ここではソンタグの前でタジタジになっているからである。そうなってしまった原因は、明らかに蓮實さんにある。

こんな不用意な屈折した社交辞令のような発言で対話を始めてしまったからである。
 
「今日、こうしてソンタグさんとお話しできるのは、大変嬉しいことだと思います。というのは、もう十年以上昔になりますが、ソンタグさんの『反解釈』という著作の翻訳が出たときに、私がこの『海』という雑誌で書評をしたことがあるからです。私の漠然とした記憶では、たぶん、少し悪口めいたことを言ったんじゃないかという気がします。その悪口というのは、もちろんあの書物の中に書かれている内容に関したものではなくて、当時、ソンタグさんの評判が日本ではあまり高かったので、たぶん一種の嫉妬のようなものから、一種のソンタグ神話批判めいたものを書いたわけです」
 
と語り、さらに、彼女がその若さと美貌から<アメリカ前衛芸術界のナタリー・ウッド>と喧伝された例を引いて、現代における神話的イメージについて言及したのだが、これがソンタグの次のような怒りを買ってしまったのだ。
 
「今日の対話のはじまり方は、私にとって、考えうる最も不幸なはじまり方です。一つには、私が出来るならばまったく関わりたくないと思っているまさにそのことを、蓮實さんの今ご発言は、促進するというか、永続させることに加担するものであるように、私には聞こえるからです。私の著作に関する書評で、私にまつわりついていたイメージゆえに、あるいは私がすでに有名になり過ぎていたがゆえに批判的な立場を取ったとおっしゃいましたが、そういうものなかったら取らなかったであろう立場を、そういうものゆえに取ったというのであれば、私にとっては考えられないことですし、また、批判すべきことでもあると思うのです。」
 
こうして極めて不穏なムードで始まった対話は、たとえば、<複製>と<複数性>という主題の意味を取り違えたりするなど、最後までギクシャクした感じが抜けきらなかった。だが、フローベールの『ブーヴァールとペキッシュ』とスーザン・ソンタグの小説『死の装具』を<宇宙論的な死のヴィジョン>という視点で比較した議論などはとても面白いし、批評家ではなく小説家としてのソンタグを積極的に顕揚するあたりに、蓮實さんらしいシニカルなイヤミさが際立っている。(引用ここまで)
http://www.seiryupub.co.jp/cinema/index.html
出典:清流出版 高碕俊夫の映画アトランダム


※注1
三島由起夫(平岡公威)の父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格し、農林省に勤務していた。母・倭文重(しずえ)は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父親(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三。祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村上富木の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪判決)。祖母・夏子は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志。祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代に渡って同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であり、江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の政治学が、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。
出典:ウィキペディア
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0-2-0 引用について

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羊の歌余聞


本ブログにおいて、カギ括弧「」で囲まれた引用文のうち、断りのないものは、すべて「羊の歌(上下)」岩波 からのものです。それ以外からの引用については出典・文献を明記します。



この項ここまで。
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0-1-0 前口上

0-1-0 前口上

羊の歌英語


この書籍(「表題未定」)においては、Kが何年何歳で、どのような「仕事」をしたかについては、メルクマールとなる重要な仕事を除いてほとんど触れません。Kという人物を「仕事」「思想信条」「日本文学史序説」「憲法九条」といった面からではなく、女性関係に乱脈で、自らに尽くしてくれた三人の妻を、いとも平然と捨てていくことのできた、彼の裏の人生(しかし、どちらが表でどちらが裏なのか)、離人症ともとれる精神疾患の影響、それと大いに関連のあるであろう、少年期の強烈なイジメられ体験、それに由来する「解離」現象、誰もが認める稀代の美男子、スーパーマザコンにして、妹さんとの生涯を通じたプラトニックなインセスト関係、等々を見てゆくことで、「Kの真実の人生」といった書籍に仕上げてゆきます。

Kじしんは、故人であり、その人生・評論・仕事・政治的活動などについて、一方では大いなる賞賛を、そして他方では、辛辣な批判を浴びた人物です。

ただし、逝去されて、はや八年とはいえ、彼の直接の関係者はまだ幾人か現存されておられますから、Kという「稀代の美男子」で、父方は「小池長門守を祖先に持つ、埼玉の豪族武家の家系」の出自であり、「東大医学部卒にして東大附属病院医局長の父」を持ち、「上流中産階級のブルジョア家庭」に生まれ、彼自身も父と同く「府立一中飛び級、府立一高、東京帝国大学医学部卒の医者」という、日本における最高学歴保持者であり、「日本を代表する知識人」「世界史的知性」「現代最高の知性」「知の巨人」「知の巨匠」「知識人の亀鑑」(丸谷才一)「(自分の立ち位置を常に指し示してくれる)『北極星』」(井上ひさし)「学問を志そうと心に決めた学生にとっての輝ける星」(森毅)「進歩的文化人」(福田恒存)「痴の虚人」「中共の犬」(谷沢永一)「林達夫のニセモノ」(向井敏)「西洋かぶれ」「女性にモテモテだから書くものがダメになる」(吉本隆明)「外国語がダメ」(平川祐弘)「アルツハイマー」(浅田彰)などと讃頌・罵倒され、「サルトルの親友」にして「九条の会の重鎮」でもあったKを、揶揄する意図では全くなく、あくまでも今でも彼のミーハー的大ファンのひとりとして、オマージュを捧げる意味を込めて、彼の「知られざる一生」を掘り下げていきます。

戦後の日本文学史・評論史、及び憲法九条等「護憲」にかかわる政治的活動家として、ひときわ明るい光芒放つ巨星、大知識人だったKの人生は、凡庸な大衆とは異なり、亡き今では、一定度のプライバシーの公開は認められると認識しています。

特に、幾重にも隠蔽されたその中枢的プライバシー、つまり彼の複雑な女性関係から、彼の思想の来歴を辿る、といった、故人で公的人物だからこそ許される転倒的手法のKに関する本が1冊くらいはあってもよいのではないか、と思いますが、彼の死後、そうした本はついに今日まで出版されませんでした。何故?

ただし、本稿においても、無法図に彼のプライバシーを暴くのが目的であるはずもなく、かくまで天下国家や古今東西の文学や哲学、さらには、中年〜晩年にかけて、戦後日本における、最後の朝日岩波文化人、左翼陣営最大の「ドン」の位置を、他者に譲ることなく最晩年まで君臨し、反対陣営からは「進歩的文化人」と逆説的に揶揄されることも多かった百科全書的知識人であり、膨大な書籍や対談記録を残したのにもかかわらず、こと、「女性関係」については、自叙伝たる「Hの歌」のなかでも、意図的な隠蔽やフィクションによる事実の攪乱工作があちこちに散りばめられています。

なぜ、彼、Kこそは、天が二物を与えたという巷の声も高く、セクシーな美丈夫、にして、一中一高帝大医学部卒の医学博士、と、凡人が仰ぎ見るような天下の秀才であり、少なくとも中年期以降は、女性関係において、乱脈な交遊が容易に推測できるものの、なぜかその点はひたすら寡黙で、驚くべきことに、というべきか、実の妹さんへの「赤裸々」で「近親相姦的」とも言い切ってよい「叶わぬ恋のうた」を詩集にして謳い続けたのか、最後のパートナー、故Y夫人を含む、少なくとも三人の、献身的に尽くしてくれた女性パートナーを無残に見捨て、死の直前、カトリックの洗礼を受けて、天国では「母と妹と自分の三人だけで、幸せに暮らす」ことを望んだのか、そうした「女性関係から解きほぐせそうなKの謎」を、彼の人生の足跡を辿ることで少しでも明らかにし、彼の直接の知己が減少していくいまの状態において、記録できるものは記録に残し、後世の優れた「K研究家」たちの役にたてる本になればと願っています。

古代ギリシャにおいては、為政者たる条件の第一は、神に愛されていることであり、その真偽は、容姿の美しさによって判断された、と言われています。神に寵(めぐ)まれていることが、知識人たる第一の条件であり、その真偽は、同じく、芝眉(しび)のピトレスクに依拠する国があってもいいのではないでしょうか。

そうともなれば、我が国において、Kが知識人筆頭となることに疑いの余地はないでしょう。

Kを「愚鈍な近代主義者」と切り捨てた「ポストモダンの知識人」のなかの、誰一人として、Kの「知的な美しさ」を凌駕できた者はいません。

Kと比肩し得るのは、例えば、ゲーテのような歴史上の人物だけなのです。エッカーマンは、八十二歳で没したゲーテの最後について、以下のように述べています。

「ゲーテは眠っている人のように、仰向けに身を伸ばして休んでいた。崇高で気高い彼の顔は、深い平和と安定感の漂う表情をしていた。力強い額はまだ何かを考え続けているように見えた。白いシーツに包まれた体の周りには、大きな氷の塊が置かれていた。フリードリヒがシーツを開いてくれた。私はその体の神々しいばかりの美しさに驚いた。胸は見るからに力にあふれ、広く丸く盛り上がっていた。体中どこにも太りすぎも見られず、やせすぎも見あたらず、衰えのかけらもなかった。完全な人間が偉大な美しさで私の目の前に横たわっていた。私はそれに見惚れ、この肉体から不滅の精神が消え去ってしまったことを、しばしの間忘れた。私は目をそらせ、こらえていた涙をあふれるに任せた」

出典
http://soumai.p-kit.com/page165292.html


さらには、他界後の、才色兼備な女性たちの追悼、

「世の中はつくづく不公平なものだと思います。
Kさんのことを考えると、とくにそうです。
容姿が良く生まれる。
思いやりのある性格に生まれる。
強い倫理観をもって生まれる。
恵まれた環境に生まれる。
さらには、尋常ではない、優れた頭脳をもって生まれる。
Kさんのことを考えると、こう言っては失礼かもしれませんが、いったいどこまでが、Kさんご自身の努力の成果なのだか、よくわからなくなります」

出典引用
水村美苗「冥誕 K 追悼」の寄稿「与え、与え、与え続けた」


ぼくは水村さんご自身にも、上記のことがことごとく当てはまると思いますが、水村さんの文章らしいと思うのは「容姿が良く生まれる」をトップにもってきたこと。

Kという大知識人については、膨大なコメントが今後もありえるだろうけれど、何はともかく、晩年に向けて、一層味わい深くさえなった、その「美貌」を取り上げないと、なぜ、Kが、戦後の日本で「スター知識人」でありえたのか、まったく説明がつかなくなります。


「正直なところ、Kの著作を読みはじめるきっかけとなったのは、書店で見つけた四〇代半ばのK氏の顔写真だった。(中略)著作家にはその著作にこそ感銘を受けるべきなのだろうが、肖像と言ってもいいようなその著者近影を見たときの衝撃を、いまも忘れることができない。真の知識人としての責任感、真の自由人としての覚悟、そして何より色気溢れる美しい面差しのこの人が、一体どのようなことを考えているのかを知りたい・・・。(中略)アトリエの壁にK氏の肖像を掛けている。しかし、著書は置かない。巻を措くことことあたわず、仕事にならないからである。」


出典引用は、髙澤そよか(ガラス作家)「私にとってのK」白沙会編 かもがわ出版 の寄稿文「そのこころとかたちについて」

「そして何より色気溢れる美しい面差しのこの人」。とってもストレートな表現ですが、まさにその通り。

日本の知識人史上、Kほど「色気溢れる美しい面差しの人」をぼくは知りません。本書では、ゲーテ侯にも比肩しうる、その知的美貌について、余すところなく書き尽くしながら記述していきたいと思います。



この項ここまで。
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0-0-0 項目の順序の筆者覚え書き規則

0-0-0 項目の順序の筆者覚え書き規則

日本文学史序説のためのノート
加藤周一による覚え書き手稿


「Kの一生」について、このブログでは第一章から時系列で記述することができません。各方面に取材を行ないながら執筆しているからで、「書けるところから書いていく」という方針です。

その場合、タイトル等に、時系列を明確にするため、1-a,1-b,1-c と冠をつけますが、1-bと1-cを書いたあとで、時系列的にも、収まり具合としても、そのあいだに入るべき項を書いた場合、1-bと1-cという冠表記には変更を加えず、新しい項を 1-b-a などとして、1-bと1-cのあいだに入るべき項目という「執筆者覚え」の表記にします。

1-aで書き始めたものの、それより前に入るべき項を書いた場合、1-0-aさらに、それよりも前に入るべき項をあとから書いた場合は、1-0-0-aなどと表記します。

いかにも煩雑な表記ですが、あくまで、本ブログにおける筆者の「一時的な覚え」のためであり、単行本化のさいには、こうした煩雑な表記を取り去り、なだらかでスムーズな表記になります。読者諸賢におかれては、なにとぞ、一時的に御容赦のあらんことを。



この項ここまで。
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加藤周一の真実の生涯 目次 訂正版

加藤周一の真実の生涯 目次 訂正版

羊の歌2


前書き

1 ザ・スーパースター。美貌と知のカリスマ
2 佐賀の大富豪の息子と県令の芸者腹の娘
3 埼玉県北足立郡X村の「お大尽様」一族
  小池長門守の末裔にして、戦国時代から「鴻巣七騎」としてその名を知られた在地土豪
4 第一の女 母は傾城の美女
5 母の願いを叶えた見合い結婚 三つ指をつく第二の女
6 第三の女は金髪未成年のオーストリア人
7 翠色の翼を持つ第四の女は天下の才女
8 離人症とアスペルガーとイジメと唐変木
9 第五の女ーインセスト我がユートピア
10 複雑な彼ー封印された多くの謎を解く
11「老賢人」としての教えー自由に生きること
12 加藤周一神話を解体する
13 加藤周一の生涯 そのあまりにも多い謎(さまざまな未解決の保留テーマはこの章に)
14 加藤周一の親族相関図
15 加藤周一の「裏」年譜 Kの真実の生涯
16 冗談
番外

後書き




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プロフィール

katoshu(カトシュー)

Author:katoshu(カトシュー)
補習塾講師(兼売れない作家)。中学生時代からの、Kこと、加藤周一の熱狂的ファン。現在は、浅田彰のカルト信者。商業版元からの、印税の発生する著作(ペンネームで執筆、ただしkatoshuにあらず)が3冊ほどあります。一番売れた本が、4刷で1万5千部ほどですが、現在は絶版になっています。

このブログでは、加藤周一の自叙伝「正・続羊の歌」をベースに、国内外・各方面の加藤周一関係者への意欲的な取材を行ないつつ、今後、このブログ上に、詳細な「加藤周一の伝記」を、順次、綴り掲載してゆきます。

「憲法九条」や「雑種文化」「日本文学史序説」の、「表」の加藤周一ではなく、その秘められた人生に光を当ててゆきます。加藤周一は、その思想より、彼の人生そのもののほうが、100倍面白いからです。

今から数百年後、加藤周一の膨大な著作のなかで生き残っている(=愛読され読み継がれている古典としての極位極官にある)のは自叙伝「正続羊の歌」だけではないでしょうか。「日本文学史序説」ですら、過去の遺物となり、国会図書館閉架式書庫の奥深くで長い眠りについていることでしょう。

最終的には、内容を吟味・精査・再構成して、紙媒体で「加藤周一真実の生涯(仮題)」としてスピンアウト自費出版する予定です。「面白そうだからウチで出してもいいよ」という奇特な出版社の編集者がおられましたら是非是非御連絡ください。「正続羊の歌」はミリオンセラーになっていますから、その腰巾着本なら、そこそこ売れるのではないかと、捕らぬ狸の皮算用をしています。

ブログ主katoshuの連絡先メアド:浅田彰の「彰」のラテン語表記のあとにアットマーク、そのあとはxvh.biglobe.ne.jpです。加藤周一に関する、ありとあらゆる、どんなささいな情報提供も大歓迎です。

情報をいただけた方には、上記単行本発行のさいに献本させていただきます。よろしくお願いいたします。

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